李鵬
テンプレート:政治家 テンプレート:中華圏の人物 テンプレート:Sidebar with dividers 李 鵬(り ほう、リー・ポン、本名李遠芃、1928年10月20日 - )は中華人民共和国の政治家。国務院総理(首相)、全国人民代表大会常務委員会委員長(国会議長に相当)、中国共産党中央政治局常務委員などを務めた。初代国務院総理の周恩来・鄧穎超夫妻の養子となり、建国の元老である養父母を後ろ盾として国務院トップまで上り詰めた二世政治家。
経歴
生い立ち
李鵬の父李硯勛は中国共産党初期の指導者であったが、中国国民党に処刑されたといわれる。周恩来とその妻鄧穎超は子供に恵まれなかったため孤児を引き取って養っており、李鵬もその1人であった。
1945年11月、中国共産党に入党。1948年から1955年までソ連に留学し、モスクワ科学動力学院で水力発電を学ぶ。帰国後、東北電管局所属の豊満水利発電廠や阜新発電廠で発電作業に従事。1966年からは華北電管局所属の北京供電局に異動。1979年、電力部に移る。
1979年から1983年にかけて、電力工業部副部長(次官)、電力工業部長(大臣)、水利電力部副部長を歴任。1982年9月の第12回党大会で中央委員に選出された。
国務院総理へ
1983年6月に国務院副総理。1985年の第12期党中央委員会第5回全体会議(第12期5中全会)で政治局委員、中央書記処書記に選出。同年6月、国家教育委員会主任(大臣級)に就任。
1987年11月の第13期1中全会で党総書記に就任した趙紫陽の後継として、国務院総理に指名され、政治局常務委員に選出される。1988年4月9日、正式に国務院総理に就任。
経済政策は引き続き趙紫陽が主管していたが、鄧小平が推進した価格改革によってハイパーインフレが発生し、趙紫陽は経済政策の転換を迫られた。李鵬は趙紫陽に替わって経済政策の実権を握り、1988年9月末の第13期3中全会で党指導部は経済改革をトーン・ダウンし、「調整・引き締め」を行うことを決定した[1]。ただし、李鵬も総理就任の活動報告で、価格改革の必要性を訴えていた。
1989年の第二次天安門事件では一貫して強攻策を主張している。趙紫陽が北朝鮮の訪問中に留守を託された李鵬ら保守派は鄧小平に事態を誇張して報告し、鄧小平は学生運動を動乱と認定する。その意向は4月26日付『人民日報』社説である「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」に反映された。この社説に対する見解を巡って趙紫陽と決裂し、学生との対話でも小バカにした態度に終始、さらに5月19日、党・国務院・人民解放軍などの幹部を集めた大会で行った講話でも学生たちの不満を煽った。
天安門事件によって趙紫陽総書記と胡啓立政治局常務委員の失脚が確定的となった後、鄧小平たち八大元老は総書記の人選に入ったが、李鵬が候補として挙げられた形跡はなく、上海市党委書記で学生デモや『世界経済導報』停刊の対応を評価された江沢民(当時政治局委員)の後塵を拝することになった。学生運動の開始後ずっと前面に出ていたため、国内外に対する印象の悪さも考慮されたと思われる。
李鵬は政局の安定を重視し、経済の自由化には消極的であった。天安門事件以降、李鵬ら保守派の影響力が強まり、改革開放路線は停滞すると、政局安定のために保守派と妥協していた鄧小平もついに業を煮やし、1992年の旧正月に広東省や深圳市などの経済特区を突如訪れ、改革開放路線の推進・加速を訴える談話を発表して回った(南巡講話)。これ以降、改革派が勢いづき、李鵬ら保守派は影響力を失っていった。
政局および政策の転換により、1993年の任期をもって総理を退任し、経済通の朱鎔基が後継者となるという見解が大勢を占めていたが、これに反して続投が決まった。総理候補として挙がったのが李鵬だけだったため、事実上の信任投票となったが、反対票は曽慶紅(2003年、国家副主席就任)と同率の12.5%(反対210票)に達した。1994年、国内の大反対を押し切って、三峡ダムの着工を強行。家族に電力会社関係者が多く、批判を集めた。
1993年、日本について、オーストラリア首相であったポール・キーティングが訪中した時に、「日本は取るに足るほどの国ではない。20年後には地上から消えていく国となろう[2]」あるいは「30年もしたら日本は大体つぶれるだろう[3]」といった内容の発言をしたとされている。また、1995年に「日本などという国は20年後には消えてなくなる」と発言したと、テレビ番組「TVタックル」(テレビ朝日系)で紹介された。[4]。
総理退任後
1998年3月、朱鎔基に総理の座を譲り、全人代常務委員長に就任。2002年4月に全人代常務委員長として訪日し、日中間の友好関係の構築について発言した[5]。2003年に退任し、政界から引退した。
2008年2月5日、脳梗塞を起こし北京301医院に搬送された。半年後の9月25日、高速鉄道「和諧号」に乗車しているところを報じられ、健在が確認された。2009年3月に開かれた全人代にも出席している。 一方で、2009年11月にカナダの明鏡網が、李鵬が重病との情報を伝えている[6]。
2010年6月、李鵬自身が第二次天安門事件勃発直前の動向についてまとめた手記が、香港にある新世紀出版社から出版されるとの報道があった。この手記は2004年に書き上げられたものの、党政治局によって発行禁止とされたために香港での出版となったが、直前になって版権を理由に出版が差し止められた。なお、同書はアメリカで出版にこぎつけているが、香港版と内容が同一であるかについては確認が取れていない。
年譜
- 1928年 中華民国上海市に生まれる(原籍:四川省成都市)
- 1941年 - 1955年 延安中学、延安自然化学院、張家口工業専門学校、北京工業学院、モスクワ動力学院 卒業
- 1945年 中国共産党入党
- 1948年 - 1955年 ソ連モスクワ動力学院留学
- 1955年 豊満発電工場副工場長、東北電業管理局
- 1966年 北京供電局党委代理書記、革命委員会主任、北京電業管理局長
- 1979年 - 1983年 電力工業部副部長、部長、水利電力部副部長などを歴任
- 1983年 国務院副総理
- 1985年 政治局委員、中央書記処書記(第12期5中全会)、国家教育委員会主任
- 1987年 政治局常務委員(第13期1中全会)
- 1988年 国務院総理、国家経済体制改革委員会主任
- 1998年 第9期全人代常務委員長
- 2003年 全人代常務委員長退任
「元宵」事件
『人民日報』海外版1990年3月20日号に、美国(アメリカ合衆国)留学生の作として、以下の七言律詩が掲載された。
東風拂面催桃李
鷂鷹舒翅展鵬程
玉盤照海下熱涙
遊子登台思故國
休負平生報國志
人民育我勝萬金
憤起直追振華夏
且待神洲遍地春
そのまま読めば、春の訪れを待つ愛国的な留学生の気持ちを詠ったものである。しかし、右斜め上から下に「李鵬下台平民憤」(李鵬が辞めれば民の憤りは収まる)という文が隠されていたため大騒ぎになった。「人民育我勝萬金」の列は、「人民有我勝萬金」と誤って紹介されることがある。
中文版李鹏下台嵌字诗も参照。
脚注
- ↑ 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史11>(講談社、2004年)、282ページ。
- ↑ 参議院議員笠原潤一は「米国人の方はどちらかというと日本人よりも中国人の方に親近感を感じているわけです、長い歴史の上からいっても。中国人社会がいかにアメリカの中に溶け込んでいるかというのは日本人社会以上ですから。そういう点からいえば、時々は米中はぎすぎすしますけれども、お互いの話というのは、コミュニケーションというのは非常にいいわけです、これはもう第二次世界大戦の例を見てもわかるように。ですから、その点では我々はそういう点をもう少し認識しないと、日米というよりも中米の方が本当を言えばタイトなんですよ、いろんなことからいって非常に関係が深いわけですから。そういう点で、その点もしっかり把握しておかないと日米という問題は将来大変なことになるだろう」と米中日の関係を話したうえで、次のように報告している。「この前、ちょうどAPECを控えて、我が自民党で御承知のようにAPECの問題でアメリカとオーストラリアに行ってもらったんです。そのときに、オーストラリアのキーティング首相がこう言ったんです。中国の李鵬さんと会ったらどう言ったかといいますと、日本とのいろんな話をしたら、いや日本という国は四十年後にはなくなってしまうかもわからぬと、そう言ったというんです。これはうそじゃありません、これはほかの先生みんな行って言っているんですから。それくらい軽視されているわけです、ある意味では。」テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 2006年7月3日の放送
- ↑ [1]
- ↑ [2]
関連項目
外部リンク
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