通州事件
通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に中国(中華民国)の通州において、中国人部隊(冀東防共自治政府保安隊)による日本人への襲撃が行われ、日本人居留民および日本軍部隊・特務機関が襲われて、日本人らが大量虐殺された事件。日本軍は壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害された。殺害方法も猟奇的なものが多かったとされる[1]。また朝鮮人慰安婦も殺害されている。
目次
背景
通州は、北平(現:北京市)の東約12kmにあった通県(現:北京市通州区北部)の中心都市で、日本人を妻とする殷汝耕が南京政府から離脱して設立した冀東防共自治政府が置かれていた[2]。また、北京議定書に基づき、欧米列強同様に日本軍が邦人居留民保護の目的で駐留していた。
盧溝橋事件、第二十九軍による日本軍攻撃
1937年7月7日に中国軍による駐留日本軍(この部隊は元々、通州に配置されようとした際に、梅津美治郎陸軍省事務次官が京津線から離れた通州への配置は北京議定書の趣旨では認められないと強く反対したために代わりに北京西北の豊台に配置された部隊であった[3])への銃撃に端を発した盧溝橋事件が勃発し宋哲元の第二十九軍と日本軍が衝突した。まもなく停戦協定が結ばれたが、7月13日に再び日本軍に銃撃する事件が起きて(大紅門事件)、7月25日に三度日本軍に攻撃を仕掛け(廊坊事件)、続く7月26日にも日本軍に攻撃を加えた(広安門事件)。
冀東政権によるアヘン密造
事件の起きた通州は冀東政権の本拠地でありアヘン・麻薬の専売・密輸による「中国毒化」の大拠点であった。当初は製薬会社が日本国内で阿片やヘロインを製造し中国に運んでいたが、大正末期になるとヘロインの製造を中国現地で実行し始めた。ヘロインの生産は中国政府官憲の前で公然と行なえるものではなかったので、日本の薬業者が現地生産をする際には日本軍駐屯地域内で日本軍を隠れ蓑にするという方法が取られ、充分な保護を得られる全くの安全地帯で麻薬を密造していた[4][5]。
満州でヘロインを製造した製薬会社の社長であった山内三郎は「冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、奔流のように北支那五省に流れ出していった」と記し[6]、中国の作家林語堂は「偽冀東政権は日本人や朝鮮人の密輸業者、麻薬業者、浪人などにとって天国であった」と記した[7]。
関東軍の誤爆
冀東防共自治政府保安隊は日本軍の支那駐屯軍司令部の指揮監督下にあり、1万余の兵力を有して機関銃や野砲も装備していた[1]。通州の宝通寺には中国第29軍の1個営が駐屯していた[1]。7月25日の廊坊事件翌日の26日、日本側は中国軍宝通寺部隊に対して北京への撤退を求める最後通告を行ったが、中国軍からの回答はなかったため、7月27日早朝、日本軍は攻撃を開始、正午までに宝通寺部隊は潰滅した[1][8]。この際、日本の関東軍の爆撃機が、誤って冀東保安隊幹部訓練所に爆撃し、数名の保安隊員が死亡した[1][8]。細木繁特務機関長は、冀東政府の殷汝耕長官に陳謝し、翌28日には保安隊に対して釈明し、賠償に誠意を尽くした[1][8]。
国民政府によるデマ放送
1937年7月27日に中華国民政府はラジオ放送を行い[9]、その中で「盧溝橋で日本軍は二十九軍に惨敗し、豊台と廊坊は中国軍が奪還した」との虚偽報道に続き[9]、「最近北京における軍事会議の結果、蔣委員長は近く二十九軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州の敵を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにあげる」と報じた[10][9]。この南京放送は、デマを流すので有名であった[1]。 これを受けて冀東保安隊が日本人を襲撃することとなった[2][11]。
冀東防共自治政府保安隊と第二十九軍の関係
通州保安隊はすでに人民戦線運動の影響を受けていたため、南京のデマ放送は、彼らの抗日態度を先鋭化させ、中国側に寝返った方が有利と判断したとみられる[1]。冀東防共自治政府保安隊の幹部張慶餘と張硯田は密かに第二十九軍と接触していた[9]。
このような中、第二十九軍の通州攻撃を防ぐために開かれた軍事会議上で張慶餘と張硯田は分散していた配下の保安隊を通州に集結させることを提案し、保安隊の監督を担当していた日本軍の通州特務機関長細木繁中佐[12](支那駐屯軍司令部付)も、日本人保護のためと認識してこれを了承していた[9]。保安隊が集結し準備が整うと深夜に通州城門を閉鎖し、通信手段を遮断すると決起した[9]。
事件発生
日本軍守備隊への攻撃
1937年7月29日午前2時、3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍へ攻撃を開始、殷汝耕を捕獲し、日本軍守備隊、特務機関を襲撃、日本軍は壊滅し、また日本人居留民を襲撃し、在留日本人385名のうち223名が虐殺された[11]。渡部昇一の主張によると、保安隊の兵力は千数百人、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約380名を襲撃し、260名が惨殺されたとしている[13]。
通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かっていたため留守部隊であり、藤尾小隊40名、山田自動車中隊50名、憲兵、兵站兵器部を合わせて110名程度であった[1]。
張慶余、張研田の両保安隊は午前二時に攻撃を開始、長官公署を襲って殷汝耕を拉致した[11][1]。保安隊の装備が遥かに優れていたため、日本軍守備隊は死傷者が続出し、通州特務機関は全滅した[11][1]。守備隊長藤尾心一中尉と通州特務機関長細木繁中佐も戦死した。
当時大使館付陸軍武官補佐官であった今井武夫は、「もっともこれは単に通州だけに突発した事件ではなく、かねて冀察第二十九軍軍長宋哲元の命令に基づき、華北各地の保安隊がほとんど全部、29日午前2時を期して、一斉に蜂起し、日本側を攻撃したものである」と述べている[14]。
日本人居留民への暴虐行為
冀東政府保安隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった[1]。
7月30日午後通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、飲食店の旭軒では40から17~8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺されていた[1]。日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したもの」であった[1]。
第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた[1]。帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた[1]。女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった[1]。カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた[1]。南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた[1]。
当時、同盟通信特派員の安藤利男はこの近水楼に宿泊していたが脱走に成功した[1]。
また支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた[1]。鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、ゴミばこや壕から続々発見され、ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた[1]。14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、口に土砂をつめてあったり、腹を縦に断ち割った遺体があった[1]。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていた[1]。
被害者数
在留日本人385名のうち223名が虐殺された[11]。
渡部昇一の主張によると、日本軍留守部隊約110名と日本人居留民約380名が襲撃され、260名が惨殺されたとしている[13]。
陸軍省の1937年8月5日の調査では死者184、男93,女57、損傷がひどく性別不明の遺体34、生存者は134名(日本内地人77、朝鮮人57名)だった[8]。
朝鮮人慰安婦の被害者数
テンプレート:See 当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』によれば、犠牲者の数は日本人104名と朝鮮人108名であり、殺害された朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦(慰安婦)にして在住未登録なりしもの」であった[8]。信夫清三郎は、朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示しているとした[8]。
その他の生存者の証言
- 九死に一生を得た日本人女性の発言「日本人は殆ど殺されているでしょう。昔シベリアの尼港事件も丁度このような恐ろしさであったろうと思います」[15]。
- 吉林生まれで5歳時に河北省の通県で一家の父母と妹が虐殺された者が、中国人看護婦により自分の子であると庇われ、九死に一生を得て日本に帰還した。父は医院を開業していたが、保安隊が襲う直前に遺書を書き中国人看護婦(何鳳岐:か ほうき)に預けたという[16]。
事件当時の反響
当時の反響
天津の支那駐屯軍司令部は、監督していた保安隊の反乱を不名誉として、陸軍省新聞班の松村秀逸少佐に新聞報道を制限するよう要請したが、松村秀逸少佐は、事件は北京近くで発生し、すでに北京の租界から全世界へ報道されているので無駄と応じた[8]。
東京日日新聞は1937年7月31日付号外で「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐」と事件を報道した。
日本共産党の創設にも関わった山川均は、雑誌『改造』1937年(昭和12年)9月号に「支那軍の鬼畜性」という文章を発表し、「鬼畜に等しい、残虐行為こそが支那の新聞では国民感情の昂揚に役立っているのである」「通州事件もまた、ひとえに国民政府が抗日教育を普及し、抗日意識を植え付け、抗日感情を煽った結果である」「支那の抗日読本にも日本人の鼻に針金を通せと書いてあるわけではない。しかし、人間の一皮下にかくれている鬼畜を排外主義と国民感情で煽動すると、鼻の孔に針金を通させることになる」と事件の残虐性と、中国の反日政策との関連について論評した[17]。
後世の評論
後世の評論だが、21世紀初頭の漫画家の小林よしのりは、通州事件によって当時の日本で反中感情の世論が巻き起こり、軍部支持に傾いたと主張している[18]。また、後世の歴史学者の江口圭一も、「通州事件は日本を逆上させ、暴支膺懲を加速し増幅させた。中国は通州での非行について高すぎる代償を支払わされることとなる」と記した[7]。
冀東政府による謝罪
1937年(昭和12年)12月22日、冀東政府政務長官の池宗墨と北京大使館の森島守人参事官とが会談し、冀東政府による謝罪と慰謝金、損害賠償120万円を交付し、事件は収束した[19]。12月24日には両政府で公文交換が行われ、「冀東政府より森島参事官宛て書翰」では、事件関係者が処罰または逃亡したと説明された[20]。
東京裁判における扱い
戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、弁護団は通州事件について、外務省の公式声明を証拠として提出しようとした。ウェッブ裁判長によって却下されたが、証言は残された[1]。
影響など
日本人の平均的倫理観から見て尋常ならざる殺害の状況(強姦され陰部にほうきを刺された女性の遺体、テーブルの上に並べられていた喫茶店の女子店員の生首、斬首後死姦された女性の遺体、腹から腸を取り出された遺体、針金で鼻輪を通された子供など)を生存者であった同盟通信記者安藤利男が「通州の日本人大虐殺」文藝春秋昭和30年(1955年)8月号で発表し、日本で反中感情が強まった[1][21]。
近年ではこの事件に対する報道は中国では皆無である。中国政府公式対外宣伝刊行物の『南京大虐殺写真集』の目次では『盧溝橋にて「北支事変」勃発、日本は華北を侵略する。日本軍は第二次上海事変を起こし、上海へ出兵する。』と述べており、この事件については一切触れられていない。
主犯の張慶餘は通州事件後は中国国民党軍に属し、最終的に中将まで昇格している[22]。
事件諸説
冀東防共自治政府保安隊が通州事件を起こした原因としては以下の説が存在している。
誤爆への報復
- 日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎を誤爆したことへの報復だったとして事件の責任は日本陸軍にあるとする説を当時の北京大使館参事官だった森島守人は『陰謀・暗殺・軍刀』(岩波新書、1950年)で提出している。他方、誤爆の事後処理は通州事件以前には終わっていたという見方も存在している[23] 。
ラジオでのデマ放送
冀東保安隊と国民党の密約(哥老会)
- 1986年に公表された冀東保安隊長・張慶餘の回想録や、中国で出版された『盧溝橋事変風雲篇』によると、張慶餘、張硯田の両隊長は、中国国民党第29軍とかねてから接触。「日本打倒」の事前密約をし、これが「通州決起」と関係していると記されていることから、中国国民党と張慶餘・張硯田両隊長の密約によるものとする説[25]。張慶餘と中国国民党第29軍の宋哲元はともに秘密結社哥老会の会員であったことが『盧溝橋事変風雲篇』では告白されている[25]。
また、張慶餘は「自分は日本軍が大挙して南苑を侵犯し、かつ飛行機を派遣して北平を爆撃したのを見て、戦機すでに迫り、もはや坐視出来ないものと認めて、ついに張硯田と密議し、七月二十八日夜十二時、通州で決起することを決定した」と書いている[25]。
岡野篤夫は、「宋哲元は日本の田代軍司令官を真の友人であると称し、日本軍との協力を誓っていた。日本軍は全く迂闊でお人よしだったと言えるが、その理由は日本軍に中国と戦う意思がなかったからで、目的とするところは、居留民の保護と権益の擁護であった。ところが、国民政府や中国共産党は、その権益擁護や日本人の居住することを侵略と考えていた」と評している[25]。
秦郁彦は張慶余の回想録以降は、通州日本軍の防備がうすくなった機会をとらえて反乱に及んだとする説が有力としている[26]。
麻薬汚染への報復
事件の責任
中村粲の主張では、たとえば平凡社『日本史大事典 第4巻』1993年などでこの事件の原因を日本軍とする記述に対して、民間の日本人市民を大量虐殺する責任を日本軍にするのは荒唐無稽と批判している[1]。松田純清も戦後の日本現代史研究者のそのような扱いについて同種の批判をしている[17]。
脚注
参考文献
- 森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』岩波新書、1950年。
- 安藤利男「通州の日本人大虐殺」文藝春秋昭和30年(1955年)8月号。(『文藝春秋にみる昭和史』第1巻、昭和63年(1988年)所収)
- 寺平忠輔『盧溝橋事件』読売新聞社、1970年。
- 防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書・支那事変陸軍作戦1』1975年
- 張慶余「冀東保安隊通県反正始末記」(『天津文史資料選輯』第21輯,1982年)
- 田中隆吉『裁かれる歴史』長崎出版 、1985年。
- 中村粲 『大東亜戦争への道』展々社,1990年 ISBN 4-88656-062-8
- 岡野篤夫『通州事件の真相』正論1990年5月号。
- 信夫清三郎 『聖断の歴史学』 勁草書房,1992年6月。
- 平凡社『日本史大事典 第4巻』1993年。
- 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』東京大学出版会,1996年。
- 大杉一雄『日中十五年戦争史』中公新書、中央公論社、1996年。
- 調寛雅『天皇さまが泣いてござった』教育社,1997年。
- 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言スペシャル・戦争論』幻冬舎、1998年。
- 江口圭一 「盧溝橋事件と通州事件の評価をめぐって」、『季刊戦争責任研究』第25号、1999年9月 ISSN 13437348
- 江口圭一『十五年戦争研究史論』校倉書房、2001年。
- 何立波「『華北自治運動』中的冀東偽政権」『二十一世紀』網絡版総第49期、2006年4月。
- 松田純清「通州事件について」偕行社近現代史研究会報告第10回、平成19年(2007年)10月号。
- 広中一成 「通州事件の住民問題」、軍事史学会編『日中戦争再論』、2008年 ISBN 978-4-7646-0322-6
関連項目
外部リンク
- 通州事件(kotobank.jp)
- 通州事件の語られ方(国際ワークショップ : 日中全面戦争と地域社会変容II)
- 通州兵変の眞相: 安藤同盟特派員流血脱出手記 附・北支事変従軍記者陣中日記, 森田書房, 昭和十二年八月九日
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 1.19 1.20 1.21 1.22 1.23 1.24 1.25 1.26 中村粲 『大東亜戦争への道』展々社,1990年
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- ↑ 今井武夫『支那事変の回想』・『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』テンプレート:要ページ番号
- ↑ 『各社特派員決死の筆陣「支那事変戦史」』新聞タイムズ編(皇徳泰賛会)昭和12年12月18日発刊
- ↑ ハンゼン氏病よさようなら(1963) 新道せつ子 主婦の友社 東京テンプレート:要ページ番号
- ↑ 17.0 17.1 「通州事件について」偕行社近現代史研究会報告第10回、平成19年(2007年)10月号。
- ↑ 『新ゴーマニズム宣言スペシャル・戦争論』幻冬舎、1998年
- ↑ 大阪朝日新聞昭和12年12月23
- ↑ 東京日日新聞昭和12年12月25日
- ↑ 『東京裁判(上)』朝日文庫テンプレート:要ページ番号
- ↑ 2007年6月25日 網易NetEase1937年通州事变:一场起义伪军对日军民的杀戮 「張慶餘(1895---1963)1933年任冀東特種警察隊第一總隊隊長。1935年11月改任偽冀東保安隊第一総隊隊長、1937年7月率部起義、転保定、洛陽、西安、於1938年隱居四川金堂県什坊鎮。後被委任為国民党軍委会中将参議。」
- ↑ 23.0 23.1 寺平忠輔『盧溝橋事件』などテンプレート:要ページ番号
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- ↑ テンプレート:Cite book