火薬陰謀事件
火薬陰謀事件(かやくいんぼうじけん、テンプレート:Lang-en-short)は、1605年にイングランドで発覚した政府転覆未遂事件である。イングランド国教会優遇政策の下で弾圧されていたカトリック教徒のうちの過激派によって計画されたものであるとされてきた。首謀者はロバート・ケイツビー、実行責任者はガイ・フォークス。上院議場の地下に仕掛けた大量の火薬 (gunpowder) を用いて、1605年11月5日の開院式に出席する国王ジェームズ1世らを爆殺する陰謀 (plot) を企てたが、実行直前に露見して失敗に終わった。これにちなんだ祭事が毎年イギリス各地で開催されている。
なお、ここでいう「1605年11月5日」とは、ユリウス暦に基づく日付である。事件当時のイギリスでは、未だグレゴリオ暦は採用されていなかった。グレゴリオ暦での日付は、1605年11月15日である。以下の記述も、特別の記載がない限りユリウス暦での日付(グレゴリオ暦より10日早い日付)である。
容疑者
右の絵は、事件の容疑者を描いたオランダの銅版画である。左から順に、
- トマス・ベイツ (Thomas Bates)
- ロバート・ウィンター (Robert Wintour (Winter))
- クリストファー・ライト (Christopher Wright)
- ジョン・ライト (John Wright)
- トマス・パーシー (Thomas Percy)
- ギド(ガイ)・フォークス (Guido (Guy) Fawkes)
- ロバート・ケイツビー (Robert Catesby)
- トマス・ウィンター (Thomas Wintour (Winter))
となっている。なお、この絵は「7人の英国貴族」と題されており、主犯ケイツビーの使用人であったベイツは、「不運にも事件に巻き込まれた存在」と位置付けられている。
この他、ロバート・キーズ (Robert Keyes) 、エヴァラード・ディグビー (Everard Digby) 、フランシス・トレシャム (Francis Tresham) などが協力者として名を連ねていた。
背景
離婚問題のこじれという個人的な理由でローマ教皇庁と対立したイングランド王ヘンリー8世は、1534年に国王至上法を発布して、教皇庁と袂を分かった。彼はローマ教皇に代わって自らがイギリス教会の首長であることを宣言した。これがイングランド国教会の起こりである。ヘンリー8世は自分に従わない聖職者を処罰・処刑したり、修道院の所有していた土地や資産を没収するなどの政策を推し進めた。『ユートピア』の著者トマス・モアもヘンリー8世の離婚問題で疑義を呈したことから刑死に追い込まれた。ヘンリー8世の死後、熱心なカトリック信徒であったメアリー1世はイギリスをカトリック教会に戻すべくプロテスタントに対する弾圧を行い、「血塗れのメアリー (Bloody Mary) 」の異名をとった。
続くエリザベス1世は完全なカトリックへの復帰も、過激なプロテスタンティズムへの傾斜もとらないという「中道政策 (Via Media) 」 によって英国国教会の位置付けを明確にし、彼女を排除する計画に関わったスコットランド女王メアリー・ステュアートを捕らえた。エリザベス自身は処刑に消極的であったが、最終的には死刑執行書への署名を決断、1587年に刑が執行された。この事件はカトリック教会の守護者を自認していたスペインにイングランド攻撃の口実を与え、1588年のアルマダ海戦へと繋がっていく。イギリスのカトリック・シンパの間ではメアリー・ステュアートは「殉教者」として称えられることになった。
そのメアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世は、1603年にイングランド王ジェームズ1世として即位した。母親と同じカトリックの信仰を持つジェームズの即位は、カトリック教徒にとって暗闇に差し込む光になると思われた。その一方でカトリック信徒と同じく不遇をかこっていたピューリタン(清教徒)は1603年4月、戴冠のためエディンバラからロンドンに向かうジェームズに対し、「千人請願」と呼ばれる書状を提出し、清教徒に対し寛容な政策を採るよう訴えた。これを受けて翌1604年1月、ハンプトン・コートに各宗派の代表が集い、会議 (Hampton Court Conference) が開催された。ところが、この会議で国王は「主教なくして国王なし (No bishop, no King)」との言葉に象徴される、国教会優遇政策堅持の宣言を行った。この結果は、清教徒のみならず、カトリック信者にとっても極めて不利なものであった。
発案
この閉塞状況を打破するための方策として首謀者ロバート・ケイツビーが導いた結論こそが、ウェストミンスター宮殿内にある議事堂の爆破という前代未聞の陰謀だったのである。「国王を殺害するのみならず、国会議員の多数を占める国教徒、そして清教徒をも同時に殲滅して国会の機能を麻痺せしめ、代わって政権を掌握したカトリック教徒がイングランドに至福の王国を建設する」。この遠大な目標を達成すべく、ケイツビーは1603年の四旬節に、トマス・ウィンター(ケイツビーのいとこ)、及びジョン・ライトに対し、議事堂爆破の計画を打ち明けた。
これを聞かされたウィンターらは当初、この途方もない計画を果たして本当に遂行できるのかと疑問に思い、難色を示した。だが、彼らは結局ケイツビーの説得に応じ、計画に参加することを承諾した。1604年4月、ウィンターはケイツビーの密命を帯びて、フランドルへ渡った。彼は、イギリスとの和平交渉のためスペインから同地に赴いていたフリアス公ファン・デ・ベラスコ (Juan de Velasco) に協力を仰いだが、実のある返答は得られなかった。
ウィンターはまた、イングランドから同地に渡っていたガイ・フォークスのもとにも向かった。フォークスは熱烈なカトリック教徒として育った人物であり、かつネーデルラントでの従軍経験から火薬類の取り扱いに長けていた。ケイツビーに実績を買われたフォークスは、後に計画の実行役として動くこととなる。
4月末に英国へ帰還したウィンターとフォークスは、ケイツビー、ジョン・ライト、及び新たに加わったトマス・パーシーと面会し、互いに秘密を厳守するとの誓いを立てた。
のちに、ロバート・キーズ、ケイツビーの使用人トマス・ベイツ、イエズス会員ヘンリー・ガーネット (Henry Garnet) らが陰謀に加担した。
進行
彼らの計画は、王宮近くに活動拠点を置くことから始まった。
トマス・パーシーは第9代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー (Henry Percy, 9th Earl of Northumberland) の遠縁であり、比較的宮廷に近い位置にいた。王宮周辺に最も顔の利くパーシーの働きによって、彼らは上院に隣接した家を見つけ、5月24日に年12ポンドで賃貸契約を締結することに成功した。この借家から上院直下の地下室に至るトンネルを掘り進め、その地下室に火薬を仕掛けることを試みたのである。
借家の鍵はガイ・フォークスに渡された。以後、フォークスはパーシーの使用人を装い、「ジョン・ジョンソン (John Johnson)」という偽名を名乗って地下活動に従事することとなった。
火薬の保管場所として使用するためにランベス区でも家を借り、ロバート・キーズが担当として置かれた。一味は一旦解散して、ミカエル祭の時に再び会うことにした。再会した彼らは、掘削を始めるべき時が到来したとの見解を互いに確認した。
掘削作業は12月11日から開始した。家への出入りを頻繁に行うと周囲に怪しまれるので、彼らはあらかじめ大量の食料を用意し、泊り込みで立ち塞がる土や岩盤と格闘した。慣れない肉体労働に苦しみながらも、彼らは絶えず働いた。この時期に、クリストファー・ライト、ロバート・ウィンターが計画に加わった。
その後、彼らは夜の闇に乗じて、ランベスから小舟で運んだ火薬をパーシーが借りた家に搬入した。1605年のイースターの頃、作業中であった一味の真上で轟音が鳴った。彼らは計画が発覚したのかと思い、不安に駆られた。しかし調べた結果、王宮の地下貯蔵庫に置かれていた石炭を除去する音であったことが判明。トンネルを掘削するという当初の計画を放棄して、彼らはこの地下貯蔵庫を年4ポンドで借りることを決めた。
早速火薬の入った樽が次々に運び込まれた。爆発の威力を増加させるため、中に鉄片や石を混ぜ込むという念の入れようであった。同年5月、上院直下の地下室は、うずたかく積まれた燃料用の薪束の下に隠された36樽もの火薬で満たされた。
ガイ・フォークスは、他者が偶然あるいは故意に家に入った場合に疑いを持たれぬよう、地下室を整理した。フォークスはその後、かねてより助力を仰いでいたウィリアム・スタンリー (William Stanley) 及びヒュー・オーウェン (Hugh Owen) に経過を通知するためにフランドルに入り、8月に戻った。一方ケイツビーはパーシーに対し、人手や資金が不足しているため、信頼できる者を引き入れねばならないと提案した。彼は、エヴァラード・ディグビー、フランシス・トレシャム、アンブロー・ルークウッド、及びジョン・グラントに計画を伝えた。ディグビーは1,500ポンドの寄付を、またトレシャムは2,000ポンドの寄付を申し出た。パーシーは、10頭の駿馬を調達することを約束した。
密告
全ては周到に進められているかに見えた。しかし、カトリック議員までも殺害することになるこの計画に対しては、疑問の声もあった。この意見の相違が原因となったのか、計画は1通の書簡によって狂わされた。
開院式を目前に控えた10月26日の晩、第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカー (William Parker, 4th Baron Monteagle) のもとに、匿名の書簡が届けられた。書簡には、開院式への出席を取りやめるよう警告する文章が書かれていた。モンティーグル卿は、この書簡を直ちに第5期初代ソールズベリー伯ロバート・セシルに見せた。
書簡の差出人は遂に判明しなかったが、モンティーグル卿の義弟であったトレシャムとの説が有力である。
ケイツビーらは、書簡がモンティーグル卿の手に渡り、しかもトマス・ウィンターが逮捕後の11月23日に行った告白の中で展開されているように、ソールズベリー伯が所有しているということを知っていた。にも拘らず、彼らは予定通り決行することを決めたのである。地下室を検査したフォークスの報告から、火薬が他者に触れられた形跡のないことが判明したことにより、計画の成功を確信したためとみられる。
こうしてガイ・フォークスは、火薬の見張りと点火を行うため、地下室に残された。他の陰謀者はウォリックシャー (Warwickshire) のダンチャーチに逃れ、固唾を呑んで報せを待った。
破局
しかし、議場が爆音に包まれる日は来なかった。地下室は、まさに開院式当日、11月5日の未明に治安判事トマス・ナイヴェット (Thomas Knyvet) によって襲撃されたのである。ナイヴェットは上院直下の地下室にてガイ・フォークスを発見し、一帯の捜索を命じた。当局は火薬の入った樽を発見し、フォークスを逮捕した。
ジェームズ1世の寝室に連行されたフォークスは、当初は完全黙秘を決め込んだ。しかし、投獄されたロンドン塔にて、王の許可のもとで行われた凄まじい拷問の末、事件の全容を白状した。
スタフォードシャー (Staffordshire) にあるケイツビーの隠れ家にも、11月8日に捜査の手が入った。トマス・ウィンターは、肩に銃撃を受けた。続いてクリストファー・ライトとジョン・ライトが殺害され、ルークウッドが負傷した。ケイツビーはなおも抵抗を試みたが、パーシーと共に殺害された。残った生存者は全員投降した。
逮捕された容疑者は全て、ウェストミンスター・ホールで裁判にかけられた。1606年1月30日、ディグビー、ロバート・ウィンター、グラント、及びベイツはセント・ポール教会の西端にて処刑、また翌日にはトマス・ウィンター、ルークウッド、キーズ及びフォークスが処刑された。最後に残ったガーネットも、やはり審理の結果、死刑が確定した。彼は、事件への積極的な関与の否定を叫びながら、5月3日に処刑された。
なお、上で述べた「上院地下に通じるトンネルの掘削」は事実ではなく、容疑者らの取調べの際、事件の猟奇性を高めるために捏造されたものであるとされる。
事件を契機に、1606年に宗教刑罰法 (Penal Laws) が強化され、カトリック教徒への弾圧はさらに苛烈なものとなった。
現代の物理学者の試算によると、「仮に計画が実行されていた場合、ウェストミンスター宮殿の大半は破壊され、半径1km圏内の窓ガラスが割れていたであろう」とのことである(なお、窓ガラスが一般に普及するのはごく最近のことであり、「窓ガラス」という表現を用いたのは爆発の威力を説明するために過ぎない)。
その後
事件以後、「11月5日」という日はイギリスにおいて、特別な意味をもって記憶されることとなった。1606年1月、議会は11月5日を「命を救い給うたことを神に感謝する日」として、法定の祝日と定めた。この制度は1859年に廃止されるまで、2世紀半にわたって続いた。
また名誉革命(1688年)の際には、カトリック信仰を奉ずるジェームズ2世を廃してイングランドの新国王となるべく決起したオラニエ公ウィレム3世(のちのウィリアム3世)は、イングランドのトーベイへの上陸日を11月5日に設定した。
この事件は新旧両教派間の深刻な対立構造を改めて示したが、これがのちの北アイルランド紛争を惹起する原因の1つとなったといわれる。事件を契機に、毎年国会の開院式前には、赤い制服を身にまとった王衛兵 (Yeomen of the Guard) が議場をはじめ王宮一帯をくまなく点検する儀式が行われているが、紛争とそれに伴い頻発したIRAのテロ事件を背景として、現在では単なる行事の域を遥かに超えた大規模なものとなっている。
ガイ・フォークス・ナイト
イギリスでは、11月5日(ただしグレゴリオ暦)は「ガイ・フォークス・ナイト」と呼ばれている。毎年この日には、「ガイ (guy) 」と呼ばれるフォークスを表す人形を市中に曳き回したのちに篝火で焼く行事が各地で行われた。現在では、専ら打ち上げ花火を楽しむ祭りとなっている。
異説
Scholastic社刊のThe Slimy Stuarts(ISBN 9780590134828)によれば、これはそもそもジェームズ国王がしくんだ偽の事件であるという説がある。箇条書きで簡単に書かれているが、これが事実であるという書き方になっている。翻訳すると次のようになる。
ジェームズはイングランドに到着当初あまり人気がなく、人気取りのためにこの事件をしくんだ。やり方は、まず敵を作る(カトリックが望ましい)、次にその中に紛れ込ませた手下に「国王と大臣全てを吹き飛ばす」計画を吹き込み、計画実行直前に逮捕する。
なお、この本を含むHorrible Historiesシリーズは、歴史の副読本のような作りになっており、小学校もしくは中学校で実際に使われることを想定して書いたと思われる。Scholastic社には、教師用のウェブページもある。
関連項目
関連書籍
- アントニア・フレイザー、加藤弘和訳『信仰とテロリズム―1605年火薬陰謀事件』 慶應義塾大学出版会、2003年、ISBN 4766409671
外部リンク
- ブリタニカ百科事典第11版(英語)
- カトリック百科事典(英語)