ウェストミンスター宮殿
テンプレート:Infobox テンプレート:Coord ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)は、イギリス、ロンドンの中心部テムズ川河畔に存在する宮殿。現在英国議会が議事堂として使用している。併設されている時計塔(ビッグ・ベン)と共にロンドンを代表する景色として挙げられる。所在地はロンドンのミルバンク。なお近隣のテムズハウスは保安局(MI5)の本部となっている。
歴史
ウェストミンスター宮殿のおかれているテムズ川河畔は中世を通して戦略上の要衝であった。すくなくともアングロ・サクソンの時代には既にこの地に何らかの建物が建設されていた。ソーニー・アイランドとして知られるイングランド中世にはカヌート王によって初めて宮殿として用いられるようになり、サクソン王朝の最後から2代前の王エドワード懺悔王はシティ・オブ・ロンドンの西、ソーニー・アイランドに宮殿とウェストミンスター寺院を建設した。時代が下るとこの周辺の地区はウェストミンスター(Westminster)と呼称されるようになった。これは西方の修道院(West Monastery)の省略形であると考えられている。1066年のノルマン・コンクエスト時にはウィリアム1世は一時ロンドン塔を自身の住居として定めたが、後にウェストミンスターへと移っている。これらサクソンやウィリアム1世により使用された建築物は現在残っていない。宮殿における最古の部分は次代のウィリアム2世により建造されたものである。
中世後期をとおしてウェストミンスター宮殿は王の住居であり続けた。イングランド政府が成立すると、公共施設の多くはウェストミンスター周辺に建設されている。議会の前身であるキュリア・レジス(Curia Regis, 枢密院)はウェストミンスター・ホールに設けられた。1295年に設立された初めてのイングランド議会である模範議会も宮殿内で開催されている。このようにほぼ全ての議会は王の居住する宮殿内で開催されたが、何らかの理由により他の場所に設けられたことが数例ある。
1529年の大火が発生するまでウェストミンスターは王の宮殿として機能していた。1530年にヘンリー8世はヨーク宮殿をトマス・ウルジー枢機卿から手に入れ、ホワイトホール宮殿と改名して自身の宮殿として使用した。公にはウェストミンスター宮殿が住居であったが、実際には二つの議会および裁判所として利用されていた。本来宮殿であったウエストミンスター宮殿には議会としての利用に適した部屋が存在しなかった。議会の開会式など重要な国事行事はPainted Chamberで執り行われた。貴族院はホワイト・チャンバーで、庶民院については固定した開催場所が存在せず、時にはウェストミンスター寺院のチャプター・ハウスで開催されている。その後宮殿内の聖ステファン教会が議場とされたがこれはエドワード6世統治下のみに終わった。
1834年10月16日に発生した火災によって宮殿の大半は焼失した。ウェストミンスター・ホールおよびジュエル・タワー、聖ステファン教会の地下室、回廊のみが焼失を免れた。宮殿の再建を協議する王立の委員会が設けられ、ゴシックまたは古典様式のいずれかのデザインで建設することを決定した。古典様式を好む人々はゴシックの粗野さは議事堂に似合わないと主張したが、キリスト教に基づいており好ましいとするオーガスタス・ピュージンを含む一派の計画が採用された。
1836年に委員会は97の計画案の中からチャールズ・バリーの設計したゴシック様式のデザインを採用した。1840年に礎石が据えられ、貴族院議事堂は1847年に、庶民院議事堂は1852年に完成した。その後建物の主要部分は1860年に完成した。
ウェストミンスター宮殿は1941年まで利用され続けていたが、この年にドイツ軍の爆撃によって庶民院が破壊された。ジャイルズ・ギルバート・スコットの設計によって元のサー・チャールズ・バリーの設計を残して1950年に完成した。 テンプレート:-
構造
石と鋳鉄
- 敷地:30,000m²
- 幅:280m
- 高さ(時計塔):96m
設計者
ヴィクトリア王朝期の1834年の火災により、木造であるウエストミンスター・ホールを除く殆どが焼失してしまったため、これを機にイギリス政府はコンペ形式によって、新国会議事堂の設計を行うことになった。
設計においては、建築家チャールズ・バリー(1795-1860)と、若手建築家であったオーガスタス・ウェルビ・ピュージン(1812-1852)が携わった。バリーはイタリア様式の倶楽部建築により高い名声があり、古典様式とイタリア様式を好んでいた。一方でピュージンはキリスト教とゴシックの思考を実際に建築に持ち込んだ人物であった。彼は「建築を中世の姿で建てるのは道徳的義務」[1]であり、「良い建築家になるためには正直な職人で良いキリスト教徒であらねばならぬ」[2]ものだと主張した。当時は、古典主義者からゴシック様式は反啓蒙主義者として煙たがれていたが、実際はゴシック主義者の議論が優勢であり、美術と建築に大きな影響を与えた。しかし、建築における美的価値においては古典主義者が優れていた。そして、古典主義を好むバリーが基本的な平面計画、立面計画、断面計画を、ゴシック様式を好むピュージンはディティールを担当した。
構成
テムズ川の西岸に面しながら、それと平行になるように建物全体が南北に貫かれている。内部構成については、ロイヤル・ギャラリーと上院議場をその南側に、北側には下院議場が配置されている。また、両院議長席は公共の場である中央ロビーを境に向かい合って対峙するように配置されている。このような構成は、国民や国家における両院の憲法上の役割を象徴している。
外観
外観はテムズ川対岸からの眺めに重点をおきながら構成されており、議事堂としての威厳を与えるため、河に面した水平で長大な左右対称のファサードをとり、その両端を後方から右側にビッグ・ベンを、そして左側にヴィクトリアタワーを置くことによって全体のバランスをとっている。また、その2つの塔のほか、中央部やところどころに建っている小塔の持つシルエットによって、垂直方向に対しても強調されている。
全体のつくりをよく見てみると、ピュージンのゴシック様式が表れているところは少なく、それは装飾されたファサードにある。塔と尖塔においては、絵画的にみれば非対称であるが、テムズ川に面するファサードは中央と両端の楼閣を強調する対照的なパラーディオ風の構成がとられている。パラーディオ風とは古代ローマ建築の、細部に至るまでが数学的概念に基づいている調和的な比例法則によった古典的な建築理念を持つ、16世紀の建築家パラーディオの様式を規範とした建築様式である。つまり、古典主義的な建築様式によるものである。そのことの証拠に、ピュージンの弟子であったフェリーによると「閣下、すべてギリシア様式です。古典様式に従った躯体に、チューダーの細部を加えました」[3]とピュージン自身が述べている。チューダーとはテューダー様式という中世末期からルネサンスへの過渡期に渡る16世紀前半のイギリスにおける、垂直様式であるゴシック建築様式を残しつつ、古典的モティーフを採用した装飾が細部になされた建築様式である。
世界遺産
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core
ギャラリー
- Big Ben London closeup.jpg
ビッグ・ベン
- Jewel Tower (1).jpg
ジュエル・タワー
- Victoria Tower from the south-west.jpg
ビクトリア・タワー
- Wm-1.jpg
ウェストミンスター・ホール
- Statue of Oliver Cromwell outside the Palace of Westminster.jpg
オリバー・クロムウェルの銅像
- Richard I statue outside Parliament.JPG
19世紀に建造されたリチャード獅子心王騎馬像
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
テンプレート:ヨーロッパの題材 テンプレート:Link GA
テンプレート:Link GA- ↑ ニコラス・ペヴスナー『新版 ヨーロッパ建築序説』小林文次・山口廣・竹本碧訳、彰国社、1989年第1版、326頁より引用
- ↑ ニコラス・ペヴスナー『新版 ヨーロッパ建築序説』小林文次・山口廣・竹本碧訳、彰国社、1989年第1版、326頁より引用
- ↑ ニコラス・ペヴスナー『新版 ヨーロッパ建築序説』小林文次・山口廣・竹本碧訳、彰国社、1989年第1版、327頁より引用