孤独
孤独(こどく、テンプレート:Lang-en-short) は、他の人々との接触・関係・連絡がない状態を一般に指す。
概要
これは何も深山幽谷にたった一人でいる場合だけではなく、大勢の人々の中にいてなお、自分がたった一人であり、誰からも受け容れられない・理解されていないと感じているならば、それは孤独である。この主観的な状況においては、たとえ他人がその人物と交流があると思っていても、当人がそれを感じ得なければ、孤独といえる。
文学的には、「寂寥」という言い方をすることがある。哲学者の三木清が、『哲学ノート』の中の箴言で「孤独は山にはなく、むしろ町にある」という趣旨のことを言っているのはまさにそのことを指していったもの。
類型
孤独には、それに近しい・もしくは含まれる概念が多数存在する。
- 他人から強いられた場合には「隔離」
- 社会的に周囲から避けられているのであれば「疎外」
- 単に一人になっているのであれば「孤立」
という言い方もする。一人でいて、それがただ寂しい(他人との交流を求めているのに、その欲求が満たされない状態)という場合もある。英語では、この単なる人恋しくて寂しいという場合は、loneliness として、solitude とは区別される。
他には
- 他を寄せ付けず気高い様子は「孤高」
があるが、こちらは当人の主観はどうあれ、その優れた性質にも拠り他が近づき難い状況を指す。単に珍奇だとか不快とかで近づき難い存在を指して孤高とは呼ばず、他の追従を許さない優れた性質を表す場合に使われる。用法としては「孤高の天才」など。
宗教的体験と孤独
古今東西の宗教では、修行の一環として自ら人間関係を断ち、孤独に籠もる行為が知られている。
キリスト教では、イエス・キリストが荒野で40日間さまよったとされる。その他、修道士の始めとされる聖アントニウス、アッシジのフランチェスコなど修道士や隠者・隠修士と呼ばれた人々の流れにそれをみることが出来る。(後にこれはタロットの隠者のモチーフとなったといわれる。)後代のキリスト教神秘主義者も少なからず孤独を体験している。
インドのヒンドゥー教ではヨーガなど瞑想の修行や、苦行に励む人々の存在が居て、現在でも僻地で目にすることができる。仏教を開いた釈迦も初期の修行で苦行者を見聞きし、自らも孤独な苦行を体験した。最終的に釈迦が開いた涅槃(ニルヴァーナ)の境地も菩提樹の下で一人で居たときに得たとされる。
日本では、修験道の山伏といわれる行者が山に籠もる修行が知られているほか、中世には西行・吉田兼好などにより『徒然草』といった文学作品が生み出され、隠者文学と呼ばれている。
オーストラリアのアボリジニの中では、人生も終わりに近づいた老人が一人になり、瞑想生活に入る。彼らは「ドリームタイム」といった神秘体験をするという[1]。
哲学や文学と孤独
人間の精神性において、孤独は必ずしもネガティブなものという訳ではない。ドイツの哲学者マックス・シュティルナーが「孤独は、知恵の最善の乳母である。」という格言を残しているように、孤独状態において人間は自分の存在などについて考えること(→哲学)を強いられ、その結果創造性、想像力などにつながると多くの哲人は結論付けた。このような精神の働きは心理学の側面から昇華と呼称され、文化や芸術における創作活動では、それから生み出された作品が数多く存在する。この中には、寂寞とした心理を表現したものから、より高次の存在を表したもの、または孤独によって増した愛情を更に濃密に描き出したものなどがある。
文化圏ごとの孤独に対する見解
社会や文化によっては孤独は「良くない状態」として見られることがあり、こと日本では孤独を社会から孤立していることと同義に扱われる傾向が根強い。民俗学的に見てもアニミズム観から孤独な状態にいるものには悪霊が付くと信じられている地域もあり、それらでは一種の呪術(または「おまじない」)的側面から「声を掛ける」といった風習も見られる。こういった文化の強い地域では、孤独と見られる状態にある者には、積極的に他者が働き掛けることこそが美徳とされる。
ただ上に挙げたとおり孤独は必ずしもデメリットばかりとは言えず、むしろ望んで「孤独を楽しむ」という文化性を発揮する者達すらいる。こういった文化性は個人主義の根強い地域により強く見出せるが、こと個人主義の傾向が民族比較論的ジョークのネタともなる英国において、社交会場にて壁際で佇んでいる者に無暗に声を掛けることは、むしろマナー違反ですらある。『豊かなイギリス人』[2]では、ある者の弁として米国と英国のパーティーを比較した場合を例として示している。米国のパーティーで一人所在無さげに立っていると寂しかろうと誰からも声を掛けられるが、英国の場合では彼は孤独を愛しているのだと判断して放っておくのだという。 テンプレート:注
一概に孤独とはいっても、その各々には多くの状態や種類があることを考慮すべき側面も存在する。暗く沈んだ気持ちにある者に励ましを入れたがる傾向を持つ者もいるが、こういった精神状態において励ましにより状態が改善されず、むしろストレスとなるおそれがある。特に医学的に治療を要する精神疾患としてのうつ病では、段階によって激励をしてしまうことはむしろ医学上の禁忌である。
脚注
参考文献
- デイヴィッド・リースマン『孤独な群衆』1950年
- ジョン・クーパー・ポーイス『孤独の哲学』みすず書房 1977年
- アンドレ・コント・スポンヴィル『愛の哲学、孤独の哲学』紀伊国屋書店 2000年
- 諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』2001年