山崎治正
山崎 治正(やまざき はるまさ、文政4年10月1日(1821年10月26日)- 明治9年(1876年)3月6日)は、備中国成羽藩の初代藩主。大和交代寄合表御衆田原本領主平野長興の次男。母は山崎義徳の娘。正室は上杉斉定の娘(離婚)。継室は細川行芬の娘。子に治祇、織田信親(織田信民養子)、治敏、京極寿吉(京極高典養子)、徳子(平野長裕室)。幼名は寿丸。初名は義厚。
山崎氏ははじめ5000石の交代寄合であり、天保6年(1835年)、外伯父山崎義柄の養子となり、その家督を継いだ。同年3月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。天保8年6月18日、初めてお国入りする許可を得る。慶応元年(1865年)2月、農兵隊などを結成し、領内の治安維持をはかった。
明治元年(1868年)閏4月、領内の開拓などで所領が1万2000石に増加したと新政府に申し立てた。同年6月20日、明治新政府はこれを認め、成羽藩の立藩を許可する。明治2年(1869年)正月晦日、隠居し、長男治祇に家督を譲った。以後、竹翁と称した。明治9年(1876年)3月6日に56歳で死去した。墓所は岡山県高梁市の桂巌寺。法号は芳春院殿光岳瑞馨大居士。
治正の屋敷は現在の元麻布二丁目にあり、大きな池があった。文政4年(1821年)の大火では治正の屋敷のみが類焼を免れたが、これはこの池に住むという大ガマが水を吹きかけて類焼を防いだからであるという言い伝えが残っている[1]。これ以降江戸市中の人々は、山崎家に火除けのお守りを乞うようになった。明治維新以降は、近所の末広神社でお札の発給を引き継いだ。
旧山崎邸のガマ池は、明治以降東京の名所の一つに数えられる名所となったが、昭和8年(1933年)にほとんどが埋め立てられ、現在はマンションの敷地内に一部残っている。