ロブソン・ポンテ
テンプレート:サッカー選手 ロブソン・ポンテ(Robson Ponte、1976年11月6日-)は、ブラジル・サンパウロ出身の元サッカー選手。ポジションはMF(攻撃的MF)、またはFW。
来歴
1996年、地元のサッカークラブ・CAジュベントスでプロ選手としてデビューした。グアラニFCを経てドイツのバイエル・レバークーゼンへ移籍。入団当初はあまり活躍できず、2001年にVfLヴォルフスブルクにレンタルされた。そこでの活躍が認められ、2003年にレバークーゼンへ復帰した。2004年にレバークーゼンの一員としてUEFAチャンピオンズリーグに出場した。当時のチームメイトにはドイツ代表のシュナイダー、ブルガリア代表のベルバトフ、後に柏レイソルへ移籍することとなるフランサらがいた。グループリーグではレアル・マドリードと対戦して3-0で勝利した。
その後、当時浦和レッズの監督だったギド・ブッフバルトに口説かれ2005年7月、浦和レッドダイヤモンズに加入。Jリーグ公式戦初出場となった2005年8月20日のFC東京戦で初ゴールを決めた。
2007年にはAFCチャンピオンズリーグに出場し、5得点を挙げ得点王に輝くとともに、浦和レッズの優勝に貢献。リーグ戦では7得点12アシストの活躍で2007年JリーグMVPに選ばれた。
2007年12月1日に行われた横浜FC戦において負傷をし途中交代。診断結果が右膝前十字靭帯損傷だった為、12月5日にブラジルへ帰国した(14日に手術を受け成功)。この負傷の影響でFIFAクラブワールドカップ2007へ出場することは出来なかった。
2008年5月31日のナビスコカップ予選リーグ第5節、対ヴィッセル神戸戦で復帰したが、7月5日に行われたJリーグ第15節、対FC東京戦で肉離れを発症し1ヶ月ほど離脱する等、ベストには程遠い出来のまま消化不良の形でシーズンを終える事となった。
2009年は主に5人の中盤のトップ下や右サイドでプレー。試合展開によってはボランチにポジションを下げる事もあった。この年はプレーにキレを取り戻しつつあったものの、負傷での離脱、累積警告や退場による出場停止で欠場する試合も度々見受けられた。
2010年は一時期、6月の契約満了をもって退団という報道がされていた[1]が、シーズン開始から好調を維持していたためシーズン終了まで契約を延長した[2]。その後も負傷で離脱した時期以外は好調を維持し、貴重なゴールやアシストで浦和の勝利に貢献していたが、11月19日、契約満了を持って2010シーズン限りで退団する事が発表された[3]。
浦和退団後は住み慣れた埼玉での現役続行を目指し、代理人を通じて大宮アルディージャとコンタクトを取った[4]が、最終的にはブラジルでの現役続行を表明し[5]、2011年5月にグレミオ・バルエリへの入団が発表された。
2013年5月11日 Jリーグ20thアニバーサリーマッチにレジェンドプレイヤーとして来日した。 試合終了後にはピッチに降り、We are Diamondsに参加し元チームメイト達と勝利を祝った。 5月18日サガン鳥栖戦も観戦し、帰国の途に着いた。
エピソード・アラカルト
- イタリア移民の家系であるためイタリア国籍も持っている。ポンテ(Ponte)という姓はイタリア語で橋の意味。
- 8歳のころに母親を心臓病で亡くし、18歳のころに父親を癌でなくしている。
- 2005年に浦和への移籍が合意した際、背番号は当時空き番だった16が予定されていたが、合流直前に10番を付けていたエメルソンが退団し10番が空いた為、10を付ける事となった。
- 2006年12月2日のガンバ大阪との優勝決定戦で後半38分に坪井慶介と交代してベンチへ退いた後、あらかじめ用意していた楽器を使って三都主アレサンドロと共にサポーターの応援に合わせて陽気なサンバのリズムを奏でるなど、お茶目な一面もある。
- レバークーゼン時代、「なぜポンテがブラジル代表に呼ばれないのか」という議論がヨーロッパの一部で起きたとも言われるテンプレート:要出典。
- 在京強豪クラブの幹部からは「ポンテになら5億円支払っても惜しくはない」と言われる程に評価が高い[6]。実際ポンテ個人で試合が大きく変わる事も多く、好不調でチームへ与える影響力の強い選手である。
- 2008年1月26日に母国ブラジルで結婚式を行った。相手は一般人女性のダニエリ(当時23歳)さんで、披露宴はサンパウロにあるキリスト再生教会で取り計らわれた。この教会はACミラン所属のカカも披露宴を行った聖地である。
所属クラブ
- 1995年 - 1996年 テンプレート:Flagicon CAジュベントス
- 1997年 テンプレート:Flagicon アメリカFC
- 1998年 - 1999年 テンプレート:Flagicon グアラニFC
- 1999年 - 2001年 テンプレート:Flagicon バイヤー・レバークーゼン
- 2001年 - 2003年 テンプレート:Flagicon VfLヴォルフスブルク
- 2003年 - 2005年6月 テンプレート:Flagicon バイヤー・レバークーゼン
- 2005年7月 - 2010年 テンプレート:Flagicon 浦和レッドダイヤモンズ
- 2011年5月 - 2011年10月 テンプレート:Flagicon グレミオ・バルエリ
個人成績
テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1995||rowspan="2"|ジュベントス||||rowspan="2"|セリエB|||||||||||||||| |- |1996||||1||0|||||||||||| |- |1997||アメリカ-SP||||サンパウロ州|||||||||||||||| |- |1998||rowspan="2"|グアラニ||||rowspan="2"|セリエA||16||7|||||||||||| |- |1999||||16||9|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1999-00||rowspan="2"|レバークーゼン||||rowspan="6"|ブンデス1部||24||2|||||||||||| |- |2000-01||||12||0|||||||||||| |- |2001-02||rowspan="2"|ヴォルフス||||31||8|||||||||||| |- |2002-03||||30||5|||||||||||| |- |2003-04||rowspan="2"|レバークーゼン||||20||2|||||||||||| |- |2004-05||||23||2|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2005||rowspan="6"|浦和||rowspan="6"|10||rowspan="6"|J1||16||8||3||1||5||0||24||9 |- |2006||22||4||3||0||4||2||29||6 |- |2007||33||7||2||0||0||0||35||7 |- |2008||16||1||2||0||2||1||20||2 |- |2009||28||4||4||1||1||0||33||5 |- |2010||28||9||6||2||2||2||36||13 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2011||グレミオ・バルエリ||||セリエB|||||||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始33||16|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行140||19|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行143||33||20||4||14||5||177||42 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終|||||||||||||| |}
- Jリーグ初出場・初得点 2005年8月20日 J1 第19節 vsFC東京 (埼玉スタジアム2002)
その他の公式戦
- 2006年
- スーパーカップ 1試合1得点
- 2007年
- スーパーカップ 1試合0得点
テンプレート:サッカー選手国際成績表 top テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |2007||rowspan="2"|浦和||rowspan="2"|10||12||5 |- |2008||4||0 |- !通算!!colspan="2"|AFC |16||5 |} その他の国際公式戦
- 2007年
- A3チャンピオンズカップ 2試合0得点
個人タイトル
- 2007年 - Jリーグ最優秀選手(MVP)、Jリーグベストイレブン
脚注
外部リンク
テンプレート:Navboxes- ↑ 浦和ポンテ退団へ、若手台頭で戦力外に nikkansports.com 2009年12月20日付
- ↑ 浦和ポンテ「サポーターのために」契約更新 Sponichi Annex 2010年5月15日付
- ↑ ロブソン・ポンテとの契約について URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE 2010年11月19日付
- ↑ 大宮「(ポンテ選手には)まだオファーは出していません」(岡本GM) エル・ゴラッソ web版 2010年12月8日付
- ↑ 元浦和・ポンテ、母国ブラジルで現役続行 sanspo.com 2011年01月27日付
- ↑ ポンテMVP&来年1月挙式!浦和中盤仕切りアジアV貢献 スポーツ報知 2007年12月18日付