山中湖村
テンプレート:Infobox 山中湖村(やまなかこむら)は、山梨県南東部の村。
目次
地理
村の中心に富士五湖の一つである山中湖が位置し、集落は主に北西からの国道138号(旧鎌倉往還)と北東からの国道413号が合流する湖南岸に広がる。南東方向に富士山が見え、裾野には梨が原高原が広がる。東には丹沢山地が位置。気候が冷涼で県内有数の観光村となっており、湖北岸の芙蓉台や南岸の旭が丘は別荘地となっている。夏場は首都圏や中京圏の避暑地としてにぎわうが、冬場は雪が積もることが多い。
富士山原生林には国の天然記念物として保護されている植物群落が多いが、村域には山中の鷹丸尾溶岩上の山中のハリモミ純林がある。また、山中湖のフジマリモは県指定天然記念物。
気候
全域が標高1000m前後の高原であるため県内でも比較的寒冷であり、年間平均気温は8.8℃と北海道並である。また小盆地なので寒暖の差が激しい。夏場の昼間でも涼しく、肌寒く感じる夜もある。冬場は雪が積もることが多く、また山中湖は湖面凍結する。最低気温が-15℃以下になることも珍しくない。
歴史
富士北麓地域には縄文時代の遺跡が数多く分布するが、村域においても長池、平野柳原、篭坂峠付近などに縄文時代の遺跡が分布している。
律令制下においては都留郡に属する。『延喜式』に拠れば律令制下には東海道を駿河国横走駅(静岡県御殿場市)から分岐し富士北麓を通過し甲斐国府に至る甲斐路(御坂路)が整備され、三駅のひとつである加吉駅は村域に比定されている。
甲駿相間の多国間交通の要衝で、御坂路は中世に鎌倉往還となり、史書にも事例が見られる。関東で挙兵した源頼朝が石橋山合戦で敗退した際には、土屋宗遠(三郎)が甲斐へ向かう際に通過しており、承久3年、承久の乱に東山道大将軍として上洛した武田信光は、帰路の加古坂峠において乱の首謀者藤原光親を処刑しており(『吾妻鏡』、墓所が伝わっている。
戦国時代に甲斐国は守護武田氏の内訌と有力国衆による乱国状態となり、村域には1493年(明応3年)に武田家惣領信縄と弟の油川信恵 が争った八代合戦で戦死したと伝わる山中太郎左衛門の城館跡がある。郡内地方においては駿河今川氏や相模後北条氏ら他国勢力の侵攻もうけ、明応4年には伊勢宗瑞(北条早雲)が今川氏と共同して郡内へ侵攻し、1526年(大永6年)には武田信虎(信尚)が駿河国梨木平において北条方を破り、1536年(天文4年)に北条氏綱と今川氏が郡内へ侵攻した山中の戦いが行われている。
鎌倉街道は武田滅亡後の天正壬午の乱においても北条氏が甲斐へ侵攻する際のルートとなった。
近世に郡内地方は谷村藩領を経て幕府直轄領となる。郡内地方は山間部で耕地に乏しく僅かな米麦栽培のほか入会地における山稼ぎや街道添いの駄賃稼ぎ、養蚕や郡内織を特徴とするが、村域においてもこれらの生業のほか、山中湖における漁業が行われていたほか、加古坂峠に口留番所が置かれ運輸機能が強化され、駿河方面と経済圏を形成している。
近代には入会地が官修されたため、馬鈴薯やトウモロコシの栽培、織物などの新たな産業が取り入れられたほか、戦後には観光に力を入れている。
沿革
- 1875年(明治8年)1月 - 近世以来の山中村・平野村が合併して中野村となる。
- 1889年(明治22年)7月1日 - 町村制の施行により、中野村が単独で自治体を形成。
- 1965年(昭和40年)1月1日 - 中野村が改称して山中湖村となる。
行政
- 村長:高村文教
- 村議会:議員定数12人
人口
経済
産業
地域
教育
- 山中湖村立山中小学校
- 山中湖村立東小学校
- 山中湖村立山中湖中学校
交通
鉄道路線
村内に鉄道路線はないが富士山駅が最寄。
道路
バス
船舶
- 山中湖遊覧船
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
出身有名人
その他
- 2006年放送の米CBSのThe Amazing Race9では11レグのゴール地点でもあった。
- 山中湖村は高村一族が代々の村長を務めている。