日本遺族会
テンプレート:基礎情報 非営利団体 一般財団法人日本遺族会(にっぽんいぞくかい)は、英霊の顕彰と慰霊に関する事業、戦没者遺族の相互扶助、生活相談に関する事業などを実施している法人。元厚生労働省所管。
概要
1947年に、「日本遺族厚生連盟」として設立された。1953年3月に財団法人として認可され、「財団法人日本遺族会」となった。
1961年9月から1962年1月まで、安井誠一郎が第3代会長を務めた。1962年の安井の死後、賀屋興宣が第4代会長に就任し、1977年4月に亡くなるまで会長を務めた。1977年10月から、村上勇が第5代会長を務めた。2002年2月から2012年2月まで、古賀誠が会長を務めた。東日本大震災の九段会館で仕立て天井崩落による死亡事故を受けて、2012年2月に古賀が辞職したのちは会長は空席となり、森田次夫副会長が会長代行を務めた。9月1日付で、自民党参議院議員の尾辻秀久が会長に就任した。(古賀誠は現在顧問)
目的
当初の会則では「遺族の救済と相互扶助、以って戦争を防止し、世界の恒久平和を確立し、全人類の福祉の為に貢献」を目的とした。初代理事長(1948年から「会長」に改称)は貴族院議員・長島銀蔵。大谷藤之助(海軍中佐、元大本営参謀 靖国神社事務総長)の推薦を受けて就任。当時の本部は神奈川県厚生連盟内で、靖国内に連絡所が置かれた。
1953年の財団法人への改組と共に、その目的は「英霊の顕彰、戦没者遺族の福祉の増進、慰藉救済の道を開くとともに、道義の昂揚、品性の涵養に努め、平和日本の建設に貢献することを目的とする」と変更された。
活動など
国内で最も多くの遺族が支援する団体として日本政府からの支援を受けている。なお思想上、もしくは信仰上の相違を持つ遺族の一部は別団体「平和遺族会」を結成している。
1953年以来、政府は日本遺族会に対する国有財産無償貸付法によって九段会館(旧称「軍人会館」。遺族会本部でもある)をレストランや結婚式場ごと無償で遺族会に貸し出してきた(九段会館は東日本大震災の影響で2011年4月に廃業。事務局は現在も同会館建物内が所在地)。
1979年、「国家のために父を捧げた遺児」のための記念施設の建設を政府に働きかけ始めた。厚生省は遺族会の要望を支持し、1985年7月に厚生大臣の私的諮問機関として「戦没者遺児記念館に関する懇談会」を発足させた。1992年8月には基本計画を策定し、翌1993年度の政府予算に計上する過程で、「戦没者追悼平和記念館」と改称し、国会の委員会審議において公表された。
遺族会は靖国神社など特定の宗教団体と密接な関係があるとされ、“靖国神社に代わる戦没者追悼国立施設の設置”には反対の立場を取っていた[1]が、昭和天皇が靖国神社参拝を中止した理由がA級戦犯の合祀とされる富田メモが2007年に見つかったため、分祀の検討を当時会長であった古賀誠が講演で述べた。
現在の遺族会は靖国神社問題を解決する手段として戦没者追悼国立施設の設立を積極的に要求しており、2007年自由民主党総裁選挙でも、戦没者追悼国立施設の設置を発案者である福田康夫支持を表明した[1]。
傘下に政治団体日本遺族政治連盟を持つ。自民党を支持しつつ、また自民党中枢の人物からも支援されており、1993年から1995年にかけて会長を歴任した橋本龍太郎は、遺族会が記念施設の建設を要望した1979年当時の厚生大臣でもあった。1955年以来、組織内候補を参議院議員通常選挙に立て、かつ当選させて来たが、会員の高齢化を理由として、2013年夏の第23回参議院議員通常選挙以降は組織内候補を擁立せず、比例代表で自民党の公認候補を支援するとしている[2]。現任会長の尾辻秀久は比例区候補の党内の年齢規定に抵触するということで比例区から地方区(鹿児島県選挙区)に転出した[2]。
出典
外部リンク
- 一般財団法人日本遺族会
- 財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律(総務省行政管理局による法令データ提供システム)
- 日本遺族会とその戦争観(王希亮)(「中国帰還者連絡会」内 論者は黒龍江省社会科学院歴史所員)