金山藩

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金山藩(かなやまはん)は、美濃国(現在の岐阜県可児市・旧兼山町)に存在した。ただし、藩として正式に存続したのは1年足らずであった。

概要

金山は戦国時代、美濃斎藤氏の支配下にあったが、織田信長の美濃侵攻で永禄8年(1565年)に信長の領土となり、信長は厚い信任を置いていた重臣・森可成を入れた。しかし可成は元亀元年(1570年)9月、近江宇佐山城において浅井長政朝倉義景連合軍の猛攻を受けて戦死してしまった。可成死後、家督はその息子で、柴田勝家と並ぶ武勇を信長のもとで誇り「鬼武蔵」と称された森長可が継いだ。長可は金山の城下町建設などに尽力し、天正10年(1582年)3月の武田氏討伐で武功を挙げたため、金山と北信濃4郡、あわせて20万9700石を与えられた。同年6月、信長が本能寺の変のために死去すると、長可は上杉氏や武田氏遺臣による反乱を恐れて北信濃を放棄して金山に戻り、以後は羽柴秀吉の家臣となった。しかし長可は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで徳川軍の攻撃に遭って戦死してしまった。長可の死後、家督は弟の森忠政が継いだ。忠政は関ヶ原直前の徳川家康の多数派工作で北信濃13万7500石を与えられた。そして関ヶ原の戦いでは東軍に与して戦功を挙げたため、美作国津山藩へ加増移封となった。

代わって金山には武蔵国松山から桜井松平家松平忠頼が1万5000石加増の2万5000石で入部し、ここに金山藩が立藩した。だが、忠頼は慶長6年(1601年)4月(異説として2月)に遠州浜松藩へ移されて、金山藩は廃藩となり、その所領は天領元和元年(1615年)からは尾張藩領となった。

明暦2年(1656年)、金山は兼山と改められた。

歴代藩主

松平(桜井)家

譜代。2万5000石。

  1. 松平忠頼(ただより)

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