越前勝山藩
越前勝山藩(えちぜんかつやまはん)は、越前国勝山周辺を支配した藩。居城は勝山城。
概要
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、越前一国68万石は徳川家康の次男・結城秀康に与えられた。秀康は家臣の林定正に勝山に9800石を与えて預けたが、定正は慶長17年(1612年)に福井藩の第2代藩主・松平忠直によって追放され、以後は代官が派遣されていた。ところが元和9年(1623年)に忠直が幕命によって改易され、この後も福井藩は幕府の計らいで存続したが、このときに福井藩の支藩として、秀康の三男・松平直政の大野藩5万石、五男・結城直基の越前勝山藩3万石(一説には2万5000石)が成立した。しかし直基は寛永12年(1635年)に大野へ移封され、代わって勝山には弟の松平直良が入った。ところが正保元年(1644年)に直良も大野藩へ移封となると、勝山藩は廃藩となり、福井藩預かりを経て貞享3年(1686年)に幕府領となった。
元禄4年(1691年)、美濃国高須藩より小笠原貞信が2万2000石で入り、再び勝山藩が立藩する。貞信は検地などを行なって藩政基盤を固めた。幕末期には勝山は飢饉などの天災に見舞われて10回にわたる百姓一揆や打ちこわしが発生するなど、藩政は多難を極めた。しかし家老・林毛川が現れて煙草改会所設置による専売制実施などによる藩政改革で乗り切っている(ただし毛川の改革が領民に多大な負担をかけたことも事実で、藩主・小笠原長守は遂に領民の反対もあって毛川を解任し、謹慎させている)。
明治元年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与して京都周辺の警備を担当した。明治2年(1869年)の版籍奉還で長守は知藩事となった。明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県によって勝山藩は勝山県となり、長守は免官され東京に移住した。さらに明治4年11月20日、勝山県は他の越前国の県と再編され、福井県となった。
歴代藩主
松平(越前)家
3万石 親藩
3万5000石 親藩
直基と直良は兄弟であるが、直良への交代は跡目相続でなく転封による。直良のさらなる転封の後、越前福井藩預かり、のち幕府領となる。
小笠原家
2万2000石 譜代
- 小笠原貞信(さだのぶ) 従五位下 土佐守
- 小笠原信辰(のぶとき) 従五位下 駿河守
- 小笠原信成(のぶなり) 従五位下 能登守
- 小笠原信胤(のぶたね) 従五位下 相模守
- 小笠原信房(のぶふさ) 従五位下 飛騨守
- 小笠原長教(ながみち) 従五位下 相模守
- 小笠原長貴(ながたか) 従五位下 相模守
- 小笠原長守(ながもり) 従五位下 相模守
幕末の領地
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