松木村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年4月15日 (火) 09:27時点におけるYamato-i (トーク)による版 (一部カテゴリの統合)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox

ファイル:Matsugi Mura.jpg
旧・松木村(2005年)

松木村(まつぎむら)は、栃木県上都賀郡にあった足尾鉱毒事件によって1902年廃村。正式には1889年の町村合併によって既に自治体としては消滅し「足尾町字松木」であったが、一般的にはほぼ無人化した1902年に廃村とされている。現在は「日光市松木渓谷」。アクセスは徒歩のみ。

地理

栃木県西部。足尾14郷の一。ほぼ全村が山林である。中心部を川が流れる。この川は渡良瀬川の源流部に当たるが、ここを流れる川は栃木県内では一般的に松木川(まつきがわ)または松木沢(まつきさわ)と呼ぶ。

村の名前は「まつぎ」だが、川の名は「まつき」である。なお、国土交通省では、この川の名を「渡良瀬川」と呼ぶ。役場および集落は、松木川の左岸[1]のわずかな平地に存在した。

歴史

伝承によれば、700年日光を開いた勝道上人がこの地に入り、寺を建てた(方等寺)。1853年の調査によれば、37戸178人が住んでいた。主な産業は農業で、養蚕のほか、大豆や野菜がつくられていたが、水田はなく、稲作は行われていなかった。

明治に入り、足尾銅山で銅が増産されるようになると、精錬に必要な木材が大量に伐採された。1884年以降、さらに、精錬所から出る鉱毒ガスおよび酸性雨により、山の木が枯れ始めた。

1887年4月、村で毎年この日に行われていた畦焼きという畑の枯れ草を燃やす作業を行っていたところ、この火が山林に燃え移り、下流の赤倉、間藤付近までを焼く大規模な山林火災に至った。この後、足尾の山はさらに荒廃が進んだ。ただしこれは、鉱毒ガスにより立ち枯れていた木に火が移ったために大火事になったのであり、山がはげたのは足尾銅山が原因であるという主張もされている。

火災ではげた山は、2005年現在もそのままである。これに関しては、単なる山林火災で山が100年以上も再生しないとは考えられず、足尾銅山の鉱毒ガスがはげ続けている主原因だという主張もかなりなされている。

この大規模山林火災のあと、村では産業がたちゆかなくなり、多くの村民は村を出た。この時代、足尾銅山側は、精錬に使用する材木を伐採するために松木に林道をつくることを計画。予定地を購入しようとしたところ、残留村民らは全村譲渡でなければ応じないと主張、裁判にもなった。

残留村民らは、田中正造が会長を務める足尾鉱毒被害救済会に救済を求めて、田中正造本人も村民代表らと面会をした。救済会の仲介もあり、1901年12月、足尾銅山側と交渉が行われ、残留村民25名(24戸)全員が、全村を銅山側に4万円で売却し一年以内に移転することで合意が成立した。救済会が仲介を行ったのは、松木の荒廃が鉱毒被害であるというように銅山側が事実上認めたためであるとされている。

松木の不動産の所有権移転登記が行われたが、村民の星野金治郎は別の用があり、当日、登記に参加できなかった。これに対し、銅山側は登記日が同一ではないと困ると苦情を申し立てた。これに対し星野は激怒。移転登記は行わず、死ぬまで絶対に松木から出ないと宣言した。星野とその息子の2名を除く残留村民23名は、足尾鉱毒被害救済会に感謝状を贈り、村を出た。なお、星野以外の不動産所有権移転登記は主に1901年12月27日に行われ、1902年1月までに完了した。

星野は宣言どおり村に住み続け、立ち退こうとしなかった。移転登記が行われなかったため、銅山側も合法的に星野を旧村外に移転させることができなかった。銅山側は、たまたま星野宅付近に銅山施設で使用する水の取水口があったことから、星野は取水口の水番として雇っているということにして、それ以上星野に立ち退きを求めなかった。

銅山側は買収した松木の土地を堆積場とし、鉱石くずなどを次々に捨てはじめた。しかし、堆積場に行くためには、星野の土地を通らなければならなかった。星野は銅山側が土地を通ることを認めなかったため、ここでも紛争がおきてしまった。この紛争は後に星野が移転するまで続いたという。

最終的に、旧松木村の下流部に足尾ダムができると、1951年ごろ(1949年説あり)、星野親子は村を出て完全に無人化、約1200年にも及ぶ歴史にひっそりと幕を下ろした。

松木村に隣接する久蔵村仁田元村も、同様に煙害で廃村となったが、いつごろだったのかは不明である。恐らく、松木村とほぼ同時期だったと考えられる。ただし、久蔵には日光中禅寺湖方面に抜ける道があったため、その後も完全には無人にはならず、茶店などが残っていた。また、廃村後の1922年までは銅山の社宅もあった。茶店も社宅がなくなった頃に廃業し、この頃無人化したと考えられる。

現在は、残滓除去や森林緑地再生などの治山・治水活動が行われている。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 川の上流側から下流側を見て左側の岸のこと。『広辞苑 第五版』(岩波書店、1998-2001、シャープ電子辞書 PW-9600 に収録)より。

関連項目