ラングレー (CV-1)
USS Langley (CV-1) | ||
艦歴 | ||
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As Jupiter | As Langley | |
発注 | 不明 | 1919年7月11日 |
起工/ 改修 | 1911年10月18日 | |
進水/ 改名 | 1912年8月14日 | 1920年4月11日 |
就役 | 1913年4月7日 | 1922年3月20日 |
退役/ 喪失 | 1920年3月24日 | 1942年2月27日 |
その後 | 空母へ改修 | 日本軍に破壊され 自沈処分 |
性能諸元 | ||
排水量 | 19,360 トン | 11,500 トン |
全長 | 542ft(165.2m) | 542ft(165.2m) |
全幅 | 65ft(19.81m) | 65ft(19.81m) |
吃水 | 27ft8in(8.43m) | 18ft11in(5.76m) |
最大速 | 15 ノット | 15 ノット |
乗員 | 士官、兵員163名 | 士官、兵員468名 |
兵装 | 4インチ砲四基 | 5インチ砲四基 |
搭載機 | 無し | 55 |
ラングレー (USS Langley, CV-1/AV-3) は、アメリカ海軍初の航空母艦。給炭艦ジュピター (USS Jupiter, AC-3) より改修された。後に水上機母艦に改造された。
給炭艦
ジュピターは1911年10月18日にカリフォルニア州ヴァレーオのメア・アイランド海軍造船所で起工された。1912年8月14日にトーマス・F・ルウム夫人から後援を受け進水し、1913年4月7日に初代艦長ジョーゼフ・M・リーヴスの指揮下就役した。ジュピターの姉妹艦 、サイクロプス (USS Cyclops, AC-4) は第一次世界大戦中にバミューダ・トライアングルで消息不明となり、プロテウス (USS Proteus, AC-9)とネレウス (USS Nereus, AC-10) も第二次世界大戦の間にサイクロプスと同航路で消息不明となっている。
試験航海後、アメリカ海軍初の電気推進船であるジュピターはカリフォルニア州サンフランシスコで海兵隊の分隊を乗艦させ、ベラクルス危機で緊張した時期の1914年4月27日に、メキシコのシナロア州マサトランで太平洋艦隊に報告を行った。ジュピターは太平洋岸に留まり、10月10日にペンシルベニア州フィラデルフィアに向けて出航した。途中コロンブス・デーにパナマ運河で記念の汽笛を上げる。ジュピターは西から東へパナマ運河を通過した最初の艦であった。
アメリカ合衆国の第一次世界大戦への参戦に先立って、ジュピターは大西洋艦隊遠洋部隊に所属し大西洋およびメキシコ湾を巡航した。1917年4月6日にバージニア州ノーフォークに到着し、海軍海外輸送部隊 (Naval Overseas Transport Service, NOTS) に配属される。1917年6月および1918年11月にフランスへの貨物輸送を行い、その間給炭任務は中断された。1919年1月23日にノーフォークに帰還し、その後3月8日にフランスのブレストに向かいヨーロッパ水域で給炭任務に従事する。8月17日にノーフォークに帰還し、西海岸へ移動、空母への改装が1919年7月11日に承認された。12月12日にハンプトン・ローズへ移動し、1920年3月24日に退役する。
空母
- USS Langley CV-1 1924.jpg
1924年に撮られた「ラングレー」
- USS Langley CV-1 hangar 1920s.jpg
「ラングレー」の格納庫
ジュピターは海上で航空機を運用するという新たな考えの実験のため、ノーフォーク海軍工廠でアメリカ海軍初の航空母艦に改装された。1920年4月11日に天文学者であり航空学のパイオニアであるサミュエル・ピアポート・ラングレーに因み、ラングレーと改名され、CV-1(航空母艦)に艦種変更される。ラングレーは1922年3月20日にケネス・ホィッティング艦長の指揮下再就役する。アメリカ海軍初の航空母艦がラングレーと命名されたのは、オーヴィル・ライトと合衆国政府の対立の一端が現れたものであった。
アメリカ海軍初の航空母艦として、ラングレーは数多くの重要な出来事の現場となった。1922年10月17日にバージル・C・グリフィン中尉は最初の飛行機、テンプレート:仮リンクを操縦し発艦した。飛行機が船から発艦したことおよび飛行甲板を装備した艦はラングレーが初めてではなかったが、グリフィン中尉の発艦はアメリカ海軍の記念碑的出来事であった。9日後、ゴッドフリー・シャヴァリア少佐はテンプレート:仮リンクで最初の着艦を行った。11月18日にホィッテイング艦長が発艦を行い、空母艦上からカタパルトで発艦を行った初の飛行家となった。
1923年1月15日までラングレーはカリブ海で着艦試験を行う。6月にワシントンD.C.へ向かい、ラングレーは軍の高官および市民の目前でデモンストレーションを行った。6月13日にノーフォークに帰還し、同年末まで大西洋岸およびカリブ海で訓練に従事した。1924年に入るとラングレーはより多くの演習および展示会に参加し、夏にはノーフォークで修理および改装が行われた。同年末には西海岸へ向かい、11月29日にサンディエゴに到着、太平洋戦闘艦隊に加わる。その後12年にわたってカリフォルニア沖およびハワイで実験、パイロット訓練、艦隊演習などに従事した。
水上機母艦
1936年10月25日にラングレーはカリフォルニア州のメア・アイランド海軍工廠でオーバーホール及び水上機母艦への改修が行われた。ラングレーの空母としての経歴は終了したが、艦で訓練されたパイロットは続く二隻の空母、レキシントン (USS Lexington, CV-2) およびサラトガ (USS Saratoga, CV-3) で重要な役割を果たした。
ラングレーは1937年2月26日に改修が完了し、4月11日に AV-3 (水上機母艦)へ艦種変更された。航空機偵察部隊に配属され、ワシントン州シアトル、アラスカ州シトカ、真珠湾、サンディエゴで作戦活動を行う。1939年2月1日から7月10日まで大西洋艦隊での任務で展開し、その後太平洋艦隊に配属され9月24日マニラに到着。後にテンプレート:仮リンクに配置換えとなり、飛行艇と水上機からなる飛行偵察部隊の支援活動に従事した[1]。
1941年12月7日の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発したとき、ラングレーはフィリピンのカヴィテに停泊していた。ラングレーは翌12月8日に出航し、ボルネオのバリクパパンを経てオーストラリアのダーウィンに向かい、ダーウィンには1942年1月1日到着した。1月11日までラングレーはオーストラリア空軍の対潜哨戒に協力する。その後ラングレーは日本軍に対抗してオランダ領東インドで、ABDA司令部(アーチボルド・ウェーヴェル大将)の下に結成されたアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア4ヵ国の連合軍艦隊(トーマス・C・ハート大将)に配属される。
南方作戦での日本軍の進撃は留まる事を知らず、やがてジャワ島に対しても空襲が行われるようになった。連合軍はホーカー ハリケーンやブリュスター バッファローで対抗したが、日本機の敵ではなかった。連合軍は更なる戦闘機を欲し、インドに輸送途中のカーチス P-40を引き抜くことにした[2]。2月22日、ラングレーは元飛行甲板上に32機のカーチス P-40 を乗せ、セイロン行きの MS-5 船団と共にオーストラリアのフリーマントルを出航した。その翌日、テンプレート:仮リンク中将[3]は P-40 を大至急輸送するよう命じ、ラングレーは、同じくP-40 を輸送していた貨物船と共に、護衛なしでジャワ島南岸部のテンプレート:仮リンクに向かったが、貨物船は次第にラングレーから離されていった[4]。
5日後の2月27日の早朝、ラングレーは出迎えに来た駆逐艦ホイップル (USS Whipple, DD-217) およびエドサル (USS Edsall, DD-219) と合流した。その前後、すでにバリ島に進出していた高雄航空隊の一式陸攻が艦船攻撃のためバリ島を離陸した。11時40分、ラングレー、ホイップル、エドサルの3隻はバリ島西方368海里の地点[5]で一式陸攻9機の攻撃を受ける。3隻は爆撃を受けると同時に各方向に分離して回避運動を始めた[5]。攻撃第一波と第二波は失敗に終わったが、三度目の攻撃で爆弾が命中する。この時、攻撃隊は陸上攻撃用の爆弾しか抱えていなかったが[6]、それでも250キロ爆弾3発と60キロ爆弾3発が命中した[5]ラングレーは大破し、操舵が困難となる。P-40 も爆弾命中により次々炎上し[6]、折からの強風で消火が困難となった[7]。機関室も浸水し、ラングレーの今の状況ではチラチャップ湾の入江を通行することができないと見られた。ホイップルかエドサルのどちらかがラングレーの被爆を暗号を使わずに発信。これを受信した攻撃隊は敵戦闘機の来襲を警戒して、足早に戦場を去っていった[6]。攻撃隊より先に発進した零戦の一隊は、炎上中のラングレーを発見して機銃掃射を加えた[6]。
ラングレーはもはや如何ともし難い状況になり、13時32分に至って艦の放棄が命じられた。ラングレーを処分するためホイップルが4インチ砲弾9発及び2本の魚雷を発射し、ラングレーはチラチャップの南120キロの水域で沈没した。ラングレーの乗組員はホイップルとエドサルに救助され、それから給油艦ペコス (USS Pecos, AO–6) に移されたが、3月1日にペコスも南雲忠一中将率いる機動部隊の空襲により撃沈されたため、ラングレー乗組員も多数死亡した。
一方、ラングレーを攻撃した高雄航空隊では、攻撃隊指揮官がラングレーの撃沈を報告したものの、上層部はこの報告を採用せず、「空母一隻撃破」という評価に留めた[6]。また、先の電文を傍受していた日本軍は、攻撃されたのがラングレーであると推測されたものの、1月8日に伊25がジョンストン島近海で「撃沈」したのがラングレーであると大本営発表で報じていた手前、本当のラングレーは大本営発表では「特設空母」と報じられた[8]
脚注
関連項目
参考文献
- 防衛研究所戦史室編『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- 阿部安雄「基地航空隊の艦船攻撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
- 瀬名堯彦「大本営を悩ました米空母情報」『写真・太平洋戦争(2)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0414-8
- 永井喜之、木俣滋郎『撃沈戦記』朝日ソノラマ、1988年、ISBN 4-257-17208-8