酒井忠恭

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テンプレート:基礎情報 武士 酒井 忠恭(さかい ただずみ)は、江戸時代中期の大名老中首座。上野前橋藩第9代藩主。のち播磨姫路藩初代藩主。雅楽頭系酒井家宗家9代。

生涯

前橋藩分家の越前敦賀藩酒井忠菊の四男。前橋藩主となっていた長兄の親本に子がなかったため、その跡を継いだ。幕府では大坂城代や老中首座を歴任した。安永元年(1772年)に藩主在職のまま死去し、後は孫の忠以が継いだ。

姫路転封工作

寛延2年(1749年)、忠恭は前橋から姫路に転封する。

酒井家は前橋にいた頃から既に財政が悪化していた。酒井家という格式を維持する費用、幕閣での勤めにかかる費用、放漫な財政運用、加えて前橋藩領内は利根川の氾濫が相次ぎ、あまり豊かでなかった、つまり財政基盤の脆弱さなどが大きかった。そのため家老の本多光彬江戸の用人犬塚又内らは、同じ15万石ながら畿内の先進地に位置し、内実はより豊かと言われていた姫路に目をつけ、ここに移封する計画を企図し、忠恭もそれに乗った。

ところが、本多と同じく家老の川合定恒は「前橋城は神君より『永代この城を守護すべし』との朱印状まで付された城地である」として姫路転封工作に強硬に反対したため、本多、犬塚らの国替え工作は以後、川合を頭越しに秘密裏に行われた(移封後の寛延4年(1751年)。川合は本多、犬塚の両名を殺害し、代々の藩主への謝罪状をしたためて自害している)。

酒井家の期待とは裏腹にその頃姫路では、寛延元年(1748年)夏には大旱魃が起き、しかし姫路藩松平家年貢徴収の手を緩めなかったため、領民の不満が嵩じていた。そこへ、藩主・松平明矩が同年11月16日に死去し、松平家が他国に転封するという噂がのぼると、借金踏み倒しを恐れた領民たちは12月21日に一揆を起こし(寛延の百姓一揆)、翌寛延2年(1749年)になっても騒ぎは収まらず、そのさなかの1月15日、前橋の忠恭と姫路の松平喜八郎(朝矩)[1]の領地替の命令が出された。

一揆は2月には収拾したが、この混乱が尾を引き、酒井家の転封は5月22日にずれ込んだ。藩士の移住はさらに遅れ、しかも7月3日には姫路領内を台風が襲い、死者・行方不明者を400人以上も出した。8月にも再び台風が襲い、田畑だけではなく領民3000人余が死亡するなどの大被害を受け、酒井家はますます財政が悪化した。

脚注

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略歴

※日付は旧暦

官歴

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テンプレート:大坂城代
  1. 松平朝矩は11歳で相続したばかりであり、「西国の抑えとしての姫路藩の藩主としては幼年であり不適当」とされた。