書院 (東アジア)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2013年7月13日 (土) 11:15時点におけるOnverwacht (トーク)による版 (lk)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

書院(しょいん)とは、東アジア中国日本朝鮮ベトナム)前近代の学校私塾の一類型である。代以降、国家の官学に対して特に民間の私学で行われた。

中国の書院

書院の由来は代にあり、開元13年(725年)、麗正殿を集賢殿と改めて書院を置き、学士を置いて古今の経籍を校勘したり、天下の遺書を収集したりした。

貞元中、李渤は廬山白鹿洞に隠居して読書したが、南唐の時、ここに学館が置かれ、廬山国学とされた。これが宋代に白鹿洞書院と改められた。南宋朱熹王陽明がここで講学している。

宋代、政府によって書院の造成が奨励され、政府や私人が書院を創設した。白鹿洞書院江西廬山)・応天府書院河南商丘)・嵩陽書院河南太室山)・岳麓書院湖南岳麓山)は、宋の「四大書院」と呼ばれる。

代には、すべて政府の管理下に置かれ、科挙試験の予備校と化した。

代には、東林書院のように政治問題を取り扱う書院があらわれ、しばしば弾圧の憂き目にあった。

代、科挙を目的として数千もの書院が作られたが、なかには科挙を目的とせず、学問研究の場としたものもあった。

清末、科挙が廃され、書院は「学堂」と改められた。これが近代、中国の大学の母体となっていった。

朝鮮の書院

テンプレート:Main テンプレート:Chinese-history-stuben:Academies (Shuyuan)