島津忠義
島津 忠義(しまづ ただよし)は、幕末から明治時代の大名、華族。薩摩藩の第12代(最後)の藩主で、島津氏第29代当主。官位は従一位参議。勲等は勲一等。
幼名は壮之助。通称は又次郎。元服後の初名は忠徳(ただのり)であったが、藩主在任中は島津 茂久(もちひさ)を名乗る。なお、忠義は維新後の慶応4年(1868年)1月16日に改名した諱である。
生涯
島津氏分家の重富家当主・島津忠教の長男として生まれる。伯父・斉彬の養嗣子となり、安政5年(1858年)の斉彬没後、その遺言により跡を継ぐこととなった。遺言では斉彬の子・哲丸が幼少のために仮養子という形であったが、ほどなくして哲丸は死去した。しかし、藩政の実権は当初祖父の斉興、次いで後見人となった父・久光(忠教)や西郷隆盛、大久保利通らに掌握され、忠徳自身は若年ということもあり、主体性を発揮することはなかった(ただし、忠徳が実権を取り戻そうとしなかったことが薩摩藩が一致して倒幕運動を行うのに寄与した面もある)。
安政5年(1858年)2月7日、江戸城で江戸幕府第14代将軍・徳川家茂に謁見し、家茂から偏諱(「茂」の字)を授かって島津茂久と改名した。
安政6年(1859年)2月、従四位下・左近衛少将に叙任され修理大夫を称する。
15代将軍・徳川慶喜が大政奉還した後、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀らの進言を容れ、薩摩藩兵3千を率いて上洛した。そして王政復古の大号令に貢献し、議定に任ぜられて小御所会議に参席した。慶喜が発した討薩の表に於いて厳しく糾弾されるが、鳥羽・伏見の戦いでは薩長軍が大勝利を納めた。この直後、海陸軍総督に任命されるが西郷の進言に従い1日で辞任している。明治維新後は長州・土佐・肥前の3藩と協力して版籍奉還を進んで行なう。その後、名を「忠義」と改め薩摩藩知事となるが、実質的な藩政は西郷に任せていたと言われている。明治4年(1871年)の廃藩置県後は、公爵となった。以後、政府の命により東京に在住する。西南戦争時も東京に留まり、ほぼ関らなかった。
明治17年(1884年)に鹿児島県令・渡辺千秋に「造士館再建の願」を提出する。同年6月には「鹿児島県立中学造士館創立委員会」が発足(委員長は弟の珍彦だが、自身は委員に名を連ねていない)、自らは基金4万4621円と年々9400円ずつの定額寄金を県庁に委託、同年12月に鹿児島県立中学造士館が設立された。
明治21年(1888年)に政府の許可を受け鹿児島に帰郷した。明治23年(1890年)、帝国議会開設と共に貴族院公爵議員となる。
明治30年(1897年)12月、58歳で鹿児島市にて薨去した。没後、勲一等旭日桐花大綬章を授与された。翌年1月9日に国葬が行なわれた。
墓所は、先代斉彬までの当主や父・久光は菩提寺だった「旧福昌寺跡」(鹿児島市立玉龍高校後側、現在同寺は薩摩川内市にある)だが、忠義以降は寺跡の西側の裏山「常安峰」にあり、双方とも尚古集成館(島津興業)が管理している。
照国神社探勝園には忠義の銅像が建っている。第二次世界大戦中に金属供出されたが戦後再建された。
人物
- 犬追物や乗馬を得意とする一方で、写真撮影や花火作りなどにも興味を持つなど、幅広い趣味を持つ人物であった。
- 明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法公布の日、忠義が洋服姿でありながら髷を切らずにいたことに驚いたと、ドイツの医学者ベルツは日記に記している(ちなみに当時の首相は旧家臣の黒田清隆)。西洋文化に造詣が深かったにもかかわらず旧習に固執したのは、父・久光の方針に従ったためとされる。
- 鳥羽・伏見の戦い直後に海陸軍総督に任命された際にはこれを島津幕府の第一歩のように考える者が藩内に多数いる中、西郷の進言を容れて辞退し、辞退しきれずに陸海軍務総督(3人が任命されたが茂久以外の2人は皇族と公家)にされても用事がある時以外出勤せず、伴食役たるように努めたという[1](久光は「幕府をなくす気はなかった」と明治以後も公言し「島津幕府を狙っていた」といわれる)。
家系
- 父:島津久光
- 母:島津千百子(しまづ ちもこ、重富島津家当主・島津忠公長女)
- 養父:島津斉彬(伯父)
- 正室:暐子(てるこ、1851年 - 1869年、斉彬三女)
- 長女:房子(1869年 - 1871年、長女であったが夭折したため系譜から省かれていることが多い)
- 継室:寧子(やすこ、1853年 - 1879年、斉彬五女、近衛忠煕養女)
- 長男:忠宝(1879年、長男であったが誕生から3ヶ月で夭折のため系譜から省かれていることが多い)
- 継室:棲子(すみこ、? - 1886年、板倉勝達の次女)
- 側室:山崎寿満子(1850年 - 1927年)
- 側室:菱刈 久( - 1960年)