ダヴォール・シューケル
テンプレート:サッカー選手 ダヴォル・シュケル(Davor Šuker、1968年1月1日 - )は、ユーゴスラビア・オシエク(現・クロアチア領)出身のクロアチアの元サッカー選手。ポジションはFW。選手時代はサッカーユーゴスラビア代表、サッカークロアチア代表として選出されている。日本語では「シューケル」、「スーケル」と表記される事もある。クロアチア代表として最多の通算45得点を挙げている。現:クロアチアサッカー連盟会長。
彼の妹のクラウディアは、日本でも御馴染みの格闘家ミルコ・クロコップと結婚した。
略歴
クラブ
1982年にユーゴスラビアのクラブ・NKオシエクでキャリアをスタート。1989年にNKディナモ・ザグレブへ移籍。2年間でリーグ60試合に出場、34得点を記録した。ここでの活躍により、ユーゴスラビア代表に呼ばれる。
1991年、セビージャへと移籍。11月17日のエスパニョール戦にてデビューを果たす。移籍初年度は22試合で6ゴールだったものの、翌年には開幕戦でアルバセテ相手にハットトリックを記録するなど33試合で13ゴールを挙げた。1993-94シーズンはロマーリオに次ぐリーガ24得点を挙げた。1996年にレアル・マドリードへと移る。そのシーズンには3度のハットトリックを含む再び24ゴールを挙げ、リーグ優勝に貢献した。また、1998年にはクラブの約30年振りとなるUEFAチャンピオンズリーグ優勝に貢献したが、当時のレアル・マドリードはラウル・ゴンサレス、フェルナンド・モリエンテス、プレドラグ・ミヤトヴィッチらフォワードの選手層が厚く、なかなか出場機会を得られなかった事もあってイングランド・プレミアリーグへ活躍の場を求める。
1999-00シーズン、アーセナルへと移籍。8月22日のマンチェスター・ユナイテッド戦で途中出場という形でプレミアリーグデビューを飾り、アストン・ヴィラにてリーグ初得点を含む2ゴールを挙げた。2000年のUEFAカップ決勝では途中出場、PK戦まで縺れ込むも第1キッカーを務めたシューケルは失敗。その後、第3キッカーであるパトリック・ヴィエラも失敗し、ガラタサライに敗退してしまった。
翌シーズン、ウェストハム・ユナイテッドへと移り、1年間プレー。2001年にドイツ・ブンデスリーガのTSV1860ミュンヘンへ移籍。2003年に選手生活に終止符を打った。
代表
1987年ワールドユースではズボニミール・ボバンらとともに優勝に貢献し、自身も全6試合で6得点を挙げた。1988年には、ソウルオリンピックに出場。1991年2月27日のトルコ戦でユーゴスラビア代表としてデビューし、1990年のワールドカップ・イタリア大会の代表メンバーにも選出された。
1992年にクロアチアが独立すると同国代表として活躍。内戦によりクラブチームこそ海外に移籍したものの、UEFA欧州選手権1996では当時世界最高のゴールキーパーと言われたピーター・シュマイケルの頭上を越す鮮やかなループシュートを決めるなど3得点を挙げ、同国をベスト8に押し上げた。
初のワールドカップ出場となった1998年のワールドカップ・フランス大会では対日本戦で得点を挙げるなど大会得点王となる6得点を挙げ、同国の3位入賞に貢献した。
2002年のワールドカップ・日韓大会にも出場しワールドカップ2大会連続出場を果たしたが、メキシコ代表1試合のみの出場に留まり(無得点)、チームもグループリーグ敗退に終わった。
引退後
引退後は、首都ザグレブでサッカースクール「ダヴォール・シューケル サッカーアカデミー」を発足させ、若手選手の成長を見守っていた。しかし、裕福な家庭の子供を相手にしたアカデミーはクロアチアの人に受け入れられず、現在は閉鎖している[1]。
2012年7月5日、クロアチアサッカー連盟会長に就任した[2]。
所属クラブ
- 1982-1989 テンプレート:Flagicon NKオシエク
- 1989-1991 テンプレート:Flagicon NKディナモ・ザグレブ
- 1991-1996 テンプレート:Flagicon セビージャ
- 1996-1999 テンプレート:Flagicon レアル・マドリード
- 1999-2000 テンプレート:Flagicon アーセナル
- 2000-2001 テンプレート:Flagicon ウェストハム・ユナイテッド
- 2001-2003 テンプレート:Flagicon 1860ミュンヘン
獲得タイトル
- フランス・ワールドカップ得点王
- ユーゴスラビア・リーグ得点王 1回(1988年/1989年)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 67位(1999年)
- リーガ・エスパニョーラ優勝 1回(1996年/1997年)
- UEFAチャンピオンズリーグ優勝 1回(1997年/1998年)
脚注、出典
- ↑ 『引退という通過点』、footballista、No.218 2011年6/29,7/6
- ↑ シュケル氏がクロアチア会長に 日刊スポーツ 2012年7月6日閲覧