彦島
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テンプレート:Infobox 彦島(ひこしま)は、山口県下関市の南端にある島。
また、下関市の彦島地区(下関市役所支所設置条例で示された下関市役所彦島支所の所管する区域)を指す地域名称でもある。この場合、彦島本島のほか、響灘に浮かぶ六連島(むつれじま)、彦島の至近にある竹ノ子島(たけのこじま、彦島と道路橋で接続)、巌流島(正式名称は船島)の3島を含む。
地域概要
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彦島(左手)と本州を結ぶ下関漁港閘門(小瀬戸水門)。山の上にある学校は下関中等教育学校。
2009年2月28日現在の人口は31,126人(下関市役所ホームページによる)と、本州・北海道・九州・四国・沖縄本島などを除くと日本有数の人口の多い島で、島内には重工業地帯が広がっている。
下関の本土とは、関彦橋(かんげんきょう)、下関漁港閘門(小瀬戸水門)、彦島大橋の3ルートでつながっている。東側(関門海峡側)の彦島江の浦町には山口県道250号南風泊港線の一部をなす関彦橋が架かり、下関駅・唐戸・国道9号方面に通じる。関彦橋の250mほど北西の彦島本村町6丁目に下関漁港閘門があり、閘門の上を通行することが可能である。北端の響灘沿いの彦島迫町には彦島道路が通っており彦島大橋が架かり、国道191号・東駅・下関IC方面に通じる。
島内ではサンデン交通がバスを運行している。彦島営業所があり島内各地と市中心部の唐戸・東駅・下関駅を結ぶ。鉄道については、JR山陽本線の関門トンネルの本州側の入り口があり、線路は通るが駅がない。
産業としては、造船業や重化学工業、水産加工業などが盛ん。主な企業として、三菱重工業下関造船所・下関三井化学 (三井化学関連会社、旧・三井東圧化学彦島工場)・ 彦島精錬 (三井金属関連会社) などがある。
竹の子島や、巌流島(船島)等を含めた彦島地区の面積は11.26km²(下関市役所ホームページによる)。
地名
- 地名については『日本書紀』に「引島」とあるのが初出である。鎌倉時代の文献(『吾妻鏡』など)に、「彦島」と表記されたものがあり、「引島」と「彦島」と二通りの表記が共用されながら、やがて「彦島」に統一されるようになった。なぜ「彦島」に統一されたのかは諸説あるが、一例として、「壇ノ浦の戦いの時に、『引は武士にとって縁起が悪い』とされ彦島に改められた」という説がある。(参考文献『下関の地名(増補改訂版)』)
史的エピソード
- 瀬戸内海の制海権を握った平家にとって重要な拠点の一つであり、実際に壇ノ浦の戦いの際には平家が本陣を置いた。また、平家ゆかりの話としては、厳島神社の建設にあたって安芸宮島と並んで最終候補地になったが『七里七浦七曲がり』の条件のうち、僅かに長さが足りずに選ばれなかったとも伝えられる。(ただし、実際には厳島神社自体は平氏が社殿を築く以前から存在する。)
- 保元の乱に敗れた河野通次、源平合戦に敗れた平家の残党が彦島に移住し、彦島開拓の礎を築いた。彼らは、河野通次を筆頭に『彦島十二苗祖(びょうそ)』と呼ばれる。現在彦島において『河野』姓や『百合野』姓は彦島の典型で、岡野、小ケ原、和田などは、河野を大元の出自とする。
- 幕末、馬関戦争の講和条約の際に香港の如く租借地になりかけたが、正使の高杉晋作が突っぱねたため助かったとされる(宍戸桂馬に扮してイギリスのキューパーと交渉)。実際には藩主から『租借もやむなし』と言われていたが、これを託かった通訳の伊藤博文が高杉に伝えなかったためという説(後の伊藤自身による回顧)や、そもそもイギリス側からそんな話は出なかったという説(イギリス側の会議議事録)もあり、判然としない。この話の初出が伊藤の後年の回想録であるため、古川薫はこの話が真実かどうかは不明であるとしている[1]。
観光
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南風泊市場
- 南風泊(はえどまり)市場…フグの取扱量全国一位。
- 西山海水浴場(ひこっとらんどマリンビーチ)
- 福浦貯木場跡
- 老の山公園
- 彦島南山公園
- 彦島八幡宮
- 貴船神社
- 海士郷 牡蠣小屋
- 身投げ岩
- 小戸海岸
公共施設・機関
- 山口県立下関中等教育学校
- 下関市立彦島図書館
- 下関漁港閘門(小瀬戸水門)
- 彦島公民館
- 下関市西消防署
- 彦島地区公園
- 彦島体育館
著名な出身者
芸能人
スポーツ選手
脚注
関連項目
外部リンク
- 彦島の概要 - 下関市
- マップガイド - しものせき観光ホームページ
- 日子の島(※彦島を紹介した個人のページ)
- ↑ 古川薫『幕末長州の攘夷戦争』(中央公論社)p198-205