読売サッカークラブ
テンプレート:サッカークラブ 読売サッカークラブ(よみうりサッカークラブ)は、かつて存在した日本のサッカークラブ。読売新聞社、株式会社よみうりランドが主体となって1969年に創設された。日本サッカーリーグ(JSL)最後のチャンピオンである。呼称は「読売」もしくは「読売クラブ」。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属の東京ヴェルディの前身となったクラブである。
目次
概要
読売サッカークラブの創設は、日本がメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した1968年10月の1ヶ月後、当時の日本蹴球協会(日本サッカー協会)会長・野津謙が将来のプロ化導入を目指して読売新聞社を訪れ、正力松太郎会長にプロサッカーチームの創設を依頼したことに始まる[1][2][3][4][5]。 なお、結成前に日本テレビ放送網の実業団サッカー部(日本テレビサッカー部)があり、1969年春、東京教育大学を卒業した柴田宗宏がこのチームに加わり、東京都社会人サッカーリーグ2部(B)に加盟。正式に「読売サッカークラブ」と正式にチーム名を改めたのは1970年2月[6]。柴田が首都圏の学校に就職していた仲間を加え、その後はとんとん拍子に昇格した[7]。「読売サッカークラブ」は先の「日本テレビ・サッカー部」を発展解消させたとも言われる。ただ成田十次郎は「日本テレビ・サッカー部」のメンバーは1969年3月31日に卒業したと話している[5]。
正力は翌1969年亡くなるが、読売新聞社を中心に、日本テレビ放送網、株式会社よみうりランド、報知新聞社の協力で1969年10月「プロ野球に次ぐプロスポーツ」を視野に入れて任意団体として、「読売サッカークラブ」は発足した[6]。クラブの実質的責任者は日本テレビの笹浪永光(笹浪昭平)で、チーム作りは東京教育大学サッカー部監督だった成田十次郎が行った。成田は野津から「正力松太郎さんが『野球の次はサッカーだ』と考えているので、これから読売新聞と日本テレビがバックアップをするから、そこへヨーロッパ的なクラブを作って、それをプロへつなげるという仕事をして下さい」と直接言われ、笹浪から「できるだけ早く上のリーグへ昇格することと、クラブが募集する少年たちの指導のために」との依頼を受け、当時監督を務めていた東京教育大学の選手を連れて読売クラブを作ったと話している[5][8]。
クラブの運営資金は読売新聞、日本テレビ、よみうりランドが4・4・2の割合で負担し、サッカースクールや少年サッカー大会の収入なども貴重な財源であった。
日本サッカーリーグ(JSL)では他の参加クラブが有力企業に属し、社員の福利厚生や宣伝を目的とした企業アマ(企業チーム・実業団チーム)と呼ばれる形態を採用していたのに対し、同クラブは欧米型のクラブチームの形態を採用し、様々な職種の人々によって構成された。またクラブから給料を貰い、試合の結果によって報奨金を得ることができる事実上のプロであった。
当初は成田の教え子で、東京教育大学出身の柴田宗宏を選手兼指導者として迎え、柴田を始めとした同大学出身者を選手強化の中核とすると共に、少年指導にも当らせた[5][9]。「練習グランドを作り、少年達を育てる」ことに重点が置かれ、欧州型のサッカークラブに倣い下部組織からトップまで使用できる練習グラウンドをよみうりランド内に建設、東京ヴェルディとなった現在もここを練習場として使用している。
1972年にJSL2部に昇格し、監督に成田十次郎、コーチに宇野勝、オランダ人のフランス・ファン・バルコム、選手にジョージ与那城らを迎え戦力の充実を図る。成田や宇野らは数年でクラブを去り、クラブの黎明期を支えた柴田ら東教大出身者達も教員や審判員へと転じた。残ったバルコムの勝負に対する厳しさと与那城のブラジル・スタイルのサッカーがそのままクラブの特徴となっていった。
バルコムは小見幸隆、岡島俊樹、松木安太郎ら高卒の無名選手を鍛え上げ、後に日本代表に選出されるまでに成長させた。しかしJSL2部では圧倒的な強さを誇りながら入替戦の壁は厚く1974年、1975年の2度挑戦を挑むがいずれも果たすことはできなかった。
この後、西邑昌一監督、相川亮一コーチに移行し、1977年にジャイロ・マトスらを迎え4度目の挑戦で初のJSL1部昇格を果たした。
また同年にはルイ・ゴンサゥヴェス・ラモス・ソブリニョが来日したが、1978年1月の日産自動車サッカー部戦での行為により1年間の出場停止処分を受けた[10]。
1部へ昇格すると1978年は4位、1979年は2位に入り優勝争いを繰り広げた。ラモスも出場停止が明けると中心選手としてクラブを牽引した。また、戸塚哲也、都並敏史ら下部組織で育成された選手達がトップデビューを果たし、「練習グランドを作り、少年達を育てる」事が実を結ぶようになった[11]。
また、早稲田大学から日本代表DFの加藤久が加入し、1980年代の黄金時代[12]で中心的な役割を果たした。
1983年に念願のJSL1部制覇(クラブチームとしては全チームを通して日本リーグ初優勝)を達成すると翌年はJSLリーグ、天皇杯の二冠を達成。この当時は与那城、ラモス、戸塚らが絡むパスワークが大きな魅力であったが、同時に反則も厭わない激しいプレーから「野武士軍団」「アウトロー」と評された。
また日産自動車サッカー部との熾烈なライバル関係で知られていた。日産は世界的に著名な選手を獲得して戦力向上を図った。これに対して読売は著名な指導者を招聘することで戦力向上を図った。1983年にはドイツのルディ・グーテンドルフ、1990年にはブラジルのカルロス・アルベルト・ダ・シルバを監督として迎えた。この試みは時にはクラブ内に混乱を招いたが、同時にプロとしての厳しい規律をもたらし、1980年代中盤以降の全盛期を呼び込む一つの要因となった。
かつては「アウトロー」とも評されたクラブも、1986年の武田修宏、1990年の三浦知良、1991年の北澤豪らの加入により都会的なイメージの集団へと変化していった。そのイメージはJリーグ開幕以降もしばらく引き継がれていった。
略歴
タイトル
リーグ戦
カップ戦他
- コニカカップ
- 1990年
- ゼロックスチャンピオンズ杯(1991/92年度に開催されたJSL/天皇杯/JSL杯/コニカ杯の優勝4チームによるトーナメント)
- アジアクラブ選手権
- 1987/88年度
成績
日本テレビサッカー部
年度 | カテゴリ | 順位 | 勝 | 分 | 敗 | 監督 |
---|---|---|---|---|---|---|
1969 | 東京都B | 優勝 | 9 | 0 | 0 | 成田十次郎 |
読売サッカークラブ
年度 | カテゴリ | 順位 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | 得点 | 失点 | 監督 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970 | 東京都A | 優勝 | 24 | 12 | 0 | 1 | 成田十次郎 | ||
1971 | 関東 | 3位 | 18 | 9 | 0 | 5 | 29 | 17 | |
1972 | JSL2部 | 7位 | 15 | 7 | 1 | 10 | 27 | 31 | |
1973 | 3位 | 24 | 10 | 4 | 4 | 40 | 21 | フランス・ファン・バルコム | |
1974 | 優勝 | 26 | 11 | 4 | 3 | 46 | 20 | ||
1975 | 2位 | 26 | 11 | 4 | 3 | 43 | 16 | ||
1976 | 2位 | 25 | 11 | 3 | 4 | 51 | 28 | 西邑昌一 | |
1977 | 優勝 | 47 | 11 | 1PK勝 1PK敗 | 5 | 41 | 19 | ||
1978 | JSL1部 | 4位 | 43 | 10 | 1PK勝 1PK敗 | 6 | 40 | 30 | |
1979 | 2位 | 44 | 10 | 0PK勝 4PK敗 | 4 | 48 | 26 | ||
1980 | 6位 | 17 | 8 | 1 | 9 | 37 | 29 | ||
1981 | 2位 | 25 | 8 | 9 | 1 | 32 | 16 | 相川亮一 | |
1982 | 7位 | 17 | 4 | 9 | 5 | 16 | 20 | ||
1983 | 優勝 | 27 | 12 | 3 | 3 | 27 | 13 | 千葉進(代行) | |
1984 | 優勝 | 26 | 11 | 4 | 3 | 41 | 20 | ルディ・グーテンドルフ | |
1985 | 9位 | 19 | 7 | 5 | 10 | 28 | 31 | ||
1986-87 | 優勝 | 29 | 11 | 7 | 4 | 35 | 18 | 与那城ジョージ | |
1987-88 | 5位 | 24 | 8 | 8 | 6 | 23 | 17 | ||
1988-89 | 5位 | 32 | 8 | 8 | 6 | 25 | 23 | ||
1989-90 | 2位 | 46 | 13 | 7 | 2 | 38 | 16 | ||
1990-91 | 優勝 | 49 | 15 | 4 | 3 | 41 | 16 | カルロス・アルベルト・ダ・シルバ | |
1991-92 | 優勝 | 51 | 15 | 6 | 1 | 43 | 13 | ペペ |
歴代監督
- 成田十次郎 1969年 - 1972年
- フランス・ファン・バルコム 1973年 - 1975年
- 西邑昌一 1976年 - 1980年
- 相川亮一 1981年 - 1983年
- 千葉進 1983年(監督代行)
- ルディ・グーテンドルフ 1984年 - 1986年
- 与那城ジョージ 1986年 - 1989年
- カルロス・アルベルト・ダ・シルバ 1989年 - 1991年
- ペペ 1991年 - 1992年
読売クラブ出身の主な選手
GK
DF
MF
FW
スタジアム
- ホームゲームは主として東京都にある国立霞ヶ丘陸上競技場、国立西が丘サッカー場、駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場を中心に開催されたが、Jリーグ発足当初の本拠地であった等々力陸上競技場(川崎市)でも一部開催された。
下部組織
- 1979年4月に「読売サッカークラブ・ジュニア(1990年に読売サッカークラブ・ジュニオールへ名称変更)」を結成し[10]、1990/91年から1991/92年シーズンには日本サッカーリーグ2部に在籍した。また、読売クラブの女子チームとして、読売サッカークラブ女子ベレーザ(現在の日テレ・ベレーザ)が1981年に創設されている[10]。
脚注
- ↑ #始祖鳥3、8-12、15、31、54、55頁
- ↑ 佐野真一『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』における正力とプロサッカー
- ↑ 高校サッカーと民放テレビ - サロン2002オフィシャルサイト
- ↑ スポーツナビ|サッカー|トヨタカップを呼んだ男たち 第2回 坂田信久
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 3月例会報告 -「サロン2002in岡山」 - サロン2002オフィシャルサイト
- ↑ 6.0 6.1 #始祖鳥302頁
- ↑ #始祖鳥p31-33、54-58、98-102、179-183頁
- ↑ #始祖鳥15、27頁
- ↑ #始祖鳥p34、54-58、98-102頁
- ↑ 10.0 10.1 10.2 #始祖鳥303頁
- ↑ ユース(高校生年代)、ジュニアユース(中学生年代)、など其々の年代が強豪として名を馳せると共に、多くの選手がトップチームへの昇格を果たした。また、女子サッカーの普及にも尽力し、読売(西友)ベレーザ(現・日テレ・ベレーザ)が、日本女子サッカーリーグ(L・リーグ、なでしこリーグ)が現在も活動している。
- ↑ 1985年のキリンカップ'85で日本代表を1-0で降し、練習試合などを除く日本サッカー協会による公式戦で日本代表に勝利した唯一の国内サッカークラブでもあった。
参考文献
関連項目
外部リンク
- 読売サッカークラブ沿革(東京ヴェルディホームページ内)
テンプレート:Navboxes テンプレート:Jリーグ加盟クラブの前身クラブ テンプレート:読売新聞グループ本社テンプレート:Footy-stub