宮崎交通線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|} 宮崎交通線(みやざきこうつうせん)は、かつて宮崎県宮崎市の南宮崎駅から内海駅までを結んでいた、宮崎交通が運営していた鉄道路線の通称である。日南線の前身にあたる。
日本で唯一蓄電池動力による旅客車を蓄電池機関車と共に使用する[1]ユニークな点もあったが、1962年(昭和37年)に全線が廃止され、跡地は大半が日本国有鉄道(国鉄)日南線の建設に利用された。しかし、田吉駅(初代)、飛行場駅、江佐原駅は廃止、白浜駅、内海駅(初代)はルート変更により放棄された。
目次
路線データ
運行形態
1960年(昭和35年)10月1日施行のもので、運賃は1962年(昭和37年)現在。谷口 (1962) による。
- 南宮崎 - 内海
- 5往復、所要53-60分、80円
- 南宮崎 - 青島
- 13往復、所要31-33分、50円
並行するバス路線は宮崎駅前に直通し、倍以上の本数であった。
歴史
- 1911年(明治44年)
- 1913年(大正2年)10月31日 宮崎軽便鉄道が赤江(現・南宮崎) - 内海間を開業[5]
- 1915年(大正4年)
- 1918年(大正7年)4月15日 白浜駅開業[8]
- 1920年(大正9年)9月 宮崎軽便鉄道が宮崎鉄道に社名変更
- 1923年(大正12年)10月22日 青島温泉駅開業
- 1928年(昭和3年) 内燃動力併用
- 1939年(昭和14年)3月21日 青島温泉駅を子供の国駅に改称
- 1942年(昭和17年)4月1日 大淀駅を南宮崎駅に改称
- 1943年(昭和18年)8月24日 戦時企業統合政策により宮崎鉄道・宮崎バス・都城自動車が合併、宮崎交通となる。宮崎交通に鉄道部がおかれる
- 1949年(昭和24年)1月20日 江佐原駅開業
- 1950年(昭和25年)3月 蓄電池動力併用
- 1962年(昭和37年)
駅一覧
南宮崎駅 - 田吉駅 - 飛行場駅 - 南方駅 - 江佐原駅 - 木花駅 - 曽山寺駅 - 子供の国駅 - 青島駅 - 折生迫駅 - 白浜駅 - 内海駅
※廃止時点のもの。先述の通り田吉駅、内海駅は廃止されたため日南線の両駅は2代目(田吉駅は後に一旦廃止されているため現在の駅は3代目)にあたる。
接続路線
- 南宮崎駅:国鉄日豊本線
車両
※廃止時点のもの。
蒸気機関車
- 4
- 1925年、独オーレンシュタイン・ウント・コッペル製のB形タンク機関車。晩年は、番号4を加工して1を標記していた。廃線記念列車を牽引するとともに、廃線後は国鉄に貸し出され、レールの撤去作業にも使用された。
- 6
- 1925年、日本車輌製造製のC形タンク機関車。篠山鉄道の2号機関車を同線廃止の際に譲り受けたもの。
電気機関車
- ED1・3
- 1951年帝国車輛製の蓄電池式機関車。製造当初はED201・202の番号であったが、のちに改番
蓄電池動車
電動機を動力とするため電車の一種とも言える。
- チハ101-103
- 国鉄のキハ40000形キハ40008・40012・40013を1949年10月に譲り受けたもの。3両とも1934年日本車輌製。譲受時に広瀬車輌で蓄電池動車に改造された[9]。機関及び変速機を撤去、蓄電池と50kW-150Vの電動機を台枠に取りつけ、伝導軸と車軸歯車は在来のものを使用。
客車
- ホハ1・2
- 1915年日本車輌製の木造ボギー客車
- フハ4・5
- 1913年大阪電機製の木造2軸客車。当初は6両製造されたが、廃止時点では2両のみ残存
- コハ301・302
- 1951年帝国車輛製の半鋼製ボギー客車。ED1・3と同時に製造された。製造当初はサハ101・102の番号であったが、のちに改番
- ハ11・12
- 1929年に松井車輌で製造された木造2軸気動車(ガソリンカー)ジハ1・2を燃料統制により客車に改造
- ハ13
- 1928年に松井車輌で製造された2軸気動車ジハ3を燃料統制により客車に改造したもの。多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)キハ15として製造されたが、1936年に同番号のまま武州鉄道に譲渡され、前後に荷台を備えた新造車体に載せ替えた。1938年に武州鉄道の廃止により宮崎交通に譲渡されジハ3となり、客車化後の1955年頃に荷台の部分まで車体を延長
- ハ14
- 1930年井上車輌製のジハ5を客車化
- ハ15
- 1933年日本車輌東京支店製。東野鉄道キハ2を譲り受け客車化
保存車両
1号蒸気機関車(コッペル8.6t機/1912年製)が1951年(昭和26年)の廃車後、長らく宮崎大学船塚キャンパス内に保存(放置状態)されていたが、同大移転に伴い交通公園に移設されている。定期的に塗り直されているものの、屋外で屋根もないため保存状態はきわめて劣悪である。
脚注
参考文献
- テンプレート:Cite journal
- テンプレート:Cite journal(再録:テンプレート:Cite book)
- テンプレート:Cite journal(再録:テンプレート:Cite book)
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
関連項目
- ↑ この旅客車は蓄電池動車とも、電車の一種とも呼ばれた。蓄電池による機関車としては、遊覧目的の西武山口線、火薬輸送のための路線があった。産業用では、現在も工場や鉱山、土木工事現場等に蓄電池機関車の例がある。
- ↑ 谷口 (1962) では20km、鉄道省 (1937) では20.1km。この間に改キロがあった可能性がある。経路図の距離は鉄道省 (1937)。
- ↑ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年4月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 『日本全国諸会社役員録. 第20回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1913年11月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1915年3月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「軽便鉄道停車場名改称」『官報』1915年7月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1918年4月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 谷口 (1962) は広瀬車輛に送られた時期から、キハ40013→チハ101を示唆している。40013は7月、他は12月。