鹿苑寺
鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外塔頭寺院である[1]。
寺名は開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ[2]。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐[3]。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955年)に再建された。平成6年(1994年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。
歴史
この地には、鎌倉時代の元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、併せて山荘(「北山第」)を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有し、同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようとする謀反が発覚したために逮捕・処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収された。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。
応永4年(1397年)、室町幕府3代将軍足利義満が河内の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。応永元年(1394年)に義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を執っていた。応永15年(1408年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣を追放して自らここに入ったが、翌16年(1409年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。
その後、義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に北山院が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された[4]。また、応永23年(1416年)1月に義満が相国寺から移築した七重大塔が落雷で焼失すると、義持は七重大塔を相国寺に再建するように命じている[5]。応永27年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。
応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により明治27年(1894年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。
舎利殿(金閣)は古社寺保存法に基づき明治30年(1897年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、昭和4年(1929年)7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また、明治37年(1904年)から明治39年(1906年)に解体修理が行われた。庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身の1つ)により大正14年(1925年)10月8日に史跡・名勝、文化財保護法により昭和31年(1956年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されている。
昭和25年(1950年)7月2日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失(金閣寺放火事件)。文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府や京都府からの補助金、経済界や全国各地からの寄付金など約3000万円(当時)が集められ[6][7]、昭和27年(1952年)着工、昭和30年(1955年)竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。
昭和61年(1986年)から翌62年(1987年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、平成9年(1997年)に夕佳亭の解体修理、平成17年(2005年)から19年(2007年)に方丈の解体修理も行われている。
平成6年(1994年)12月、当寺が構成要素のひとつとなった世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」が登録された。
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鏡湖池と金閣
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雪化粧した金閣
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金閣(北東から)
舎利殿(金閣)
鹿苑寺舎利殿(以下「金閣」と表記)の建築形式、間取り等については以下のとおりである。なお、昭和25年に焼失する前の金閣(応永5年(1398年)頃完成)と昭和30年に再建された金閣とでは細部に違いがあり、以下の説明は再建金閣についてのものである。
金閣は木造3階建ての楼閣建築で、鹿苑寺境内、鏡湖池(きょうこち)の畔に南面して建つ。屋根は宝形造、杮(こけら)葺きで、屋頂に銅製鳳凰を置く。3階建てであるが、初層と二層の間には屋根の出を作らないため、形式的には「二重三階」となる。初層は金箔を張らず素木仕上げとし、二層と三層の外面(高欄を含む)は全面金箔張りとする。三層は内部も全面金箔張りである(床面を除く)。初層と二層の平面は同形同大で、正面5間、側面4間とする(ここで言う「間」は、長さの単位ではなく、柱間の数を表す)。初層と二層は通し柱を用い、構造的にも一体化している[8]。三層は一回り小さく、方3間である。
初層は「法水院」と称し、正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、その奥は正面5間、側面3間の1室とする。正面の5間は等間ではなく、西から2間目(本尊を安置する位置)の柱間が他より広くなっている[9]。この室の正面は5間とも住宅風の蔀戸とし、両側面(東・西面)はそれぞれ前寄り1間を板扉、後寄り2間を土壁とする。背面(北面)は5間とも土壁である。以上の土壁には腰貫を通す。うち、北面の腰貫は建物の外側から見えるが、東・西面の腰貫は室内側にしか現れない[10]。
初層の西側には、池に張り出して、「漱清」と称する方1間、切妻造、吹き放しの小亭が付属する。初層室内は1室とするが、天井に設けられた仕切りによって、西側の間口3間の部分と東側の間口2間の部分とに、ゆるやかに区切られる[11]。西寄り3間の部分は、奥に須弥壇を設け、壇上中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置する[12]。床は板敷、天井は鏡天井とする[13]。二層は「潮音洞」と称し、四周に縁と高欄をめぐらし、外面と高欄を全面金箔張りとする。西側は正面の間口3間、奥行1間分を吹き放しの広縁とし、その奥に位置する方3間を仏間とする。東側は正面2間、側面4間の1室とし、仏間との間は遣戸で仕切られる。仏間正面は中央間が両開き板戸、両脇間は上部を格子窓、下部を腰壁とする。仏間内部は、須弥壇上に観音菩薩坐像(岩屋観音)を安置し、須弥壇周囲には四天王像が立つ[14]。壁と床面は黒漆塗とし、天井には飛天像を描く。広縁は床を黒漆塗とし、天井には鳳凰を描く[15]。
東側の室は、正面側2間と広縁境を舞良戸とする。東室の内部には初層から三層をつなぐ階段があり、上り階段は三層の北側の縁に通じている。二層の東面と西面はすべて板壁とし、北面は西から2間目(須弥壇の背後)を板扉とするほかは板壁とする。三層は「究竟頂」(くっきょうちょう)と称し、方3間の1室で、仏舎利を安置する。初層が蔀戸を用いた寝殿造風、二層が舞良戸、格子窓、長押を用いた和様仏堂風であるのに対し、三層は桟唐戸、花頭窓を用いた禅宗様仏堂風とする。高欄も二層のそれが和様であるのに対し、三層のそれは逆蓮柱を用いた禅宗様である[16]。三層の柱間装置は東西南北とも同じで、中央間を桟唐戸、両脇間を花頭窓とする。三層は天井や壁を含め内外ともに金箔張りで、縁と内部の床面のみ黒漆塗とする[17]。[18]
再建金閣は、村田治郎らの指導で昭和27年から再建に着手し、昭和30年に落慶したものである。焼失前の金閣は明治37年から39年にかけて解体修理が行われていた。再建金閣は、この解体修理時に作成された図面をもとにして、焼失前の建物の構造・意匠を基本的に踏襲している。ただし、焼損部材の調査を踏まえ、旧状に復す形で一部変更された部分もある。
もっとも顕著な相違は、焼失前の金閣は三層のみに金箔が残り、二層には全く金箔が残っていなかったが、再建金閣では三層のみならず二層の外面も全面金箔貼りとしている点である[19]。これは、次のような根拠に基づくものであった。明治時代の金閣の解体修理の後、再使用されなかった二層の隅木(屋根の四隅に用いられる斜材)の部分が別途保存されており、花入れに加工されて別途保存されていた。昭和25年の金閣炎上後は、この花入れ(旧二層隅木の一部)が唯一の焼け残った部材となり、この部材に金箔が押されていたことから、再建金閣では二層も金箔貼りとすることになった。建築史家の宮上茂隆は、もっとも風雨にさらされやすい部材である隅木のみに金箔が残っているのは不自然であるとし、二層には本来金箔は貼られていなかったとする[20]。また、焼失前の金閣では二層の東面と西面の中央に連子窓が設けられていたが、再建金閣では二層の東・西面はすべて壁となっている[21]。
義満の孫・8代将軍足利義政はたびたび鹿苑寺に参詣し、金閣にも上っていることが記録に残されている。『蔭涼軒日録』には、応仁の乱が終わって8年ほど経った文明17年(1485年)10月15日に義政が参詣した際の、義政と亀泉集証(『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録されている。金閣は応仁の乱には焼け残ったが、当時の境内はまだ荒れており、庭の楓樹の大半が乱のさなかに伐られ、池の水量も減っていたことが義政と亀泉のやりとりから窺われる。義政の問いに対する亀泉の応答によると、二層に安置されていた観音像は応仁の乱で失われ、新しい像に替わっていた。また、三層には阿弥陀如来と二十五菩薩の像を安置していたが、像本体は失われ、像の背後にあった白雲だけが残っていた[22][23]。
鹿苑寺金閣は国宝保存法により国宝に指定されていたが、昭和25年7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)。国宝金閣(舎利殿)は全焼、国宝足利義満坐像、伝運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失した。林は寺の裏山で自殺を図ったが一命を取り留めた。彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに保津峡で投身自殺した。この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっている。なお、頂上にあった鳳凰及び「究竟頂」の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、このうち金銅鳳凰は平成11年(1999年)に京都市指定文化財に指定されている[24]。
現在の金閣は、前述のように明治37年から39年の解体修理の際に作成された旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、昭和27年3月22日から3年を掛けて復元再建されたもので[25]、昭和30年10月10日に落慶法要が営まれた。その後、再建から10年あまりで金箔が剥落して下地の黒漆が見えるようになり、その漆も紫外線で劣化するようになったため、昭和61年2月から翌62年10月まで1年8ヶ月、総工費約7億4千万円(当時)を投じて「昭和大修復」が行われ、漆の塗り替えや金箔の貼り替え、天井画の復元等の修復工事が行われた。この修復工事に際し、金箔は通常(約0.1µm)の5倍の厚さ(約0.45 - 0.55µm)の「五倍箔」[26]約20万枚(約20kg)、漆は国産の「浄法寺漆」約1.5トンが使用されている。
最上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、それは誤りであり、複数の板を用いた鏡天井であった[27]。
室町幕府8代将軍足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。銀閣(慈照寺観音殿)、飛雲閣(西本願寺)と併せて「京の三閣」と呼ばれる。
境内
- 金閣
- 舎利殿(金閣)の項を参照。
- 方丈
- 本堂に相当。単層入母屋造で桟瓦葺。延宝6年(1678年)、後水尾天皇の寄進により再興された。平成17年(2005年)から解体修理が行われ、平成19年(2007年)に修復工事を終えた。
- 陸舟(りくしゅう)の松
- 方丈北側にある足利義満手植えと伝えられる松。京都三松の一つ。
- 大書院
- 江戸中期(貞享年間)の建築。伊藤若冲の障壁画(襖絵)で知られていたが、保存上の問題から承天閣美術館に移管され(下記文化財の項を参照)、現在は加藤東一によって「淡墨桜図」「大杉図」「日輪図」「月輪図」「鵜之図」「臥竜梅図」「千鳥図」「若竹図」等が描かれている。
- 銀河泉(ぎんがせん)
- 足利義満がお茶の水に使ったと伝えられる泉。
- 厳下水(がんかすい)
- 足利義満が手洗いに用いたと伝えられる泉。
- 夕佳亭(せっかてい)
- 金森宗和好みと伝えられる茶室。寄棟造茅葺、三畳敷の席に勝手と土間からなる主屋に、切妻造こけら葺で二畳敷の鳳棲楼と呼ばれる上段の間が連なっている。明治初年に焼失したため、現在の建物は明治7年(1874年)に再建されたもの。平成9年(1997年)に解体修理を行っている。なお三畳敷の床柱は茶席としては珍しく南天の木が用いられており、殊によく知られている。
- 庭園
- 金閣を水面に映す鏡湖池(きょうこち)を中心とする池泉回遊式庭園で、国の特別史跡・特別名勝に指定されている。鏡湖池には葦原島、鶴島、亀島などの島々のほか、畠山石、赤松石、細川石などの奇岩名石が数多く配されている。
- 不動堂
- 天正年間に宇喜多秀家が再建したとされ、金閣寺境内に現存する最も古い建物。本尊は空海(弘法大師)作の伝承を有する石不動明王。
- 天鏡閣
非現存。『臥雲日件録』[28]に「舎利殿北、有天鏡閣」(舎利殿の北側に天鏡閣がある)と記されており金閣と「複道」で繋がっていた[29]。『教言卿記』には天鏡閣に15間の会所があったと記されている。外観や構造を詳細に記述した文献や絵図は残っておらず、電子調査を行ったが礎石などの遺構は確認できていない。
文化財
重要文化財
- 絹本著色足利義満像(応永十五年六月足利義持賛)・絹本著色足利義満像(義満の和歌三首あり)
- 絹本著色達磨図
- 大書院障壁画(伊藤若冲筆)宝暦九年の年記がある
- 紙本墨画葡萄図(葡萄之間)(一之間)15面
- 紙本墨画松鶴図(松鶴之間)(二之間)8面
- 紙本墨画芭蕉図(芭蕉之間)(三之間)12面
- 紙本墨画鶏及秋海棠図(四之間)11面
- 紙本墨画竹図(狭屋之間)4面
- 木造不動明王立像(不動堂安置)(西園寺護摩堂旧本尊)
- 子元祖元高峰顕日問答語
- 慈聖院并寿寧院遺誡
伊藤若冲の障壁画をはじめ、大部分の指定文化財は本山である相国寺が管理しており、承天閣美術館で保管されている。
特別史跡・特別名勝
- 鹿苑寺(金閣寺)庭園 - 史蹟名勝天然紀念物保存法(現在の文化財保護法)により大正14年(1925年)10月8日に史跡・名勝に指定。昭和31年(1956年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定。
焼失した文化財
- 鹿苑寺金閣 - 明治30年(1897年)12月28日、古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定[30]。昭和4年(1929年)7月1日、国宝保存法の施行に伴い国宝(旧国宝)となる。昭和25年(1950年)7月2日焼失[31]。
- 木造足利義満坐像 - 明治34年(1901年)8月2日、古社寺保存法に基づき国宝(旧国宝)に指定。金閣とともに焼失した[32]。
交通
脚注
参考文献
- 井上靖、塚本善隆監修、竹中郁、村上慈海著『古寺巡礼京都20 金閣寺・銀閣寺』、淡交社、1977年
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛西』、駸々堂、1983年
- 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、新潮社、1992
- 宮上重隆「足利将軍第の建築文化」
- 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』、淡交社、1977
- 村上慈海「金閣寺・銀閣寺の歴史」
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館
関連項目
外部リンク
テンプレート:古都京都の文化財- ↑ 金閣寺とは、臨済宗相国寺派
- ↑ 金閣寺のあゆみ、臨済宗相国寺派
- ↑ 千鹿野 茂『日本家紋総鑑』ISBN 4040315006 角川書店、1993年、373頁。
- ↑ 桜井英治 『室町人の精神 日本の歴史12』(講談社学術文庫)2009年(原著は2001年 ISBN 406268912X)ISBN 978-4062689120、84-85p
- ↑ 細川武稔「足利氏の邸宅と菩提寺 -等持寺・相国寺を中心に-」『京都の寺社と室町幕府』(吉川弘文館)2010年(原論文は『史学雑誌』第107編12号、1998年)ISBN 978-4642028875、29・36p
- ↑ 【もう一つの京都】日本国王・義満の威光から昭和の放火まで 鹿苑寺金閣の魅力テンプレート:リンク切れ、MSN産経ニュース、2008年11月23日
- ↑ 写真特集:金閣炎上 悲劇乗り越え、世界の「美」に(2010年7月掲載)、毎日.jp、2012年7月6日
- ↑ (宮上、1992)、pp.103
- ↑ (宮上、1992)、p.103
- ↑ (宮上、1992)、p.106
- ↑ (宮上、1992)、p.103
- ↑ 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、p.29
- ↑ 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、p.29
- ↑ 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、pp.34 - 35
- ↑ 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、pp.20 - 21
- ↑ 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、p.23
- ↑ 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、pp.30 - 31
- ↑ 本節は脚注で特記した箇所以外、以下の資料による。
- (宮上、1992)、pp.100 - 103
- 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』、pp.124 - 127
- ↑ (宮上、1992)、pp.100 - 101
- ↑ (宮上、1992)、p.102
- ↑ (宮上、1992)、pp.101 - 102
- ↑ (宮上、1992)p.99
- ↑ (村上、1977)pp.91 - 92
- ↑ 文化史09 金閣寺(鹿苑寺)、京都市歴史資料館「フィールドミュージアム京都」
- ↑ 北山 鹿苑寺 金閣|文化財の修理の現場から、全京都建築労働組合
- ↑ 金閣寺昭和大修復、浩悦庵
- ↑ 村田治郎の文章(鹿苑寺編『再建金閣』鹿苑寺、1955年、p.16)、後藤柴三郎(京都府文化財保護課技師:当時)の座談会での証言(村田治郎ほか「金閣の復旧をめぐって」文化財保護委員会監修『日本文化財』No.6、奉仕会出版部、1955年10月、p.32)など
- ↑ 臨済宗相国寺の瑞渓周鳳が文安3年(1446年)から文明5年(1473年)まで書いた日記
- ↑ 鹿苑寺庭園 防災防犯施設工事に伴う発掘調査報告書
- ↑ 文化財建造物保存技術協会編・刊行『国宝・重要文化財建造物官報告示』、1996年
- ↑ 文化財保護法の施行(1950年8月29日)以前に焼失したため、同法に基づく国宝(新国宝)には指定されていない。
- ↑ 文化庁編『戦災等による焼失文化財(増訂版)美術工芸品編』、便利堂、1983年