桓温
桓 温(かん おん、312年 - 373年)は、中国・五胡十六国時代の東晋の政治家・軍人。字は元子。譙国龍亢(現在の安徽省懐遠県。譙は「言」に「焦」)の人。軍事的成功により東晋を牛耳り、禅譲を目論んだが周囲の反対に逢い失敗した。父は桓彝(かんい)、弟に桓雲、桓豁、桓祕、桓沖。子に桓熙、桓濟、桓歆、桓禕、桓偉、桓玄ら。
生涯
生い立ち
豪爽な性格で立派な容貌を備えていたという。父の桓彝は明帝の下で王敦の乱鎮圧に功績を挙げたが、蘇峻の乱で戦死した。父の殺害者は江播という人物であったが、桓温はこれを突き止め、3年後に江播が死去したときに、弔問だと偽って江家に乗り込み、その息子3人を殺して父の仇を討った。この仇討ちは当時の人々から称賛されたという。
急速な出世
東晋に仕えた桓温は明帝の娘である南康長公主を妻に迎え、皇帝の婿として343年に琅邪太守・徐州刺史と急速に昇進を重ねた。外戚の庾翼は桓温を高く評価し、明帝に対して桓温に人並みの待遇ではなく国家の大役を任せるよう進言していたという。
345年、陶侃が創設した荊州軍団を率いる庾翼が死去すると、宰相・何充の推薦で後任に抜擢され、安西将軍・荊州刺史として武昌に鎮した。強大な軍事力を握って実力者となった桓温は、347年に孫盛らを従えて四川の成漢を滅ぼして声望を高め、征西大将軍に昇進する。351年12月には北伐軍を武昌に止められたが、冉魏から徐州刺史、兗州刺史、豫州牧、荊州刺史が帰順した。また、荊州赴任中に車胤を登用した。
この桓温の伸張に危機感を覚えた会稽王司馬昱(後の簡文帝)は桓温の「竹馬の友」である殷浩を登用し、桓温に対抗させるべく殷浩を北府軍の長に就けた。352年9月、殷浩は東晋の悲願である北伐を上奏して認可され、北に軍を進めて許昌にまで至ったが、ここで部下の反乱に逢い、羌(後の後秦)の首長・姚襄の軍に敗れて撤退した。桓温は戻った殷浩を弾劾して失脚に追い込んだ。
軍団の掌握
桓温は後趙が冉閔によって混乱している事に乗じて北伐を決行し、354年の前秦侵攻には失敗したが、356年に姚襄を破り西晋の旧都洛陽を奪還した。桓温は朝廷に対して洛陽への遷都を主張したが受け入れられず、洛陽に守備隊を残して引き上げた。洛陽遷都についてはほとんどが反対したように当時の状況ではまず無謀なことであり、桓温自身も恐らくはそう考えていたと思われ、自分の功績を誇り、朝廷から譲歩を引き出すためにこのような事を言ったと考えられる。前秦侵攻の時に王猛に仕官を勧めたが、断られている。
北伐・洛陽奪還という東晋の悲願を一時的にではあるが実現した桓温は、帰国後にこの功によって大司馬・都督中外諸軍事となり、364年に荊州から揚州刺史に転任、369年には兗州・徐州刺史郗愔の息子郗超(郗鑒の孫)の協力で郗愔に代わって兗州・徐州の刺史も兼ねて、長江下流域を領域とする北府軍団も手中に収め、西府軍団と合わせて最大の軍事力を獲得し、東晋の実権を完全に掌握した。また、友人の劉淡(劉隗の曾孫)は桓温の軍事能力を高く買っていた。
363年には土断を実行する。これは亡命政権である東晋では北から逃れてきた流民と元からこの地にいた人間とが混在していた。しかしこれらの流民は税役逃れのために戸籍に登録される事を逃れる傾向があった。そこで流民を現在の居住地に住む者として戸籍に登録し、税と兵役の義務を課すのが土断である。東晋の約100年の歴史の中で土断は記録のあるものだけでも9回行われているが、桓温によるものはその中でも規模・徹底性ともに最大級の物で、3月の庚戌に行われたので庚戌土断と呼ばれる。この土断は財政に寄与する所が極めて大きかったとされる。
晩年
その後、北では前燕が勢力を拡大し、365年に洛陽が奪われた。369年、桓温は前燕に対する北伐を行うが、前燕の慕容垂の軍に枋頭(現在の河南省浚県)で大敗する。
これによって失墜した権威を回復するために、371年に司馬奕に変わって司馬昱(簡文帝)を擁立するも、簡文帝は翌年に病死する。簡文帝は臨終に際して桓温に禅譲しようとも考えるが、謝安・王坦之らの反対によりそれを取りやめ、桓温に対して「皇太子(孝武帝)を補佐して欲しい。諸葛武侯(諸葛亮)・王丞相(王導)(いずれも幼帝を補佐し、皇位を奪わなかった人物)のように」と遺詔した。
それにもかかわらず桓温は禅譲を目指し、朝廷に対し九錫(禅譲の前段階である家臣に対する九つの特典)を要求したが、謝安らによる引き伸ばしの前に実現せず、373年に死去した。
その後東晋は謝安が政権を握り、淝水の戦いの勝利を挟んで桓温の息子桓玄による禅譲が実現するが、3ヶ月で頓挫、最終的に桓玄を殺害した劉裕が簒奪に成功、宋を興した。
エピソード
- 桓温が生まれて間もない頃、父と交友のあった温嶠(温恢の子孫)がその泣き声を聞いて将来性に太鼓判を押したため「温」と名付けたというエピソードが『晋書』桓温伝にある。このとき温嶠は「果たして爾らば後、將に吾が姓を易へんとす」と桓温が後に高貴な身分になり「温」の字が使えなくなることを予見したとあるが、実際に後に東晋に禅譲を迫って楚を建国した末子の桓玄が「温」がつく者を改めさせる詔勅を発布している。
- 「竹馬の友」と言う言葉は、殷浩が失脚したときに「殷浩とわしとは子供の頃、竹馬で遊んでおったが、いつもわしが乗り捨てた竹馬に殷浩が乗って遊んでおった」と言った(『晋書』殷浩伝より)というのが原典である。この話では現在の「とても仲が良い幼馴染」という意味とは逆で互いの上下関係を示しているようである。また竹馬(ちくば)は「タケウマ」の事ではなく、切った竹を馬に見立てて乗馬の真似事をする遊びであったようである。
- 「断腸」という言葉について、「桓温が蜀に入る際に兵士の一人が猿の子供を捕まえ、それを追いかけてきた母猿は百里あまりも追いかけた後で死に、腹を割いてみると悲しみのあまり腸がねじ切れていた。桓温は怒ってこの兵士を罷免した。」(『世説新語』黜免第より)というエピソードがある(類似の話は『搜神記』にも見える)。
- 「既に後世に芳を流す能わず、復た臭を万載に遺すに足らざるか」(『晋書』桓温伝より)という語でも有名である。ただし、 『資治通鑑』や『十八史略』では「男子、芳を百世に流すことあたわずば、また臭を万年に遺すべし」に作る。
- 東晋を牛耳った桓温だがその治世には後世から一定の評価がなされており、『晋書』姚興伝よれば、400年に東晋から後秦へ寝返った韋華が東晋の現状を問う秦主・姚興に対して「刑網は峻急にして、風俗は奢宕す。桓温、謝安以後、未だ寛猛の中を見ず」と桓温と謝安の執政時代と比べながら現状を非難している。
伝記資料
- 『晋書』巻98列伝第68