赤松政秀
赤松 政秀(あかまつ まさひで)は、戦国時代の武将。播磨国龍野城城主。宇野政秀と同様、宇野下野守とも称される[1]。
生涯
西播磨の実力者
赤松氏の庶流の一族(龍野赤松家)で、西播磨に勢力をもった。父は赤松村秀(赤松宗家第9代当主・赤松政則の庶子、または赤松則貞の孫)。従兄弟で赤松宗家第11代当主である赤松晴政から偏諱を賜るとともに、その娘を妻にした。子に赤松広貞(ひろさだ)、赤松広秀(広英、広通、のちの斎村政広)、祐高と足利義昭の侍女となった女子がいる。
天文9年(1540年)に龍野赤松家当主の父・赤松村秀が死去すると、天文10年(1541年)3月に村秀の後継者として「赤松弥三郎」の名で本願寺証如から香典を受け取っている[2]。 天文13年(1544年)10月5日には室町幕府から赤松晴政及び播磨国衆に浦上掃部助[3]による賀古庄横領の停止命令が出た[4]が弥三郎も通達された国衆の中に名を連ねた。しかしながら浦上掃部助は横領をやめず、同年11月28日と天文14年(1545年)3月29日の都合3度に渡り、浦上掃部助の横領を停止させるように幕府から書状を受けている[5]。
本来ならば一家臣に過ぎないはずの浦上掃部の横領をなかなか止めさせられなかった事件からも伺える通り、かつて播磨守護だったという肩書きこそあれど当時の赤松氏は衰退著しかったが、政秀は晴政の娘と婚姻しこれを支えた[5]。
晴政追放後
その後、赤松家中は晴政の長男である赤松義祐が成人すると、晴政と義祐の連署の書状が増え、親子で政務が仕切られていた。しかし、永禄元年(1558年)8月に晴政が家督と置塩城を義祐に奪われると政秀はこれを庇護し、以後は晴政の復権を目指して義祐と争うようになる。永禄5年(1562年)6月には義祐方との争いに際して晴政の名代として毛利元就の元を訪れ、援軍要請をするなどの働きが見える[6]。
また、義祐方の有力家老の浦上政宗が10年以上争ってきた備前国にいる実弟浦上宗景と和睦して、小寺政職と同盟を結ぶなどして地盤を固め、勢力を伸長する動きを見せると領を接する政秀はこれを危惧し、永禄7年(1564年)1月11日に浦上清宗(政宗次男)と黒田職隆の娘との婚礼当日に室山城に夜襲を仕掛け浦上親子を討った[5]。これにより政秀は政宗の領していた室津近辺を奪取し領土を拡大している。
晴政復権のための戦いを続けていたが、永禄8年(1565年)に晴政が死去。これによって義祐と対立する名分を失った政秀は義祐と和睦し、赤松宗家と龍野赤松の対立は一旦は収まった。
独立勢力化
義祐とは和睦は成ったが、永禄9年(1566年)に所領拡大のために別所中務の守る利神城を独断で攻撃するなど義祐の存在を意に介さず行動した。
そんな中で永禄10年(1567年)8月、三好三人衆や松永久秀などに京を追われ放浪していた足利義昭からの使者が訪れた[7]。当時の将軍は13代・足利義輝を永禄の変で弑逆した三好・松永の擁立した足利義栄が就いていたが、義輝の弟・義昭は義栄より将軍職を取り戻すために各地の大名に後援を求める檄を飛ばしており、政秀の元にも要請が来たのであった。これを受けた政秀は以後、義昭派として行動する事となる。
永禄11年(1568年)9月、織田信長の力で上洛を果たした義昭が15代将軍となると、政秀は義昭と友誼をより深めようと自身の娘を義昭に側仕えさせるために京へと向かわせた。
義祐との対立の再燃
これに対し政秀が将軍と親密となり播磨の守護職を奪うことを危惧した赤松義祐により、政秀の娘は御着城主・小寺政職の兵に攫われてしまう。また、義祐は宗家を蔑ろにして将軍家と密接に結びつく政秀を「無道の仁」であると罵り、浦上宗景に政秀を攻撃するように要請した[8]。
浦上宗景も当時、赤松を形の上では主君としていたものの殆ど自身の裁量で備前を支配する戦国大名と化していたが、浦上の惣領を継いでいた甥の浦上誠宗を殺して室津を手中にするなど、播磨国への勢力伸長に意欲を見せており、政秀の領土も侵さんと義祐の要請に従う形で侵攻をしてきた。政秀重臣の円山利真はこの時の事を「政秀様御一太事」と記し、遺書を遺すなど逼迫した状況であった[9]。
翌永禄12年(1569年)2月20日には政秀の娘は無事に京へと到着した[1]が、宗景率いる備作衆は退く気配なく政秀領を攻撃しており、ついに耐えかねた政秀は将軍・足利義昭に助けを求めた。これを受けた足利義昭は織田信長に播磨出兵を促し、信長は池田勝正ら摂津国衆を中心にした軍団を派遣し、これに赤松から離れて義昭に与していた別所安治・別所重棟・明石祐行らが加わり義祐領に攻め込んだ。また、備前国でも既に上洛をして義昭より官位を賜るなどしていた宇喜多直家が浦上宗景に対抗する姿勢を見せたため、宗景も備前へと帰還せざるを得なくなった。
没落と死
テンプレート:Main 敵対する諸勢力に一転して優位な状況を作った政秀は、小寺家臣の黒田職隆・孝高親子の守る姫路城攻略を狙い、永禄12年(1569年)8月に3,000の兵を率いて龍野を出発した。対する姫路の黒田軍は300人という寡兵であったが黒田孝高は姫路城の西の青山(現:兵庫県姫路市青山)に兵を伏せて政秀を待ち伏せすると折を見て突撃し、政秀はこれに敗れ龍野へと退いた(青山の戦い)。
同年9月、青山での屈辱を晴らさんと再び3,000の兵で姫路近郊に出兵し、小丸山(現:姫路市飾東町志深字小丸山)に布陣し、対する黒田軍は夢前川東岸にある土器山に陣を張った。政秀は先手を取って土器山に夜襲を仕掛け、井手友氏(職隆弟)を討つなど黒田孝高を追い詰めたが、日が明けると英賀城主の三木通秋が救援に現れ、南から政秀軍を攻撃すると姫路城に在った職隆も出馬して政秀軍を攻撃した為、昼頃にはやむなく兵を小丸山まで後退させた。しかしながら同日夜、大損害を与えたはずの黒田軍が小丸山の政秀本陣を奇襲。優位に立っていた中で思わぬ反撃を受けた政秀軍は対応しきれず、黒田軍に散々に打ち破られ、行軍出来なくなった政秀の軍は龍野まで敗走を余儀なくされた[10](土器山の戦い)。
この後、各地の動向を見て出兵が可能と見た浦上宗景が再度備作衆を率いて政秀領に侵攻してくると、もはや軍事的な抵抗力を失った政秀は浦上軍に降伏を余儀なくされ、同年11月には宗景に降服。浦上に有利な講和を結ばされて所領を削られ、龍野赤松氏は西播磨における覇権を失った。
元亀元年(1570年)11月12日、政秀は何者かに毒を盛られて死去した。浦上宗景の手の人間に毒殺されたともいわれるが詳細は不明。政秀の死後、龍野赤松氏は嫡子の広貞を経て、次子・広秀が継いだ。
脚注
参考文献
- 渡邊大門『戦国期赤松氏の研究』岩田書院、2010年。
- 渡邊大門『中世後期の赤松氏―政治・史料・文化の視点から―』日本史史料研究会、2011年。
- 渡邊大門「戦国期西播磨における地域権力の展開―龍野赤松氏の動向を中心に―」(東寺文書研究会編『東寺文書と中世の諸相』思文閣出版、2011年)