茨城交通水浜線
|} 水浜線(すいひんせん)は、かつて茨城県の水戸市と那珂湊市(現在のひたちなか市)を結んでいた、茨城交通の路面電車である。1966年(昭和41年)に全線が廃止された。
目次
路線データ
- 路線距離:上水戸 - 湊間 20.5km
- 軌間:1,067mm
- 駅数:36駅(起終点駅含む)
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電化区間:全線電化(直流600V架空単線式[1])
- 変電所:浜田[2]
- 車庫:浜田(検修施設を併設)
- 併用軌道区間:公園口 - 水戸駅前、東柵町 - 浜田間。浜田 - 大洗間は専用軌道。
歴史
開業
各地で電気軌道が開通した明治期に、水戸・大洗付近においても路線が計画され水浜電気鉄道や水浜電車軌道などが出願したがいずれも却下され、同地に路面電車が開通したのは大正も半ば過ぎであった。太田町(現・常陸太田市の一部)の豪商五代目竹内権兵衛が中心になって水戸海浜電気軌道の設立を出願し、1920年(大正9年)に路線の特許を申請。翌年に社名を改めて水浜電車として設立した[3]。水戸と磯浜を連絡する軌道事業と沿線地域への電力事業を目的として計画され、水戸市内の下市と磯浜の間は1923年(大正11年)に開業し、水戸中心部の上市への乗り入れ区間は1925年(大正14年)に完成した。開業当初は業績が好調であり、磯浜から湊の入口である海門橋へと、袴塚への延長はそれぞれ1927年(昭和2年)と1928年(昭和3年)に完成。後、海門橋の完成に伴い併用軌道を建設して那珂湊への乗り入れを1930年(昭和5年)に実現した。設備や車両は路面電車規格で運転速度も低いが、水戸市街の中心部と・大洗・湊方面を結ぶインターアーバン(都市間連絡電気鉄道)的な性格を持っていた。当時、延長路線の建設費用がかさんだ軌道事業自体は赤字だったが、水戸・勝田・日立周辺への電力事業の収益で企業としての経営は順調であり株式配当を実施している[4]。
発展期
1918年(大正7年)から水戸市内 - 磯浜間で乗合自動車(路線バス)を運行していた本橋自動車商会が当初70銭だった運賃を1930年(昭和5年)には45銭まで値下げの上運行本数を増加しており、水浜電車と乗客を奪い合う状態だった。昭和恐慌のあおりも受けて水浜電車は経営状態が悪化したが持ち直し、1932年(昭和7年)7月に同社を買収、同年10月に新たに設立した傍系の大水戸自動車に事業を引き継がせた。1935年(昭和10年)、大水戸自動車から乗合自動車事業を譲渡され水浜電車自動車部が営業を開始[5]。乗合自動車事業の収入は軌道事業の収入を上回っており経営の大きな支えになった[6]。
以降、水浜電車は茨城県内の乗合自動車や民営鉄道事業者の経営権取得や買収を積極的に行っていく。1939年(昭和14年)には湊鉄道(現ひたちなか海浜鉄道)の株式を買い集めて経営権を握り、翌年には茨城鉄道(後の茨城線)の経営に参加して、陸運統制令を待つまでもなく事実上の経営の統一は実現されていた。
電力事業の収益は軌道事業の収益を上回っていたが、1942年(昭和17年)4月に配電統制令により電力事業を関東配電へ譲渡し重要な収益源を失う。本業の軌道事業も1938年(昭和13年)の水害による橋梁流出で湊 - 海門橋間の運休を余儀なくされ、経営上苦しい時期であった[7]。
戦時色が濃厚になるにつれ、乗合自動車に使用する燃料やゴムタイヤが物資統制により入手困難になり正常な運行が困難になってゆく。満足に走れなくなった乗合自動車の利用客が軌道線に殺到し、1930年(昭和6年)上期に9万8000円だった軌道部門の収入が1943年(昭和18年)上期には62万2000円[8]と急増。乗車待ちの利用者の列を尻目に車外まで乗客が鈴なりになった電車が出発して行く状態が戦後まで続いた。
茨城交通の設立
大戦下の国策であった陸運統制令による交通統合に伴い、1944年(昭和19年)に水浜電車が中心企業になり茨城交通を設立。同社の水浜線となり、同社の茨城線の上水戸への連絡線を開業、袴塚から起点を移した[9]。1945年(昭和20年)8月2日未明の水戸空襲で軌道や架線設備等が被災したが空襲に備えてあらかじめ郊外に保管していた車両は無事で、破壊された設備の復旧に努め10月には全線で運行を再開した。
戦後は昭和20年代が全盛で、地元の交通機関としての機能と夏の海水浴客輸送で年間約800万人を輸送した。海水浴シーズンには水戸駅前停留所付近に200mも乗客が並んで係員が整理誘導していた。1951年(昭和26年)から在来車よりも収容力を増した半鋼製ボギー車の新造が開始され、保有する車両は30両を数え[10]急速に増加し始めた通学客を続行運転で大量輸送する盛況であった。1956年(昭和31年)より茨城線の上水戸 - 大学前間に水浜線電車の直通運転を開始した。
衰退期
しかし、水浜線の黒字経営は同年が最後で、以降赤字経営に転落する。この頃から茨城交通は経営の主軸を路線バス事業にシフトし、バス路線の拡充や増発して高頻度運転を実施する一方で軌道事業の合理化を進めていった。単線であった水浜線は対向車との行き違い待避時間が発生し表定速度が低く、電車の利用客は次第に運転本数も多く待避待ちが無いバスに流出していった。1928年(昭和3年)の全線開通時には全線通し運転の電車を22分間隔で運転し、間に区間運転が入る頻発ぶりだった。1952年(昭和27年)にも上水戸 - 大洗は28分間隔で水戸駅前や浜田への区間運転が間に入るフリークエントサービス(高頻度運転)を実施していたが1962年(昭和37年)に小型の単車を全廃して減車。合理化による始発の切り上げ・終電車の切り下げや運転間隔の間引きが相次ぎ、待たずに利用できる便利さは次第に失われていった。
乗客誘致と経費節減のために途中停留所の新設、駅員無配置化や廃車にした旧型の小型車両より定員の多い新車を投入して運行本数を削減するなどの方策がとられたが解決とならず、昭和30年代後半には乗客数が300万人を割る程にまで減少してしまった。水戸市街中心部を通る国道50号線の渋滞の原因とみなされ、地元自治体の水戸市議会で渋滞解消を理由に撤去要請を満場一致で可決された[11]。1963年(昭和38年)10月から大洗発の電車は原則として茨城線の大学前まで直通運転していたが[12]始発・終発時刻の切り上げ・切り下げや運転本数削減がさらなる利用客離れを招き、1964年(昭和39年)上期には乗客数が約125万7000人、同年下期には約48万人と激減してしまう。1965年(昭和40年)に水戸駅前 - 上水戸間の部分廃止を実施し、それまでは水浜線で大洗・磯浜方面と水戸市街西部の上市地区中心部の商店街、及び上水戸・大学前方面を往復してきた利用客が、同区間を直通運転する増発された同社の路線バスに流出する。水戸駅前止まりになった電車の利用客はさらに減少してしまい、同年上期には乗客数約25万1000人、営業収入562万円/営業損失1373万円[13][14]と赤字額も大きく絶望的な状況となった。比較的新しい車両10両を仙台市電に売却して残った車両は旧型の木造車わずか6両で、合理化で減便されて48分間隔になっていた[15]運転間隔は1時間間隔[16]とさらに減便された。
軌道事業廃止
事実上軌道事業全廃への準備段階とも言える開店休業に近い状態でかろうじて営業を継続したが、運転本数も頻繁で上水戸・茨大方面へ直通する路線バス相手には競争力がなく、茨城交通は1966年(昭和41年)にバス転換を決定。5月23日から造花や看板で飾り付けた廃止記念の装飾電車を運転し、通用期間5月29 - 31日の廃止記念の謝恩優待乗車券を発行、5月31日の運行を最後に6月1日に全線廃止となって同社の代替バスに転換された。
現在は、同社の路線バス [50] 茨大前 - 栄町 - 水戸駅 - 三高下 - 大洗 - 那珂湊が、ほぼ同じルートを走る。
年表
- 1920年(大正9年)4月27日 水戸海浜電気軌道、大工町 - 磯浜間の軌道特許申請、同年8月30日特許。
- 1921年(大正10年)8月14日 水浜電車設立。本社は水戸市柵町。
- 1922年(大正11年)12月28日 浜田 - 磯浜 (8.7km) が開通。
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)7月22日 郵便局前 - 東柵町 (2.1km) が開通。
- 1925年(大正14年)
- 1926年(大正15年)12月14日 磯浜 - 祝町 (4.2km) が開通。
- 1927年(昭和2年)
- 1928年(昭和3年)
- 1930年(昭和5年)11月22日 海門橋 - 湊 (0.4km) が開通。
- 1938年(昭和13年)6月28日 水害で那珂川に架かる海門橋が流失、祝町 - 海門橋 - 湊間が休止。
- 1943年(昭和18年)5月19日 上水戸 - 光台寺裏(谷中付近) (0.1km) の軌道敷設特許。
- 1944年(昭和19年)8月1日 県内交通統合で、水浜電車、茨城鉄道、湊鉄道などが合併し、茨城交通発足、同社の水浜線となる。同時に上水戸 - 光台寺裏(谷中付近) (0.1km) が開通。袴塚 - 光台寺裏が休止。
- 1945年(昭和20年)
- 1952年(昭和27年)2月1日 上水戸 - 大洗間で直通運転開始。
- 1953年(昭和28年)10月20日 袴塚 - 光台寺裏および大洗-湊廃止。
- 1954年(昭和29年) 茨城線に乗り入れ運転認可。
- 1956年(昭和31年)1月20日 茨城線、上水戸 - 大学前に乗り入れ開始。
- 1958年(昭和33年)9月 集電装置の全線Zパンタグラフ化が完成。
- 1962年(昭和37年) バス交通への転換を表明。
- 1965年(昭和40年)6月11日 上水戸 - 水戸駅前の営業を廃止。
- 1966年(昭和41年)6月1日 全線の営業を廃止。
運転
- 戦前
- 袴塚 - 海門橋は22分間隔、大洗 - 水戸駅前の所要44分。
- 1955年(昭和30年)頃
- 全線の直通を基本とする。26分間隔。
- 1963年(昭和38年)10月改正以前
- 水戸駅前で系統を分割、上水戸 - 水戸駅前、水戸駅前 - 浜田 - 大洗、水戸駅前 - 浜田の3系統で一部列車は大学前へ乗り入れ。
- 1963年(昭和38年)10月改正以後
- (茨城線)大学前 - 上水戸 - 水戸駅前 - 大洗の直通に改めた。日中48分間隔、上り最終は大洗発19時、下りは水戸駅前を18時36分発。他に大学前 - 水戸駅前と大学前 - 浜田の折り返しがあった。
部分廃止以後の運転は不明。
朝の混雑時には2-5両の続行運転が行われた[18]。開業から廃止まで運転手と車掌が乗務するツーマン運転で、ワンマン運転は実施しなかった。
車両
各車両共主幹制御器は全車直接式を使用した。四輪電動客車(単車)はハンドブレーキを常用し、ボギー車はエアブレーキを常用した。集電装置は当初トロリーポールを水戸市街地ではダブル、郊外ではシングルで使用し、戦争末期にはすべてシングル化された。1957年(昭和32年)から順次Zパンタグラフに交換した。135 - 138は当初からZパンタグラフを装備していた。
四輪電動客車
- 1 - 10
- 1922年(大正11年)の水浜線開業時(浜田 - 磯浜間)に導入された木造車で、オープンデッキの四輪電動客車。定員40名。屋根はダブルルーフで台車はブリル21E。日本車輌にて製造され、戦後にドア取付けなど改造を受け101 - 110と改番。
- 11 - 20
- 1925年(大正14年)の大工町への延伸時に導入された車両で、1924年(大正13年)に梅鉢鉄工所にて製造された。基本的には1 - 10と変わりはないが、屋根がシングルルーフに変更されている。定員40名。1 - 10と同じく戦後にドア取付けなど改造を受け111 - 120へ改番。
- 21, 22
- 同じく四輪電動客車であるが、運転台がオープンデッキから密閉式と変更、屋根はダブルルーフとなっている。不明な点が多い車両で、車両竣工図では1927年(昭和2年)日本車輌製となっているが車体下の接合跡のある台枠に「日本車輌 大正六年」と記してある銘板が取り付けてあった。ロシアのウラジオストク向けに日本車輌にて7両が製造されたものの実際には使用されず、1924年(大正13年)飯坂電車が5両[19]、1927年(昭和2年)水浜電車が2両を引き取った。定員40名。
- 元々はボギー車と茨城交通で伝聞されていたが実際は四輪単車で、水浜電車への導入時に車体長を切り詰めたうえ、1 - 20と同じくブリル21E形台車を装備させたと言われている。前後のドア間の窓配置は小窓1個+6個+小窓1個で飯坂電車納入分より車体が短い。こちらも戦後に121,122へと改番された[20]。更新改造の対象から外れ1960年(昭和35年)廃車。
- 四輪電動客車は101 - 120を対象に1957年(昭和32年)頃から更新改造を実施。側面窓の改造と車体腰羽目板の鉄板貼り改造を行ったが、経営合理化による運転本数削減で余剰になり、1962年度(昭和37年度)末をもって廃車となった。
四輪電動貨車
- 1, 2(無蓋車)
- 上記、四輪電動客車の1 - 10を基本に、客室部分を貨物室とした電動貨車。1922年(大正11年)に日本車輌にて1と2の2両が製造された。
- 1, 2(有蓋車)
- こちらも同じく電動貨車で、貨物室部分を有蓋とした車両。1922年(大正11年)新潟鉄工所製で1と2の2両が製造された。形式名は無蓋車と同じく1, 2と付けられたため重複している。
- 電動貨車は貨物輸送および工事用に使用されたが、トラック輸送の進展で1952年度(昭和27年度)までに全車廃車になっている。
ボギー車両
- 23 - 25
- 水浜線初のボギー車両で、1929年(昭和4年)に梅鉢鉄工所にて製造された。車体は前面が平らで全体に角ばった木造であり、ブリル27GE系の高床式台車を装備と製造年の割にはクラシックな姿である。定員66名。戦後に123 - 125へと改番。
- 26 - 28
- 23 - 25とほぼ同形態だが前面が曲面でやや印象が異なる。1942年(昭和17年)に日立製作所で製造された。戦時中による資材不足であったためか木造となっている。メーカーへの発注は5両だったが2両を車両不足だった常北電気鉄道へ割り当てられて3両が竣工。後に126 - 128へと改番。27、28の2両は1944 - 45年(昭和19 -23年)の4年間茨城線の電化区間で使用した[21]。
- 1965年(昭和40年)の路線短縮後123 - 125、126 - 128の6両のみが当線に残って全面廃止まで使用された。
- 129, 130
- 1951年(昭和26年)に新潟鐵工所(現在の新潟トランシス)にて製造された車両。会社名が茨城交通となって最初の新製車両。これまでの車両と変わって半鋼製車となり、やや大きな車体になった。ブリル76E系の低床台車装備で定員80名。戦後に登場した車両で新製時から3桁の車番である。当車の設計は以降の増備車両の基本となった。
- 131, 132
- 1952年(昭和27年)に新潟鐵工所で製造された車両。基本的には129, 130と同形態だが、屋根が木造から鋼板張上げ式に変更されているため、より近代的な外観となった。
- 133, 134
- 1954年(昭和29年)に新潟鐵工所で製造された車両。側窓の上段がHゴム支持に変更(いわゆるバス窓である)された程度で他の部分は131, 132を踏襲する。
- 135, 136
- 1957年(昭和32年)に新潟鐵工所で製造された。133, 134からの変更点は前面窓が3枚から2枚になり、側扉の腰部羽目板がガラス窓に、行先表示機の位置も変更された。前面窓は当初左右2枚共にHゴムではめ殺しだったが、程なく妻面向かって左側下半分が上昇式で開閉可能に改造された[22]。
- 137, 138
- 1960年(昭和35年)に新潟鐵工所にて製造された当線最後の新車。前面窓が再び3枚になったほか、側扉の1枚扉化やオールコイルばね台車への変更があった。
- 1965年(昭和40年)の路線短縮後、同年6月30日付で129 - 138が仙台市交通局に譲渡され仙台市電130形(131 - 140)として使用されたが、ワンマン化改造の対象から外れて余剰になり1972年(昭和47年)3月に131 - 135が、1974年(昭和49年)4月に136 - 140が廃車された。[23]
- このほかに戦後の1946年(昭和21年)夏に撮影された写真で、保線用機材(旧日本陸軍鉄道連隊九七式軽貨車)2台を向い合せのボギー台車替りに転用して屋根無しの車体に幌を屋根替りに取り付けた車両(と呼べるか疑問が残るが)が記録されている。ピン・リンク式連結器を装備しており電動車と連結して使用した模様だが、無認可と思われる[24]。
駅(電停)
袴塚 - 谷中
- 袴塚
- 1944年(昭和19年)8月1日休止、1953年(昭和28年)10月20日廃止
- 谷中
上水戸 - 湊
- 上水戸
- 谷中
- 馬口労町入口
- 1953年(昭和28年)以前に高等学校前から改称
- 一中前*
- 1957年(昭和32年)以降に開設
- 砂久保町
- 1953-1964年(昭和28年-昭和39年)の間に久保町から改称。『日本鉄道旅行地図帳』および中川 (1964) では砂久保
- 公園口
- 大工町
- 開業時は向井町広小路、1934年(昭和9年)以降に大工町広小路に改称、1964年以前に大工町に改称
- (旧)大工町
- 1925年(大正14年)延長時の起点。1934年(昭和9年)以降に廃止
- 泉町三丁目
- 1934年(昭和9年)以降に泉町二丁目から改称
- 泉町一丁目*
- 1957年(昭和32年)以降に開設
- 南町四丁目
- 1964年(昭和39年)以前に泉町広小路から改称
- 南町三丁目
- 局前
- 1924年(大正13年)延長時の起点。1930年(昭和5年)以前に南町広小路から改称。『日本鉄道旅行地図帳』および中川 (1964) では郵便局前
- 水戸駅前
- 1965年(昭和40年)6月11日移転
- 本社前
- 1964年(昭和39年)以前に柵町から改称。1965年(昭和40年)以前に廃止
- 三高下
- 1949年(昭和24年)以降に開設、1958年(昭和33年)以降に県立原子力館前に改称、1964年(昭和39年)以前に再び三高下に改称
- 一高下
- 1930年(昭和5年)以降に中学校前から改称
- 東柵町
- 1923年(大正12年)11月延長時の起点
- 本一丁目
- 1923年(大正12年)6月延長時の起点。1930年(昭和5年)以前に根積町から改称
- 本三丁目
- 本五丁目
- 本七丁目
- 1930年(昭和5年)以前に廃止
- 浜田
- 車庫併設。1922年(大正11年)開業時の起点
- 谷田
- 六反田
- 栗崎
- 東前
- 大串
- 稲荷小下*
- 1964年(昭和39年)以降に開設
- 塩ヶ崎
- 平戸
- 磯浜
- 1922年(大正11年)開業時の終点
- 大貫
- 曲松
- 仲町
- 1960年(昭和35年)以前に廃止
- 東光台
- 大洗
- 1945年(昭和20年)2月移転
- 祝町
- 1926年(大正15年)延長時の終点
- 願入寺入口
- 1934年(昭和9年)以前に開設
- 海門橋
- 1927年(昭和2年)延長時の終点
- 湊
(*印は廃線間際の昭和30年代後半に利用客増加を図るために増設された電停)
上水戸、谷中、磯浜、大貫、曲松、東光台、大洗には駅舎があり駅員が常駐したこともあったが、末期は茨城線との接続駅であった上水戸以外はすべて駅員無配置となった。
接続路線
未成線
湊 - 辰ノ口 - 湊町[25]
湊は海門橋北側(海門町)にあり、さらに市街中心部への延伸が計画されていたが、1934年までに特許が失効した。
脚注
参考文献
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite journal(再録:テンプレート:Cite book)
- 高松吉太郎『写真でつづる日本路面電車変遷史』改訂第2版、鉄道図書刊行会、1978年。
- 中川浩一『茨城交通水浜線』〈RM LIBRARY63〉ネコ・パブリッシング、2004年。
- 原口隆行『日本の路面電車II-廃止路線東日本編-』〈JTBキャンブックス〉、2000年。
- 宮田憲誠『遠い日の鉄道風景-明治のある日人車や馬車が走り始めた-』径草社、2001年。
- テンプレート:Cite book
関連項目
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』12頁。水戸市街地では当初架空複線式、郊外は架空単線式だった。戦争末期にすべて架空単線式に統一した。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』34頁。茨城交通発足時、上水戸に変電所を設置したが経営合理化で廃止された。
- ↑ 原口隆行『日本の路面電車II-廃止路線東日本編-』62頁。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』9頁。1930年(昭和5年)の軌道事業の収支は、収入26万8727円、支出13万7393円、軌道負担支払利子12万3208円、雑損・償却金3万9179円。差引-3万1053円の赤字である。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』10頁。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』10頁。1937年(昭和12年)上期の乗合自動車事業の収入14万5795円、軌道事業の収入11万3649円。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』10頁。1937年(昭和12年)上期の電力事業の収入22万4175円。
- ↑ 原口隆行『日本の路面電車II-廃止路線東日本編-』63頁。
- ↑ 赤塚 - 上水戸は1944年(昭和19年)11月18日、上水戸 - 南袴塚(後の大学前)は1945年(昭和20年)6月1日電化。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』20 - 21頁。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』15 - 17頁。水戸市議会は軌道撤去推進の立場だったが沿線の大洗町と常澄村は一貫して軌道存続の立場だった。著者は、茨城交通が経費削減の為に水浜線のバス転換を目論み、あえて不便な状況を作り出して乗客離れを促進したと指摘している。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』20 - 21頁、34 - 35頁。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』16頁。
- ↑ 原口隆行『日本の路面電車II-廃止路線東日本編-』64頁。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』34 - 35頁。
- ↑ 高松吉太郎『写真でつづる日本路面電車変遷史』83頁。
- ↑ 中川 (1964) によれば2月27日
- ↑ 中川 (1964) には郵便局前での2両の続行運転同士の交換や水戸駅前で同一方向にトロリーポールを上げた4両の客扱い中の写真がある。
- ↑ 宮田憲誠『遠い日の鉄道風景-明治のある日人車や馬車が走り始めた-』44-47頁。絵葉書の写真によれば飯坂電車納入分はドアがないオープンデッキで前後のデッキの間の側面窓は8個。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』40-41頁。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』42頁。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』24、45頁。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』47頁。
- ↑ 中川浩一『茨城交通水浜線』14頁。
- ↑ 森口誠之著『鉄道未成線を歩く私鉄編』JTB、2001年、p.188