兵庫県立兵庫高等学校
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兵庫県立兵庫高等学校(ひょうごけんりつ ひょうごこうとうがっこう, Hyogo Prefectural Hyogo High School)は、兵庫県神戸市長田区寺池町一丁目に所在する県立高等学校。
概要
1908年に開校した神戸二中以来の伝統を汲む公立高校である。「兵高」(ひょうこう)と略されるほか、「武陽」(ぶよう)という言葉も象徴的によく用いられ、所在する湊川河原を武陽原、同窓会を武陽会と称し、また在校生と同窓生とを統合的に「武陽人」と呼ぶこともある。また、ユーカリを「校樹」とし、著しく勢いある成長および世代を超えた同じ「武陽人」のつながりの象徴とされている。
在校生自身は「兵高」ではなく「兵庫」と略することが多い(“兵高”では“兵工”=県立兵庫工業高校と誤解される、また県立兵庫工業高校は実際には「県工」と略される)。
また本校は定時制校である湊川高校と校舎を時差で共有している。
なお、卒業生は、同窓会である武陽会に入会した年ごとに「67陽会」のように称され、数字は、旧制神戸二中1回生が卒業した年から何年目に卒業したかを表している。2013年3月の卒業生は「100陽会」となる。県四(「けんよん」ではなく「けんし」と読むのが通例)の卒業生も卒業年に合わせて「35陽会」などと称することもあるが「県四○回」と書かれることもある。
2008年に創立100周年を迎えた。
沿革
- 旧制中学校・新制高等学校(男子校)時代
- 1905年(明治38年)11月12日 - 兵庫県第二神戸中学校設立の議案が兵庫県会(兵庫県議会の前身)で可決される。
- 1906年(明治39年)
- 1907年(明治40年)5月16日 - 創立事務所(後に開校準備事務所)が兵庫県立第一神戸中学校内に設置される。
- 1908年(明治41年)
- 1909年(明治42年)3月15日 - 校舎を増築。
- 1910年(明治43年)11月18日 - 四綱領「質素・剛健・自重・自治」を発表[1]。
- 1915年(大正4年)4月1日 - 定員を200名増員し、800名とする。
- 1921年(大正10年)4月1日 - 定員を50名増員し、850名とする。
- 1922年(大正11年)4月1日 - 定員を150名増員し、1,000名とする。
- 1926年(大正15年)9月5日 - 同窓会を創立し、「武陽会」と命名。
- 1929年(昭和4年)4月 - 兵庫県立第二神戸夜間中学講習場を併設。
- 1930年(昭和5年)8月 - 運動場1,666坪拡張。
- 1937年(昭和7年)7月1日 - 県立第二神戸夜間中学講習所が廃止され、兵庫県立第二神戸夜間中学校が併設される。
- 1936年(昭和11年)4月20日 - 卒業生を対象に研究科を開講。
- 1940年(昭和15年)
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令により、この時の入学生から修業年限が4年となる。
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年にもどる。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。
- 旧制中学校の募集を停止。
- 新制中学校を併設し(名称:兵庫県立第一神戸中学校併設中学校、以下:併設中学校)、旧制中学校1・2年修了者を新制中学校2・3年として収容。
- 併設中学校は、経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年のみの中学校であった。
- 旧制中学校3・4年生はそのまま旧制中学校に在籍し、4・5年生となった(4年修了時点で卒業することもできた)。
- 1948年(昭和23年)
- 高等女学校・新制高等学校(女子校)時代
- 1942年(昭和17年)
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生より修業年限が4年となる。
- 1944年(昭和19年)
- 4月1日 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限4年の施行が1942年(昭和17年)入学生にも前倒しして施行されることになる。
- 5月 - 学徒勤労動員の出動命令をうける。
- 7月4日 - 学徒勤労動員として川崎機体工場に出勤開始。
- 1945年(昭和20年)
- 4月1日 - 授業を停止。ただし学徒勤労動員は継続される。
- 4月14日 - 和敷山の学校敷地の開墾を開始。
- 4月25日 - 明石神武報国弟二工場へ学徒勤労動員が開始。
- 8月15日 - 終戦。
- 1946年(昭和21年)
- 4月1日 - 修業年限が5年となる(4年修了時点で卒業することもできた)。
- 4月5日 - 間借りの場所を、神戸市立垂水国民学校から神戸市立東須磨国民学校に移転(同校校舎東側と講堂を使用)。
- 1947年(昭和22年)
- 2月22日 - 校歌を制定。
- 3月4日 - 第1回卒業式(現:35陽会)を挙行。同窓会「さわらび会」発足(垂水を歌った万葉集の一葉から命名)。
- 4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。
- 高等女学校の生徒募集を停止。
- 新制中学校を併設し(名称:兵庫県立第四神戸高等女学校併設中学校、以下:併設中学校)、高等女学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
- 併設中学校は経過措置のためあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
- 高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校に在籍し、4・5年生となった(4年で卒業することもできた)。
- 1948年(昭和23年)
- 4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校が廃止され、新制高等学校「兵庫県立第四神戸女子高等学校」が発足。
- 高等女学校卒業者(5年修了者)を新制高校3年生、高等女学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業者(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
- 併設中学校は新制高校に継承され(名称:兵庫県立第四神戸女子高等学校併設中学校)、1946年(昭和21年)に高等女学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
- 5月27日 - 兵庫県立第二神戸高等学校に併設されることになり、移転を完了。
- 6月21日 - 併設中学校で男女共学を開始。
- 4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校が廃止され、新制高等学校「兵庫県立第四神戸女子高等学校」が発足。
- 新制高等学校(男女共学)
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)
- 3月31日 - 併設中学校を廃止。
- 4月18日 - 小学区制の実施により、472名が入学。
- 1950年(昭和25年)4月1日 - 高校三原則により、商業科を設置し、総合制高等学校となる。
- 1952年(昭和27年)4月1日 - 小学区制から中学区制に変更される。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 商業科が廃止され、普通科単独校となる。
- 1967年(昭和42年) - 年2回(春と秋)の対神戸高校総合定期戦を開始。
- 1994年(平成6年)11月 - 新校舎が完成。
- 1995年(平成7年)
- 1月17日 - 阪神・淡路大震災により授業を中止。新校舎の一部が崩壊。校地・施設のほとんどが近隣住民の避難所となる。
- 2月8日 - 近隣の高等学校を借用し、授業を再開。1学年は兵庫県立神戸甲北高等学校、2学年は兵庫県立鈴蘭台高等学校を使用。
- 4月 - 兵庫県立鈴蘭台西高等学校第二グラウンドに仮設校舎を設置し、授業を開始。
- 6月5日 - 3年生が元の校舎に復帰。
- 9月26日 - 1・2学年が元の校舎に復帰。
- 1996年(平成8年)
- 2000年(平成12年)2月24日 - テンプレート:Flagicon上海市松江二中学との姉妹校関係を締結。
- 2002年(平成14年)4月1日 - 週5日制、45分、90分授業になる。
- 2008年(平成20年)
- 4月1日 - 週5日制、50分、70分授業になる。
- 5月5日 - 創立100周年記念式典を挙行。
- 2010年(平成22年)4月1日 - 総合科学類型を設置。
校風と校章
- 二中初代校長鶴崎久米一が掲げた「質素・剛健・自重・自治」の四綱領を、生徒のあるべき姿として引き継いでいる。いわゆる校訓とみなされることが多いが、同校では、校訓よりむしろ校風であり「四綱領」(しこうりょう)と呼ぶのが通例である。(鶴崎久米一初代校長は旧制神戸一中の初代校長でもあったため、この四綱領は、一中を前身とする兵庫県立神戸高等学校と同一のものである。)
- 校章は、林五和夫(36陽会)による、校樹ユーカリの実と若葉がデザインされており四綱領を軸に集うさまを表現している。新制高校発足当初からこの校章であり、多くの高等学校の校章に見られる「高」の文字が入っていないのが特徴として知られる。また、旧制中学校時代の校章が銀色であったことから、現在の校章や男子標準服のボタンなどにも銀色が採用されている(旧制時代から引き継がれた意匠である。特色の項も参照のこと)。
- 校歌は、綱代栄三(20陽会)の作曲で、作詞は新制高校発足当時の国漢科(現在の国語科に相当)教官の合作である。本校では、旧制二中・県四の校歌についても、開校当時の職員や生徒によって作られている(ただし二中の校歌は、当時有名な軍歌『勇敢なる水兵』のメロディーに独自の歌詞をあてたものである)。
特色
- 基本的に校則がなく、(校則のない高校として、ニュースステーションで取り上げられたこともある)伝統的に生徒の自主性に任せる校風を持つ。
制服に当たるものとして標準服が定められているが、服装は自由である。行事はほぼすべて生徒が運営している。そのような自由で活発な雰囲気を好んでか、兵庫高校の教師にはOB・OGが多い。 - 旧制神戸二中は、独自性や砂埃の汚れが目立ちにくい点、夏冬兼用による合理性などの面から、開校当初から「カーキ色」(一般にいわれるカーキ色ではなく、作業服などに用いられる明るい黄土色を指す)の制服を採用した。翌年より、当時の校長が兼任していた旧制神戸一中でも同じ制服に変更されたが、ボタンや帽章(一中:金色 二中:銀色)、ゲートル(一中:茶系 二中:白)、靴や帽子のつばなどの皮革部分(一中:茶 二中:黒)の色などで差別化が行われた。色での差別化は校章においてもなされ、「中」を意匠化した一中の校章を二中にも採用し、一中については金色、二中については銀色とした。色による差別化は戦後の両校にも引き継がれ、男子制服を両校とも黒詰襟に改めてからも、ボタンについては戦前と同じ「神」の意匠の中央に配する文字を「テンプレート:CP932フォント」に差し替えて、神戸・兵庫ともに色違いの同一デザインを継承している。
- 兄弟校である兵庫県立神戸高等学校に対しては文武両面におけるライバル意識が強い。同校とは春は野球・秋はラグビーをメイン競技とする年2回の定期戦が行われており、特に春は甲子園を連想させるほどの両校の応援にぶりで「扇港の早慶戦」と言われている。
- 学校行事が多く、1学期は新入生歓迎遠足・文化祭・合唱コンクール、2学期は体育祭・校外学習等がある。その中でも、体育祭は3年生の仮装が定番となっている。これは、3年生各クラスごとにテーマ(ドラえもん・ジブリなど)を決め、体操服を染料で染めたりなどの改造を施したりダンボールで道具を作ったりして行うものであり、大いに盛り上がる。また、クラス一の力持ちが20キロの砂袋を持ち(腕を曲げたり肩より下に砂袋を落としたら失格)誰が最後まで残るかを競う「下ろせません勝つまでは」は伝統行事である。
部活動
95%の生徒が部活動に参加している。校舎を兵庫県立湊川高校と共用しているため、17時50分には完全下校しなければならない制約がある。
- 運動部
- ラグビー部 - 第9回明治神宮中等学校ラグビー大会優勝(1937年)において全国制覇を達成している。
- 野球部 - 全国高等学校野球選手権大会の地区予選には第一回大会から皆勤出場(全国で15校のみ、現在も継続中)。
- ソフトボール部 - 県四高女時代から流れを汲み、1950年の全国高等学校女子ソフトボール大会で全国優勝を果たしている。
- 剣道部
- 柔道部
- 卓球部
- ソフトテニス部(男・女)
- 山岳部
- 水泳部
- 器械体操部
- 陸上競技部
- バレーボール部(男・女)
- サッカー部
- 空手道部
- バスケットボール部(男・女)
- 硬式テニス部(男・女)
- 文化部
- 吹奏楽部
- 全日本吹奏楽コンクール全国大会で1980年・1989年・1993年に金賞を、1974年・1983年・1990年・1992年・1994年・1995年・1996年に銀賞を、1977年に銅賞を受賞した。現在も関西吹奏楽コンクールの常連である。吉永陽一(神戸夙川学院大学特任教授、兵庫県吹奏楽連盟副会長)、栗山和樹(作曲家)、中島徹(ジャズピアノ・トロンボーン奏者)、小谷口直子(クラリネット奏者)、宇野勝博(数学者 大阪大学教授)は、同部のOBである。
- 1974年(昭和49年) - 全日本吹奏楽コンクール全国大会で銀賞受賞(自由曲:チャンス作曲「朝鮮民謡の主題による変奏曲」、指揮:吉永陽一)。
- 1977年(昭和52年) - 全日本吹奏楽コンクール全国大会で銅賞受賞(自由曲:ネリベル作曲「交響的断章」、指揮:吉永陽一)。
- 1980年(昭和55年) - 全日本吹奏楽コンクール全国大会で金賞受賞(自由曲:レスピーギ作曲「交響詩『ローマの祭り』より主顕祭」、指揮:吉永陽一 兵庫県内の高等学校としては初の全国大会金賞受賞)。
- 1983年(昭和58年) - 全日本吹奏楽コンクール全国大会で銀賞受賞(自由曲:ヤナーチェク作曲「狂詩曲タラス・ブーリバより予言とタラス・ブーリバの死」、指揮:吉永陽一)。
- 1989年(平成元年) - 全日本吹奏楽コンクール全国大会で金賞受賞(自由曲:シュミット作曲「ディオニュソスの祭り」、指揮:松井隆司)。
- 1990年(平成2年) - 全日本吹奏楽コンクール全国大会で銀賞受賞(自由曲:ストラヴィンスキー作曲「バレエ組曲「火の鳥」」、指揮:松井隆司)。
- 1992年(平成4年) - 全日本吹奏楽コンクール全国大会で銀賞受賞(自由曲:プロコフィエフ作曲「バレエ音楽「ロメオとジュリエット」」、指揮:松井隆司)。
- 1993年(平成5年) - 全日本吹奏楽コンクール全国大会で金賞受賞(自由曲:プロコフィエフ作曲「バレエ音楽『シンデレラ』より」、指揮:松井隆司)。
- 1994年(平成6年) - 全日本吹奏楽コンクール全国大会で銀賞受賞(自由曲:チャイコフスキー作曲「バレエ音楽「白鳥の湖」」、指揮:松井隆司)。
- 1995年(平成7年) - 全日本吹奏楽コンクール全国大会で銀賞受賞(自由曲:チャイコフスキー作曲「バレエ音楽「眠りの森の美女」」、指揮:松井隆司)。
- 1996年(平成8年) - 全日本吹奏楽コンクール全国大会で銀賞受賞(自由曲:プロコフィエフ作曲「3つのオレンジへの恋」、指揮:松井隆司)。
- 全日本吹奏楽コンクール全国大会で1980年・1989年・1993年に金賞を、1974年・1983年・1990年・1992年・1994年・1995年・1996年に銀賞を、1977年に銅賞を受賞した。現在も関西吹奏楽コンクールの常連である。吉永陽一(神戸夙川学院大学特任教授、兵庫県吹奏楽連盟副会長)、栗山和樹(作曲家)、中島徹(ジャズピアノ・トロンボーン奏者)、小谷口直子(クラリネット奏者)、宇野勝博(数学者 大阪大学教授)は、同部のOBである。
- 弦楽部 - 1987年創部。2007年度中に創部20周年記念事業を行った。毎年6月には、定期演奏会を開催している。
- 美術部
- 書道部
- 演劇部
- 天文部
- 文芸部
- 茶道部
- 華道部
- ESS(English Speaking Society)
- 物理研究部
- 生物研究部
- ギターアンサンブル部
- 将棋部
- ダンス部
- 生徒会実行委員会
- 放送委員会
- 応援団
著名な出身者
- 島田叡(沖縄県最後の官選知事 沖縄戦で戦没。野球部OB・当校にある合掌の碑は島田知事への鎮魂の意味を込めて建立された。)
- 横溝正史(小説家)
- 竹中郁(詩人)
- 田中久雄(東芝代表執行役社長)
- 矢野徹(SF作家)
- 小磯良平(画家)
- 東山魁夷(画家)
- 清家清(建築家 ネスカフェCM 違いが分かる男)
- 妹尾河童(舞台美術家、作家)
- 山口繁(前・最高裁判所長官)
- 平吉毅州(作曲家)
- 吉川一三 (住江織物社長・早稲田大学校友会大阪府支部支部長)
- 後藤宏行(哲学者、思想の科学研究会元会長代行・疎開で大分県立竹田高等学校に転校)
- 吉永陽一(神戸夙川学院大学特任教授、兵庫県吹奏楽連盟副会長)
- 加藤元 (獣医師・コロラド州立大学客員教授)
- 有馬大五郎 (国立音大初代学長・NHK交響楽団初代事務長)
- 栗山和樹(作曲家)
- 中島徹(ジャズピアノ・トロンボーン奏者)
- 小谷口直子(クラリネット奏者)
- 桂文之助 (3代目)(落語家・気象予報士)
- 桂まん我(落語家)
- 吉川勇次(中退・三代目山口組若頭補佐初代吉川組組長)
- 品川正治 日本火災海上(現 日本興亜損保)社長・会長 経済同友会終身幹事
- 阿多親市(マイクロソフト前社長)
- 久山秀雄(内務省警保局長)
- 楠見義男(初代農林事務次官)
- 渡辺大陸(元プロ野球選手)
- 河野博(元プロ野球選手)
- 片岡節次郎(元プロ野球選手)
- 森滝義巳(元プロ野球・国鉄スワローズ投手、完全試合達成(対中日戦)、立大卒)
- 太田紘一(元プロ野球選手)
- 荒川俊三(元プロ野球・近鉄バファローズの選手)
- 鍋加弘之(ラグビー部OB・明大ラグビー部OB・元ラグビー日本代表)
- 遠藤公(ラグビー部OB・元早大ラグビー部主将)
- 牛場友彦(元アラスカパルプ副社長、元輸銀監事、近衛文麿首相秘書官)
- 八尋俊邦(元三井物産社長、会長、経団連副会長)
- 磯田一郎(元住友銀行頭取、会長、ラグビー部OB)
- 池田芳蔵(元三井物産社長、会長、経団連副会長、NHK会長)
- 四本潔(元川崎重工業社長)
- 乾昇(元住友金属工業社長)
- 金井元彦(元兵庫県知事)
- 浦井洋(元日本共産党衆議院議員)
- 川西英(版画家)
- 井沢正 (指圧師)
- 高原洋(株式会社ダイナック社長)
- 金出武雄(元カーネギーメロン大学教授、デジタルヒューマン研究センター長、ロボット工学)
- 志谷匡史(神戸大学法学研究科教授、商法)
- 田原秀晃(東京大学医科学研究所教授)
- 宇野勝博(数学者 大阪大学教授)
- 地主敏樹(神戸大学大学院 経済学研究科教授 米国金融政策専攻)
- 宮内見(放送作家、新野新の弟子、ラグビー部OB)
- 槇洋介(タレント・ラジオパーソナリティ・放送作家・ファッション評論家・フリープロデューサー)
- ターザン山下(FMラジオ DJ Kiss-FM KOBE・FM-AICHI 他、放送制作・イベント企画運営会社社長)
- 脇浜紀子(よみうりテレビアナウンサー、野球部OG)
- 永井幸治(よみうりテレビプロデューサー 「結界師」・「ヤッターマン」・「宇宙兄弟」他)
- 阿部宏美(元ニッポン放送アナウンサー、現在フリーアナウンサーで昭和プロダクションに所属)
- 小縣裕介(朝日放送アナウンサー)
- 榮真樹 (広島ホームテレビアナウンサー、野球部OB)
- 鈴木一郎(クラシックギター奏者)
- 工藤恭孝(ジュンク堂書店創業社長)
- 小沢福子(大阪府議会議員)
- 福長雅夫(打楽器奏者)
- 田尻哲也(株式会社ダイヘン社長)
- 森島英一(佐世保重工業株式会社社長)
- 倉丘伸太朗(元俳優)
- 福永有利(北海道大学名誉教授、神戸大学名誉教授、民事訴訟法学者)
- 葛野友太郎(元モロゾフ株式会社社長、会長、相談役)
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:Asbox- ↑ この四綱領を宣言した一中・二中両校の初代校長鶴崎久米一は、この年の4月に一中校長専任となり既に二中を離れていたが、当時の二中校長泥谷良次郎によって二中にも四綱領が採用された。
- ↑ 1946年(昭和21年)3月まで同校を間借りしての授業が続くが、垂水国民学校の老朽化校舎改修工事がなされた1943年には移情閣も借用したほか、新入生入学に伴い教室不足となった1944年以後は(工場動員や疎開転校で教室を使う生徒数が減少した期間を除き)校外授業(いわゆる青空教室)や学年別時差交代の短縮授業とするなどで対応した。また県四の校地は歌敷山にあったが、戦争の影響で校舎はおろか校地整備もできず、校地の整備=開墾は1945年4月から同年9月までに生徒らの手で、食糧確保のための農作業用地として使う目的から行われるも、結局校舎が完成することのなきまま二中と合併にいたる。なお、県四では校地開墾以前にも、垂水区馬場通や霞ヶ丘、舞子山林、西舞子農園などの開墾も行い、生徒が収穫した農作物の量・質は地元で「垂水女子農業学校」と評される実績であった。
- ↑ 旧制神戸二中は当初、近隣に位置し同じくナンバースクールのセカンド校として女子の中等教育を行っていた兵庫県立第二神戸高等女学校(県二高女)と合併の構想があったが、県二高女側が自前の校舎を失うことへの危惧(当時神戸市街地では、学制改革の中で誕生した新制中学校の校舎確保が急務であった。それを名目に男子校女子校を統合することで男女共学化が図られた。)や二中との校風の違いから反対し、二中側は「どの高等女学校とも統合する意思がある」と表明、結局、校地を持ちながらも校舎未着工のまま間借りを続けていた県四高女と統合することになった。県四高女の校地の近所には神戸四中があったが、四中も木造校舎を火災で失い仮校舎状態で県四との統合は提案するも破談、(旧)神戸県商が総合制に際して普通科の新設に代えて四中を吸収統合(統合自体は男子校同士でのちに共学化)し星陵高校となっている(後年、星陵商業科は現在の県商新設により廃止された)。県二高女はその後紆余曲折を経て、夢野台高校として校地も維持されている。