ランボルギーニ・ミウラ

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テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 ミウラMiura )は、イタリアランボルギーニが開発・製造した2シーターミッドシップスポーツカーである。伝説の闘牛牧場ミウラ[1]の名にちなんで命名された。ミウラのドアを全開にし、前から見た姿は正に大きく立った角をもつ闘牛のようである。

概要

ファイル:Lamborghini Miura S 002.JPG
ミウラの特徴的なルーバー式リアウィンドウ

トラクターの製造販売やエアコンなどの事業で大成功を収めたフェルッチオ・ランボルギーニフェラーリに対抗すべく1963年に興したランボルギーニによって1966年3月ジュネーヴ・モーターショーにて発表され、1966年から1973年までに約750台[2]が生産された。

ベルトーネによる流れるようなスタイルの2シータークーペでV型12気筒を横置きミッドシップに積み、発表時のプレス向け主要諸元によれば350馬力のノルマーレ仕様でもわずか980kgの車体を最高速度300km/hまで引っ張るとされた(実測データはミウラSで278km/hというデータが残っている[3])。


当時12気筒の大排気量をミッドシップに積んだクルマは前例がなかった。のちに各メーカーとも類似のスーパーGTを登場させた。

1965年トリノ・オートショー(11月)で発表され、期待のかかった4L V12をミッドに載せたベアシャーシTP400に1966年3月のジュネーブショーでボディを架装し発表されるや、当時ベルトーネに就任したばかりのマルチェロ・ガンディーニによるその流麗なスタイリングが注目の的となり100を越すオーダーが殺到した。1967年から生産体制を一応は整えたが、その時点ではまだリアヘビーによるハンドリングの欠点、パワートレーン系が出す盛大なノイズ、冷却性能、などいくつもの問題が解決しておらず、たくさんのバックオーダーを抱えたランボルギーニはしかたなく生産を続けながら改良を加え、最終的にはリアサスペンションほかに大きな改良がされたSVと呼ばれるモデルが製造された。

当時ミッドシップスポーツはいくつかが市販されていたが、ミウラのような大排気量で横置きのものは初めてで開発は難航した。シャーシ設計およびミウラの開発プロジェクトの発案者はジャンパオロ・ダラーラ。ジョット・ビッザリーニ設計のランボルギーニ・1号エンジンをベースにミウラ用に改良したのはパオロ・スタンツァーニ。シャーシの製造はランボルギーニ1号車(350GTV)からその製作を請け負っていたマルケージ社。ボディの設計とデザインはカロッツェリア・ベルトーネで、当時あたり前のようにミウラはジョルジェット・ジウジアーロの作品であると出版物に書かれたが、実際の原案スケッチから始まる一連の作業はすべてマルチェロ・ガンディーニであった。長年にわたり、ミウラのデザインはジウジアーロかガンディーニかで「ミウラ論争」が繰り広げられて来たが、ジウジアーロがベルトーネ在籍時にデザインしたカングーロやテスチュード、さらに1964年にジウジアーロがISOを想定して書いた架空のミッドシップカーGRIFO A3/Cの正面図と側面図から、前任ジウジアーロのデザイン要素を抽出し、ベルトーネの伝統的なテイストを保持することをガンディーニが放棄しなかったこと。また、流行のボディスタイルが流線型からウェッジ・シェイプへと移る過渡期であったことと、ベルトーネ・チーフスタイリストの交代劇が重なったということから生まれた誤解であった。

開発とモデルチェンジの歴史

シャーシだけのモデル TP400

1965年11月にトリノで開催されたトリノ・オートショーにシャーシエンジンのみの試作モデルが展示された。ボディーがなかったばかりでなく、ミウラという名前もまだついていなかった。当時ミッドシップエンジンはデ・トマソヴァレルンガで発表しているくらいで他のメーカーではFRレイアウトが通常だった。その後は欧州レーシングチームのシャーシとしても使われ、スポーツカーレイアウトの標準となるのはミウラが契機であった。ある時フェルッチオ・ランボルギーニはTP400をモナコのあるカジノの駐車場に置いた。非常に珍しいエンジンレイアウトのこの車はボディなしにも関わらずカジノに集まる富豪たちの視線を釘付けにした。頃合を見計らってエンジンがスタートされると、TP400に群がる人々の数は倍にもなったという。

ミウラ

ダラーラがシャーシの完成度をあげる一方、ボディはデザインだけでなく製作も担当するという契約でベルトーネに任された。当時ベルトーネのチーフデザイナーは前任のジウジアーロから交代したばかりのマルチェロ・ガンディーニであった。

翌1966年3月ジュネーヴ・モーターショーに流麗なボディを乗せてミウラが登場する。著名なスペイン闘牛飼育家ドン・アントニオ・ミウラにちなんで命名された(これ以降ランボルギーニは闘牛関連の車名が続く)。ヘッドライトは点灯時のみ前方に浮き上がるポップアップ・ヘッドライトを採用していた。しかし見た目のエレガントさとは裏腹に、ミウラはまさに闘牛のように荒々しい車だった。リアカウル開閉の都合上、ボディ後端に取り付けられたマフラーカッターはエキゾーストパイプと連結されておらず、この部分が咆哮のような排気音を作り出していた。またキャビン直後にはガラスと薄いバルクヘッドだけで仕切られたエンジンルームがあり、熱気と爆音が容赦なく乗員を襲った。

フェルッチオ・ランボルギーニは「ミウラはショー・カーであり、ランボルギーニの他の車の販売促進に役立てばそれで充分」そして「生産は30台程度」と考えていた。実際、生産中の車の販売も良くなったといわれている。

市販車として考えられていなかったミウラの当初の完成度はけして高くなかった。ランボルギーニの公式な区分としてはP400P400S(単にSともいわれる)、P400SV(同様にSVとも)と3つの時代に区切られるが、実際のミウラはその全期間を通じて一台生産する毎に完成度を高めて現在に残る名声を勝ち得ている。つまり、変更は毎回なされ、それは機能改良ばかりでなく誤りの修正もあった。これはイタリアの小規模メーカーにはよくみられることではあるが、しかし同時期作られたエスパーダにはこのようなことがないといわれている。SVで385馬力を公称する出力も現実には310馬力内外だったといわれている。

P400

市販車として販売されるまでに何度も変更を繰り返したミウラだが、顧客が一刻も早い市販を望んだため、ランボルギーニ社はそれに押される形でサスペンションセッティングなどを大まかに決めた状態で生産を開始してしまった。またドライブトレーンをコンパクトにまとめるためにエンジンとミッションの潤滑系を共有する設計がなされ、このためにリミテッド・スリップ・デフ(LSD)の採用も見送られた。(ちなみに同様の理由で初代ミニや殆どのモーターサイクルにも同じ構造が採用されている )結果、高速走行時のフロントの落ち着きに欠け、コーナーでは急激なリバースステアに見舞われることもあったという。

販売された最初の一台は1967年3月に製作されたものである。名前はP400とされた。Pは"Posteriore"(後ろ)でエンジンが後ろに位置していることから、400は排気量4L(3,929cc)の意である。350馬力出力のエンジンでわずか1,075kgの車体を最高速度290km/hまで引っ張った。ランボルギーニは当時はまだ風洞実験ができるほどではなかったが、ニュージーランド出身の開発テストドライバー、ボブ・ウォレス(Bob Wallace:1938-)がこれに貢献している。彼は21歳でイタリアに渡り、ランボルギーニに来る前はフェラーリマセラティでレーサーとして活躍していたがマセラティで一緒だったジャンパオロが1963年に連れてきた。外観からはウインドシールドのモールがブラックである点で後のSと見分けられる。

ランボルギーニ・ミウラは扱いにくいことで有名だが、メンテナンス・サービスだけは別で、ベルトーネの設計はこの点がよく考えられていた。P400は、1967年に約110台(108台とも111台ともいわれる)が、そして1969年までに計475台が作られた。

P400S

ミウラの絶え間ない改良は続き、1968年12月、370馬力に出力を向上させたP400Sとなる。"S"は"Spinto"で直訳すると「押された」という意であるがミウラでは「チューンされた」という意味で使っている。実際は公式発表の馬力ほどはでなかったというが、エンジン強化はドライバーにとってその騒音と熱にさらに悩まされることでもあった。等速ジョイントベンチレーテッド・ディスク・ブレーキが装備され、その後さらにモデル途中でのリアサスペンション強化もなされた。インテリアはオーバヘッドコンソールの形状変更にパワーウィンドウが装備され、エアコンもオプションとしてモデル途中で用意されたがあまり効かなかったという。外観はウインドシールドのモールやヘッドライトのリムがブラックアウトからクロームになった。

P400Sは140台が生産された。

P400SV

1971年3月、ジュネーブショーでは7,850rpmで385馬力まで出力を上げたP400SVが登場する。"SV"は"Sprint Veloce"で「より速い車(にチューンされた)」という意味で使っている。絶え間ない変更により当初の設計目的がこのSVでやっと実現した。SVこそ本物のミウラであり、現在における市場での取引価格もそれを示している。

インテークを大きくし、キャブレターを変更、カムタイミングも変更してこの出力が達成されたが、リアサスペンションがさらに強化され、リアタイヤは9インチホイールとなりピレリのチンテュラート(CINTURATOラジアル)を履いた。そのためリアフェンダーもワイドになってより攻撃的な印象となっている。外見の変更は、ヘッドライト周りの睫毛(まつげ)状のグリルがなくなりシンプルになっていること(右画像を拡大することで比較できる)。その下のフロントグリルも横長の楕円状だったものが上部中央が前方下部に張り出し、Sより口元を少し窄(すぼ)めた感じになっている。あわせてターニングランプも変更された。リアのコンビネーションランプにはバックランプが組み込まれた。この世代からようやくエンジンとミッションの各潤滑系が分離され、オプションでLSDが用意されたが実際に装備されている車は少ない。

P400SVモデルは約150台が生産された。うち一台はフランク・シナトラが購入している。

1973年10月製造の最後の車両の車体番号は"4822"で、ミウラ全体の生産台数は750台程であった。

カスタムモデル

Zn 75

"Zn 75"はたった一台だけ生産されたタルガトップコンバージョンモデルである。タルガ風だがルーフやサイドウィンドウはまったくない。"ILZRO(イルズロー) Zn 75"または"ILZRO(イルズロー) スパイダー(SpyderもしくはSpider)"とよばれることが多い。

ILZROとは国際鉛亜鉛研究機構(International Lead Zinc Research Organization, Inc.:ILZRO(イルズロー)米国ノースカロライナ州[1])のことで、非営利団体として産業界におけるおよび亜鉛利用のための研究開発をおこなう機関である。1966年当時、ILZROは自動車業界での新たな合金、コーティング方式、プレート利用、などの技術を開発しており、この新技術をより広めようと、それまでILZROの研究開発に参画していた企業だけでなく、デトロイトや米国内、さらには世界中の様々な自動車関連企業に対して広く宣伝しアピールするための"ドリームカー"を作ろうとしていた。

ILZROでは執行役員副社長シュレード・ラドケ(Shrade Radtke)がこれを取り仕切っていたが、彼は、このために、フォードの上級スタイリストデザイナージョン・フォスター(John Foster)にコンサルティングを依頼。当初、当時斬新なスタイルとして話題となっていたフォード・マスタングも提案されたが、スタイル変更についてフォード社自身が認めなかったという。ILZROと米国3大メーカーとの関係も考慮した結果、フォスターは1968年初頭にミウラを使うことを提案する。ベルトーネはこの提案を大歓迎したが、ランボルギーニのプロダクトマネージャー、パオロ・スタンツァーニ(Paolo Stanzani)はランボルギーニとしてモディファイすることは許可せず、当時すでにベルトーネとモーターショーに向けて製作中だったロードスターを使うことを提案した。

そのロードスターは、車体番号"3498"のミウラをベースとしてオープン・コンバージョンの製作がなされていたもので、オープンカーとして300km/hに対応するため車高はミウラよりさらに30ミリ下げられ、ウインドシールドの角度も変更されていた。エンジンカバーとして設けられていたルーバーははずされ、エンジン部もオープンになっている。ロールバーが頭の後方に設けられ、このロールバーとサイドメンバーの強化によりある程度、剛性を保っている。ルーフに装備されていたスイッチ類はコンソールに移され、リアコンビネーションランプも変更された。このオープン仕様ミウラはその年のブリュッセル・モーターショーにミウラ・ロードスターとして出品される。

ショーの後、ILZROが買い上げ、ベルトーネはILZROと協力しコンバージョンをおこなう。パーツのほとんどは一度ばらされ、ILZROの推奨する亜鉛合金製やクローム製に置き換えられた。展伸加工された亜鉛合金製のバンパー、ドア、ラジエター、ステアリングホイール、シフトレバープレート、押出形成の亜鉛合金グリル、亜鉛コーティングされたホイールやマフラー鍛造(たんぞう)加工のギアシフトノブ、など、キャブレターからスイッチ一つ一つまで50箇所以上が変更された。通常明るい色を全体に配し暗色でディテールを仕上げ引き締めるというベルトーネだが、このときは金属の輝きを生かすためにボディはパールメタリック調ダークグリーンとなっている。

1969年5月に"Zn 75"として再び発表され、以後、世界各地のモーターショーでの展示、各国の自動車関連会社への貸し出しで"ショー・カー"として常に注目を集めた。

役割を終えた後オークションにかけられたが、生みの親シュレード・ラドケ自身が最高額を出し、彼の個人所有となる。1980年に一度全面リフレッシュされ、その後ラドケにより1981年2月にボストン交通博物館に寄贈される。長らくここに展示されたが、博物館でレストアの後、オークションで人手にわたる。再度オークションで英国のアルコール飲料メーカー、ポートマングループの手に渡るが、この時はランボルギーニ・ミュージアムを設立するためと発表されていた。1990年から少なくとも1996年まで国内のヒストリックカー専門店にあった[4]後、日本マツダミュージアムのコレクションにあるはずであると多くの専門家が指摘していたが、白のレザーシートに赤いカーペットのインテリア、淡いブルーメタリックのボディカラーにリフィニッシュされて、2008年ペブルビーチ・コンクール・デレガンスに現れたことで、マツダコレクション説は否定された。

イオタ

詳細はランボルギーニ・イオタを参照

ミウラと同じ車体(シャーシは別のもの)を使用した実験車両に「J」(車体番号5084)があり、通称「イオタ」として知られている。これは当時ランボルギーニ社の車両設計に深く関わっていた技術者のボブ・ウォレスが主導して製造したものである。この個体についてウォレスは潤滑系統のエンジン性能への貢献度、操縦性の向上、総合的な製造品質を調べたかっただけと語っているテンプレート:要出典。また経営者であったフェルッチオは「やりたいなら好きにさせてやれ」といっていたというテンプレート:要出典

「J」のホイールはリアが(9インチから)12インチ幅となり、フェンダーもより広げられている。スペアタイヤとガソリンタンクが前軸後方にあるにもかかわらず重量配分がより改善されているテンプレート:要出典。シャーシフロアをはじめとして車両全体にアビオナル(Avional)航空機用アルミシートを使い軽量化を図っている。固定ヘッドライトにしたのもそのためである。車重は882kgで、ミウラより360kg軽くなっている。

エンジンは圧縮比が11.5とかなり高めにされ、カムシャフトもハイカム仕様、エンジンとトランスミッションを別系統のドライサンプ方式で潤滑(スプリットサンプ&ドライサンプ)。サイレンサーは装備されていなかったテンプレート:要出典

ランボルギーニが財政難になった1970年、「J」は"あるミラノの得意客"に販売される。さらに1971年に、イタリアのレーシング・チーム『スクーデリア・ブレシア・コルサ(Scuderia Brescia Corse)』のオーナーで車のコレクターでもあるアルフレッド・ ベルポナー(Dr Alfredo Belponer)の手に渡る。この取引はブレシアでのランボルギーニ・ディーラー、エンリコ・パソリーニ(Enrico Pasolini)が担当していた。ところが、ベルポナーがステアリングを握る前にディーラーのメカニックがブレシアの環状道路で運転して事故を起こし、横転した後に火を噴いてしまった。ボブからは「浮きやすい」と注意されていたテンプレート:要出典。乗っていた二人は一ヶ月の入院ですんだが「J」は修理不能の残骸となった。

ウォレスが「J」を製作した理由については諸説あるが、福野礼一郎は「ミウラの徹底改良版がどの程度の実力を持ち得るか」を推し量る為のものであったと推測し、結果としてミウラの発展改良型では満足のいく性能が得られないと判断したウォレスは、フレーム構造からして全く異なる「カウンタック」を構想するに至ったのではないかと指摘している[5]

P400 SVJ

イオタの評判を耳にした顧客が自分のミウラをイオタに改造してほしいと依頼して誕生。ランボルギーニは製作を受諾しSVJと名づけて製作された。わずか5台が製作されたのみ。5台以外にもモディファイされた車両があるが、それらはイオタ・ボディに変更されたのみでエンジンやシャーシに関してはイオタ化の変更は一切されていない。ランボルギーニ製ではあってもこの後者の仕様は"イオタ・レプリカ"とよばれることがある。

SVJの最初の一台は車体番号4934で1971年12月生産の車両で、イラン革命前の国王モハンマド・レザー・パフラヴィー(パフラヴィー2世)の依頼だった。イオタのボディ、(機能しない飾りの)ブレーキ・クーリング・ダクト、ヘッドライト・カバー、レース用の外付け燃料フィルター、フロントワイパーは一本式、フロントスポイラー、サスペンション設定の再調整が施されたものだ。

テヘランの宮殿内にもう一台のSVと共に護衛付きで保管していたという。この車は革命後多くの人の手を経たが、映画俳優ニコラス・ケイジ1997年から2002年まで所有していた。

P400 SVJ スパイダー

1981年のジュネーブショーにランボルギーニが出品したオープン仕様のミウラ。実際には1971年のジュネーブショーに出品されたイエローカラーのミウラSをベースにスイスのランボルギーニ・ディーラーであるランボモートルAGがスパイダーとして1980年に架装したものである。新たにランボルギーニを買収したパトリック・ミムランがCEOについてまもなくの時期で、このP400 SVJ スパイダージャルパLM002など他の1981年モデルと並んでランボルギーニブースに展示され、ランボルギーニの再生を謳っていた。このときは幅広タイヤを装着し、リアウイングも取り付けられていた。

2006ミウラ・コンセプト

ミウラ40周年にあたる2006年、新たなミウラとしてミウラ・コンセプトデトロイト・オートショーにて公開された。デザインはアウディグループのヴァルター・デ・シルバがおこなった。

評価

2004年、辛口の批評で知られる米国のスポーツカー専門誌、スポーツカー・インターナショナル誌ベストスポーツカー1960年代部門の第四位に"ミウラ"を、1970年代スポーツカー、および、すべての期間におけるスポーツカーのそれぞれ第四位に"ミウラSV"を選出している。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. スペインの牧場'Miura'の闘牛の角にかかって死んだ名闘牛士は何人もいる。獰猛で頭が良く、角の大きなMiuraの闘牛は、今でも闘牛士の間で恐れられている。当時ミウラ牧場のオーナーはフェデリコ・ミウラでフェルッチオの友人であった。
  2. フレーム製作を担当したマルケージ社の記録では747台。
  3. テンプレート:Cite book
  4. 二玄社SUPER CG No.33
  5. 福野礼一郎『福野礼一郎スーパーカーファイル』双葉社、2008年
"http://ja.wikipedia.org/wiki/Template:Cite_book" より作成

関連項目

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外部リンク

  • The Lamborghini Miura Web クルマの写真を元にした印刷アートの制作販売を行っているPhilippe Muratoriのサイトではミウラに関するあらゆる資料が確認できる。

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