馬淵史郎

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テンプレート:Infobox baseball player 馬淵 史郎(まぶち しろう、1955年11月28日 - )は、明徳義塾高等学校高知県須崎市)硬式野球部監督。愛媛県八幡浜市大島出身。愛媛県立三瓶高等学校拓殖大学卒業。「馬」は誤記。

監督就任までの経歴

高校と大学では内野手としてプレイ。甲子園大会の出場経験はなし。

大学卒業後は松山に帰郷。2社で就業した後、1982年に兵庫県の警備会社・阿部企業に入社、野球部のコーチ兼マネージャーに就任。翌1983年より監督を務め、1986年には社会人野球日本選手権大会にて準優勝に輝く。その後再び松山に戻って職に就くが、翌1987年より明徳義塾高校野球部でコーチを務めつつ、高等学校社会科の教員免許を取得。1990年に明徳野球部監督に就任。

5打席連続敬遠から全国優勝まで

1992年夏の全国高校野球選手権大会で、当時星稜松井秀喜に対して、全打席敬遠(5打席)を指示した監督としても有名で、この敬遠は社会的に大きな話題となった(松井秀喜5打席連続敬遠)。1998年夏は好投手寺本四郎高橋一正らを擁し準決勝に進んだが、松坂大輔擁する横浜に終盤大逆転されて敗れた(明徳義塾対横浜)。

その後も毎年強力なチームを編成し甲子園の常連校として度々大会優勝候補に挙げられる。そして自身14回目の2002年夏の大会では森岡良介筧裕次郎らの活躍で初の決勝に進出し、智弁和歌山を破って全国初制覇を達成した。

野球部員の不祥事による監督辞任から復帰まで

2005年に明徳は全国高校野球史上初の地方大会8年連続優勝を果たしたものの野球部員の不祥事が発覚し、対戦相手(日大三高)決定後に出場を辞退した。馬淵は責任を取り監督を辞任、高野連から1年間の謹慎処分を受けた。馬淵の後任監督には野球部副部長の飯野勝が就任したが、翌年夏の高知県大会は準優勝に終わり、馬淵抜きでの甲子園出場は果たせなかった。2006年8月16日高野連の審議委員会で復帰が承認され、同22日付で監督に復帰。監督復帰時のチームでの甲子園出場はならなかったが、翌年のチームで2008年春に甲子園出場(ベスト16)を果たし、復帰後初の甲子園での指揮で健在ぶりを示した。その後も2012年の選手権でのベスト4、翌年もベスト8入りするなど全盛期の強さを取り戻している。

戦術・チーム作り

  • 長年の経験を生かし『確率』や『試合の流れ』を重視する。あらゆる場面・状況下で選手の実力や点差、相手選手、監督の心理等も考慮した上で采配を執る。
  • 「守り勝つ野球」を基にまず「投手力」「守備力」「走力」レベルの高いチーム作りをする。攻撃面では「強力打線」のイメージがあるが、犠打、機動力を絡めた攻撃もよく行う。新聞・雑誌面等で『策士』と評されることも多い。また、選手のコンバートもよく行う。
  • チーム力は年度毎に多少の差はあるが、野球そのものの質・レベルは高く全国クラスである。
  • 1990年の監督就任以降明徳は全国大会への出場頻度は高く (上記『全国大会での成績』参照)。2002年夏には全国優勝も達成し、全国屈指の高校野球強豪校に育て上げた。
  • 済美上甲正典監督、智弁和歌山高嶋仁監督をはじめ、多くの高校野球監督、関係者と親交があり、全国の名門校との練習試合を数多く行っている。

馬淵節

インタビューや取材の際、独特のだみ声で語るその応答や言い回しが『馬淵節』と呼ばれている。

人物・エピソード

  • 少年時代は松山商業の野球に憧れ進学を希望していた。明徳の『投手を中心とした守りの野球』は「松山商をはじめとする愛媛の野球が原型」と語っている。
  • 高校時代から「事なかれで済まさず、敢えて面倒な方を選んでしまう」性格に由来して“コト起こしの史郎”と呼ばれている。
  • 阿部企業在籍時には夜中の道路工事の交通整理員にも自ら進んで取り組んだ。当時阿部企業でプレーしていた選手は、「監督が一番きつい仕事をしていた」と口を揃える。
  • 甲子園出場・20大会連続初戦勝利という驚異的な記録を持っている(甲子園大会は出場するだけでも非常にハードルが高く、強豪校においても初戦は実力が発揮できずに敗退は珍しい事ではない。加えて高校野球は毎年選手、チーム力が異なる為、この記録を他監督が塗り替えるには長い年月と安定したチーム力を要する)。この初戦連勝記録は2011年選抜大会で日大三高に5-6と惜敗し、20で止まった(の初戦連勝記録は継続中)。
  • 甲子園大会に於ける通算勝利数は、現役監督では智弁和歌山高嶋仁監督、帝京前田三夫監督、横浜渡辺元智監督に次ぐ第4位であり、これらの高校と対戦する場合は『名門対決』と同時に『名将対決』としてもマスコミ等で注目される。
  • 2012年夏の甲子園大会で、酒田南高校(山形)に勝利し甲子園通算38勝目をマーク。元池田高校野球部監督の蔦文也を抜き、四国地区最多勝利監督となった。インタビューでそのことを告げられると「記録で1番というのは悪い気はしないけど、蔦さんは大監督。いくら勝っても超えられません」と答えた。
  • 2002年夏、全国制覇を達成した直後のインタビューでは「何度も2回戦、8強、4強の壁に阻まれ、一生監督として優勝できないのではないかと思った事もあった。選手達が僕を男にしてくれました。選手ひとりひとりに感謝したい」と涙ぐんだ。球場を出る際キャプテンの森岡良介にウイニングボールを差し出され「このボールに…一人ひとりの名前を書いてくれ。馬淵家の家宝にするから」と喜んだ。
  • 済美上甲正典監督(愛媛県南予出身で同郷である)は馬淵について「誉めるところはあっても、けなすところの無い男です。甲子園での実績も素晴らしいものがあります。勝負に対する強い思いや、はっきりした言動で世間では誤解されている部分もあるようですが、先輩への気遣いや生徒への思いなど感心する事が多く、深く付き合えば彼の男気を感じるはずです」と語っている(愛媛新聞インタビュー)。
  • 夏の高知県大会で明徳の強さがずば抜け、夏の甲子園の高知県代表は明徳が独占しているといっても過言ではない時代があった。当時、本大会で負けた時に、1、2年生は原則として甲子園の土を持ち帰ることはなかったという。つまり、甲子園にはいつでも来られる状況であり、本大会に出場し、その翌年に卒業する高校3年の選手を除きわざわざ土を持ち帰る必要はないとの意味である。
  • 2005年、夏の甲子園大会前に高校野球の各メディア関係者(記者アナウンサー等)による、『馬淵監督を囲む会』が開かれる予定だったが出場辞退により中止。延期されていたこの会は、馬淵の復帰後初の甲子園大会となった2008年センバツ開幕前に3年越しで開催された。
  • 2008年より、(夏の甲子園に明徳が出場しない場合)ABC試合中継で解説を行っている。
  • 歴史に詳しく、歴史上の人物や出来事、格言等を時折インタビューや取材の話の中で用いる。
  • 子供好きで、ある時明徳ファンの子供に「だれでもいいのでサインを下さい」と頼まれた際、「おう、ほなおっちゃんのでええか?」と答え、周りを笑わせた。
  • 監督復帰後は、母校・拓殖大学のスポーツ推薦枠拡大を内田俊雄拓大野球部監督と共に働きかけ、自身の長男を含む明徳義塾出身者を数多く同大学に送り込み、東都大学野球1部リーグ昇格の足掛かりを作っている。
  • 長男は明徳義塾から拓大を経て社会人野球のシティライト岡山に入り、2014年現在もプレーを続けている。

主な教え子

阿部企業
明徳義塾高

関連書籍

  • 『監督と甲子園』 (日刊スポーツ出版社) 藤井利香 著
  • 『怪物たちの世代 その時甲子園が揺れた』 (竹書房) 矢崎良一 他 著
  • 『甲子園が割れた日 松井秀喜5連続敬遠の真実』 (新潮社) 中村計 著

甲子園大会での成績

  • 通算:出場 24回・42勝 23敗 / 優勝1回 / 記録:出場大会初戦20連勝
    • (春)選抜[1] :出場 10回 16勝 10敗 / ベスト4(2004年)、ベスト8(1996年、1998年、2000年、2002年)
    • (夏)選手権[2]:出場 14回 26勝 13敗 / 優勝(2002年)、ベスト4(1998年、2012年)、ベスト8(2013年)

四国地区大会での成績

各県大会の上位校が集い、年2回(秋季、春季)開催される四国地区大会にも高知県勢として頻繁に出場し好成績を収めており、四国(高知)の強豪校としての地位を確立させている。

キャリア・経歴

脚注

テンプレート:Reflist
  1. 朝日新聞>高校野球>甲子園の戦績>選抜>高知
  2. 朝日新聞>高校野球>甲子園の戦績>選手権>高知