須恵器

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須恵器(すえき)は、日本古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器炻器)である。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。5世紀朝鮮半島南部から伝わり、重宝された。

用語と特徴

平安時代には「陶器」と書いて「すえもの」「すえうつわもの」と読まれていたが、それが古墳時代に遡るかはわからない。陶器(とうき)と混乱を避けるため、現代考古学用語としては須恵器が一般化している。20世紀前半までは祝部土器(いわいべどき)と呼ばれることがあった。

須恵器の起源は朝鮮半島(特に、その南部の伽耶)にあり、初期の須恵器は半島のものと区別をつけにくいほど似ているが、用語としては日本で製作された還元焔焼成の硬質の焼物だけを須恵器という。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などもう少し細分した名で呼ばれている。

土師器までの土器が日本列島固有の特徴(紐状の粘土を積み上げる)を色濃く残しているのに対し、須恵器は全く異なる技術(ろくろ技術)を用い、登窯と呼ばれる地下式・半地下式の窯を用いて還元炎により焼いて製作された。それまでの土器は野焼きで作られていた。このため焼成温度(800~900度)が低く、強度があまりなかった。また、酸化焔焼成(酸素が充分に供給される焼成法)となったため、表面の色は赤みを帯びた。それに対し、須恵器は窖窯(あながま)を用い1100度以上の高温で還元焔焼成する。閉ざされた窖窯の中では酸素の供給が不足するが、高熱によって燃焼が進む。燃料からは、酸素が十分なら二酸化炭素になるところ、一酸化炭素水素が発生する。これが粘土の成分にある酸化物から酸素を奪う、つまりは還元することで二酸化炭素と水になる。特徴的な色は、粘土中の赤い酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質するために現れる。[1]

歴史

古墳時代

高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したの記述がある一方、垂仁天皇垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記されている。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性が否定しきれないが、現在のところ、この記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない[2]。結局、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。

考古学的には、須恵器の出現は古墳時代中期、5世紀中頃とされる[3]。日本列島で最古の窯は大阪府堺市大庭寺窯跡であるが、最初に須恵器生産が始まった場所(窯跡)として大阪府堺市南部、和泉市大阪狭山市岸和田市、にまたがる丘陵地帯に分布する陶邑窯跡群、福岡県の小隈・山隈・八並窯跡群が知られている。また、吹田市吹田32号窯、岡山県奥ヶ谷窯跡、香川県宮山1号窯・三谷三郎池西岸窯跡、福岡県夜須町山隈窯跡などの初現期の窯跡も日本各地に造られる。これらの系譜は、いずれも伽耶系である。

このうち大阪府の陶邑窯跡群は日本列島最大であり、天皇陵を含むと考えられている百舌鳥古墳群と地理的に近接しており、やがてヤマト王権の管理のもとで、同じ規格の製品を生産するよう統御されるようになったと考えられる。そのような「品質管理」の状況を物語る遺跡として堺市の深田遺跡や小角田遺跡が挙げられる。

6世紀代に列島各地に須恵器窯が造られた。これらの須恵器窯で陶邑様式の須恵器が生産された。このことを陶邑工人の地方拡散とみる説、在地工人が陶邑様式を受容して生産したとみる説とがある。微妙な地域差が見出せるものの、列島的規模での規格化の力が働いていることは確かである。このことから、須恵器生産においてヤマト王権が主導的役割を果たしていたと考えられる。

古墳時代の須恵器は、主に祭祀や副葬品に用いられた。初めのうち古墳からの出土に限られるが、普及が進んだ後期になると西日本で集落からも出土し、西日本では須恵器、東日本では土師器が優勢という違いが現れた。[4]

奈良時代

奈良時代以降になると、各地方で国分寺を焼成するために、瓦窯とともに須恵器焼成窯が造られるようになった。国や郡の官衙での使用が柱にあったが、それだけに留まらず日常の器としても盛んに用いられるようになった。埼玉県鳩山町及びその周辺に分布する南比企窯跡群は、その代表例である。須恵器生産は蝦夷に対峙する城柵の設置にともなって東北地方に達した。

平安時代

平安時代には、これまで須恵器生産が盛んだった西日本で一郡一窯の体制から一国一窯への収斂がみられ、産地の数が減る傾向がでてきた。地方統治における郡の役割の低下と、国の役割の向上が背景にあるとも言われる。しかし辺境域の東日本では逆に生産地拡散の傾向がみられ、関東地方では新規の窯が増えた。東北地方中部・南部でも奈良時代には少なかった須恵器が9世紀には盛んに製作された。それも9世紀末には衰退し、土師器系の土器にとってかわられる形で須恵器生産は10世紀に絶える。[5]

拡散の最遠は、9世紀末から10世紀にかけて操業した五所川原窯で、津軽平野にある。当時日本の支配領域の外か外縁にあった五所川原窯からは、地元の津軽半島だけでなく、北海道まで製品が送り出された。

脚注

  1. 『土師器・須恵器の知識』。
  2. 『土師器・須恵器の知識』、100頁。
  3. 『土師器・須恵器の知識』、80頁。
  4. 『土師器・須恵器の知識』、93頁。
  5. 「須恵器生産の拡大」。

参考文献

  • 玉口時雄・小金井靖『土師器・須恵器の知識』(改定新版)、東京美術、1998年、ISBN 4-8087-0661-X。
  • 渡辺一「須恵器生産の拡大」、『季刊考古学』第93号、2005年。