野口寿浩

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テンプレート:Infobox baseball player 野口 寿浩(のぐち としひろ、1971年6月24日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手捕手)。

経歴

プロ入り前

習志野高校では県内で強打の捕手として有名だったが全国大会には縁がなく、3年夏は千葉大会準決勝で押尾健一を擁する成東高校に敗れベスト4。高校通算11本塁打

石井好博監督とヤクルトのスカウト安田猛が、早稲田大学野球部の先輩後輩の関係であり、ヤクルト入団意思が固いと他球団は手を引き、テンプレート:Byドラフト外でヤクルトスワローズに入団[1]

ヤクルト時代

同期入団の古田敦也に次ぐ2番手捕手で、テンプレート:Byに怪我で長期期間欠場した古田の代役としてスタメン起用されると何度か猛打賞をマークする。しかし、古田が戻ると再び控えとなった。

当時の野村克也監督にリード面などを叩き込まれ、自身も毎日試合後に野村が行う講義を熱心に聴き、右腕が痛くなる程ノートに写すなど積極的にその技術を取り込もうとした[1]。その甲斐あって野球解説者によっては「リードは古田以上」と評されるようになり、後に日本ハムで成功するきっかけともなった。

テンプレート:Byに自らトレードを志願するも、他に控えが育っておらず球団に慰留された[1]

日本ハム時代

テンプレート:Byに捕手力不足を嘆いていた日本ハムファイターズからの城石憲之との交換トレードの申し出に対し、プロ野球脱税事件宮本慎也が出場停止となっていた球団がトレードに応じ、4月6日に日本ハムへ移籍[1]。正捕手の田口昌徳が左膝靭帯を損傷したこともあり、上田利治監督から高い信頼を受けて5月13日から正捕手となり、監督推薦でオールスターにも初選出された[1]。前半戦は首位を独走していたが、後半に大失速し、西武に逆転されて2位となったがチームの躍進に大きく貢献した。

テンプレート:Byは正捕手として130試合出場。5月には自身二度目のサヨナラ安打を放つ。開幕戦では野口とバッテリーを組んだ岩本勉稲尾和久に並ぶ2年連続開幕戦完封勝利達成。また、野口の加入により小笠原道大が捕手から一塁手に転向、「史上最強の2番打者」と呼ばれる活躍を見せる。

テンプレート:Byにはチームが優勝争いする中でチーム3位の打率.298を残した。8番を打たせる大島康徳監督のユニークな起用が功を奏し、チームは1試合の平均打率.278を記録。これは平成時代の歴代3位の記録である。さらに平均打点は5.4打点で、歴代1位の近鉄バファローズ(2001年度)を上回る。野口は「ビッグバン打線の恐怖の8番」と言われた。同年は松井稼頭央と同数の、捕手としては珍しいリーグ最多三塁打(11本)を放ち、得点圏打率もリーグトップ、盗塁阻止率は.423を記録した。オールスターにも二度目の出場。

テンプレート:By、自身もチームも開幕から低空飛行を続け、野口とバッテリーを組んだ中村隼人が初登板初完封を含むシーズン3完封(シーズン6勝)を上げるも、後半にはチーム事情もあり實松一成の育成を優先しポジションを奪われる。

テンプレート:Byは、捕手登録ながら開幕から外野で出場していたが、実松の不振によりすぐ捕手に戻る。しかし、この年も成績不振に終わる。3年目の正田樹を育成し、球団では金子誠以来、投手としては1980年の木田勇以来の新人王を獲得に貢献。シーズンオフ、大島監督が退任すると同時に坪井智哉とのトレードで阪神タイガースへ移籍。

阪神時代

移籍初年度のテンプレート:By矢野輝弘に次ぐ控え捕手として活躍。矢野が離脱時に先発マスクをかぶり、リーグ優勝に貢献したが、出場機会は激減してしまい成績も大きく下降した。野口の強気のリードに刺激された矢野は好成績を残したが、野口当人は矢野が故障した時期と、たまに試合終盤に出場する他には出場機会がほとんど無かった。

テンプレート:By岡田彰布新監督が矢野で捕手を一本化し一軍捕手を矢野と野口の2枚体制としたため、出場機会はさらに減少した。しかし、同年初のスタメンだった10月4日広島東洋カープ戦では井川慶をリードしてノーヒットノーラン達成に貢献した。オフにFA権を行使したが、阪神と2年契約を結んでの残留となった。

テンプレート:Byも2番手捕手としてチームに貢献したが、正捕手の矢野が好調だったために出番は相変わらず極端に少なかった。翌テンプレート:Byには岡田監督が年齢的に矢野のフル出場は難しいと考え、野口の出場機会を増やす事を明言。特に井川が登板する試合では前述のノーヒットノーランなど相性の良さを買われてスタメン出場が多かった。

テンプレート:Byは若手の狩野恵輔と新人の清水誉に押し出される形で開幕二軍スタートとなり、古巣の日本ハムやヤクルト時代の恩師である野村が監督の東北楽天ゴールデンイーグルスへのトレード話も持ち上がったが、固辞したことが後に新聞で報じられた。5月に一軍昇格し、セ・パ交流戦時に故障した矢野、一軍の壁に当たった狩野の穴を埋める活躍をした。矢野の復帰後は、二軍でコンビを組んでいた上園啓史が先発する試合を中心にスタメン出場した。打撃好調で規定打席不足ながら打率.351、出塁率.398を記録した。

テンプレート:Byは前年の上園とのコンビもあって「若い投手を頼む」と言われスタート。前半戦は上園、岩田稔ライアン・ボーグルソンらが先発する試合でスタメン出場し、矢野が北京五輪代表として離脱中は正捕手を務めたが、矢野の復帰後は出場機会が減少した。また、前年に好成績を残した打撃は不振で守備でも捕逸が目立ったが、岩田の台頭に大きな役割を果たした。同年に再取得したFA権をオフに行使し、相川亮二のFA移籍に伴い捕手の補強を目指していた横浜ベイスターズが獲得の意思を表明。プロ生活の最後を故郷の関東で過ごしたかったことと合致し[1]12月4日に2年契約で合意した。

横浜時代

テンプレート:Byは、経験豊富さを買われて開幕戦こそスタメン出場だったが、キャンプ中に右肩を故障した影響や、年齢による体力の衰えからか結果を出すことができなかった。相次ぐパスボールや10回以上にも渡る許盗塁など、最下位を独走するチームの不振も重なり、新人の細山田武史が正捕手に抜擢され、野口は4月後半には控えに回ることとなった。開幕からしばらく野口、細山田、斉藤俊雄の捕手3人制が採られていたが、野口は5月14日に二軍落ちとなり、以降一軍再昇格はならないままシーズンを終えた。二軍では代打や指名打者での出場が多く、捕手としては17試合に出場したのみであった。また、横浜投手陣との相性が悪く、投手陣が野口と組む場合と細山田と組む場合では、防御率が3点近く違っていた。結局この年の一軍出場は17試合のみに終わったが、2年契約を結んでいたため年俸を維持したまま横浜に残留した。

テンプレート:Byは、オープン戦には出場するが、パスボールや許盗塁が目立ちアピールできなかった。若手の武山真吾が正捕手となったため、開幕戦は選手登録を外れ二軍スタートとなった。6月18日には一軍に上がったが代打起用のみ(2打数無安打)。この年も早い段階で最下位を独走したため、若手選手が多く起用され、一度もマスクを被ることなく、7月17日には出場選手登録を抹消[2]9月15日に球団より来季構想に入っていないと通告され[3]、10月4日には正式に戦力外通告を受けた。11月10日12球団合同トライアウト1回目に参加した。巨人、中日が興味を示したものの、獲得する球団はなく現役引退を決断した。

引退後

引退後は東京都内で子ども向けの野球教室を運営し、ヘッドコーチを務める[4]他、2012年からは『J SPORTS』のメジャーリーグ中継で解説を務めている。

プレースタイル

打撃・守備

打撃はパンチ力のある打撃が持ち味で、素質は古田以上と言う声もあった。肩の強さ、送球の正確さも球界屈指であり、二塁への送球の早さも古田を上回っていた。日ハム時代の2000年は8番ながらチーム3位の.298を記録した。

走塁

日ハム時代や阪神移籍直後には、時折外野手一塁手として出場することもあった。過去に最多三塁打を記録した足はベテランになっても50m走で6秒台前半を記録するなど目立った衰えが見られず、稀に代走起用されることもあった。ただし、盗塁自体は特に得意ではなかったが、98年に6盗塁記録し、走る捕手としても注目された。

二番手の天才

捕手として高い才能を有しながら、古田敦也、矢野輝弘という球界を代表する名捕手がチームにいたため現役生活のほとんどを二番手捕手として過ごし、また他の二球団では万年下位のチーム故のしわ寄せを受けたことから後に「不運の名捕手」「二番手の天才」と評された。

正捕手の壁

ヤクルト時代、監督の野村克也は古田に対して「打者の欠点を徹底的に攻める」リード、野口に対しては「投手に優しい(その日一番いい球を要求する)」リードと評したことがある。当時は古田の全盛期であり、野口は試合出場数108に終わっていた。古田は社会人からの即戦力、野口は無名の高卒ルーキーという不運もあった。後に野村は著書で「ID野球の申し子」「球界№1捕手」と称されていた古田の傲慢さを塞ぐために野口を起用したと述べている。しかし、97年、野村の息子・カツノリがヤクルトに捕手で入団。カツノリは何の実績も無かったが、選手枠の問題で野口は2軍に落とされ、チーム内での扱いも微妙になる。チーム内では野口への同情の声も少なくなかった。

野口獲得の際、当時の星野仙一監督は「矢野と同じぐらいの力を持つ捕手はいざと言う時に効く。(金本知憲ら有力選手を獲得した中で)野口が一番の補強」と語っている[1](前年、矢野の故障離脱によりチームが大失速した)。

江夏豊は阪神時代の野口と矢野を比較して「野口は非常に味のある、投手をやる気にさせるようなリードをするよね。上園、 岩田、能見は野口が育てたと言ってもいいんじゃないかな。矢野はリード面では、無難。ただ、勝負強いバッティングは魅力だよね。普通捕手は3打席無安打で試合が決まっていたら4打席目はどうでもいいというのが多い。でも矢野はしぶとくヒットを打つ。2割7、8分を打てるのはあの精神的なしぶとさだよね。あの辺りは古田とよく似ている」と分析しており、ここでもヤクルト時代と同じく正捕手の壁に直面することとなった。

2004年にはFA権を取得した際、二番手捕手にも拘らず球団から残留要請を受けるという異例の待遇を受けた。

古田は野口がライバルだったことを後に語っている。矢野も引退時に「野口みたいなすごいライバルがいたから頑張れた」と野口の存在の大きさを語っている。しかし、野口の存在が両者の活躍を後押しするという、野口にとっては皮肉な結果となってしまったが、野口にはこれについて特に語ったことはない。

弱小球団での葛藤

野口が捕手として最も活躍したのが日ハム時代であり、オールスターにも二度出場した。しかし、当時の日ハムは極端な「投低打高」のチームで、1998年、2000年と前半好調だったものの二度も終盤の失速でリーグ優勝を逃すなど、野口のリードもあまり実を結ばなかった。そのためか野口のリードが原因ではないかと指摘されるようになり、實松にスタメンを奪われるが、目に見える効果はなかった。それどころか、實松に打撃はほとんど期待できず、下位でポイントゲッターになっていた野口がいないことにより得点力が減少する悪循環に陥る。野口退団直後の日ハムは捕手に實松や鶴岡慎也、2005年からは高橋信二らを併用するが、鶴岡は打撃、高橋はリードに難があり、攻守の両方を兼ね備えていた野口が再評価されるようになった。

横浜に移籍したときは既に年齢的な衰えがあり、肩や腰に怪我を抱え、横浜以外獲得球団が現れなかった。故障を治したベストな状態で現役を終えたかった野口は大矢明彦監督に「怪我をしっかり治してファームに落として欲しい」と頼むが、大矢は「君がいてくれるだけで若手の手本になる」と諭された。しかし、直後にその大矢が解任され、田代富雄が監督代行となると途端に2軍に落とされる。

横浜は権藤博監督の退任以後、特に親会社がマルハからTBSに交代して以降はずさんな経営が原因で年間30億円もの赤字を出しており、球団身売りは時間の問題といわれていた。当然、球団経営に力は入れられず、チーム成績は悪化し続けて高年俸の選手は次々切り捨てられた。

正捕手の相川亮二はFAでヤクルトに移籍、二番手捕手の鶴岡一成はシーズン途中に巨人・真田裕貴との交換トレードで放出[5]。タイトル獲得にも拘らず年俸調停などでフロントと確執があったといわれる内川聖一村田修一が相次いでFAで移籍、かつての中心打者でタイトルホルダーの石井琢朗鈴木尚典をはじめ斎藤隆佐伯貴弘といった98年の日本一に貢献した功労者たちも戦力外通告で放出するなど、主力選手の流出に歯止めがかからず、ファンからは強い批判を受けていた。石井の背番号だった「5」を野口に渡したことも批判の対象になってしまう。さらに横浜は2009年にロッテから橋本将を獲得し、事実上の構想外となってしまう。

ファーム落ちとなった野口はそこでも腐ること無く球拾いやグラウンド整備を率先して行い、若手選手に積極的に声をかけるなど、実績あるベテランに遠慮していた若手選手からも尊敬を集めるようになった。

俊足や強肩を買われ、外野手や三塁、一塁へのコンバートも勧められたが、頑なに拒否し、冷や飯を食わされても二番手の捕手にこだわり続けた姿勢を評価する声は多い。

詳細情報

通算打撃成績

テンプレート:By2 ヤクルト 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
テンプレート:By2 63 156 141 8 38 5 1 0 45 10 3 1 3 1 9 1 2 25 4 .270 .320 .319 .639
テンプレート:By2 18 9 9 3 2 1 0 1 6 5 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .222 .222 .667 .889
テンプレート:By2 11 29 25 1 4 1 0 0 5 1 0 1 0 1 3 0 0 8 2 .160 .241 .200 .441
テンプレート:By2 16 9 9 3 3 2 0 0 5 2 2 0 0 0 0 0 0 3 0 .333 .333 .556 .889
テンプレート:By2 日本ハム 109 312 268 37 63 14 3 10 113 34 6 3 15 5 21 0 3 61 3 .235 .293 .422 .715
テンプレート:By2 130 420 391 33 94 22 1 7 139 46 5 4 11 2 13 2 3 75 11 .240 .269 .355 .624
テンプレート:By2 134 510 459 54 137 31 11 9 217 76 5 6 17 5 28 3 1 57 12 .298 .337 .473 .809
テンプレート:By2 99 298 275 20 63 13 2 6 98 36 2 3 6 1 14 0 2 46 5 .229 .271 .356 .627
テンプレート:By2 103 320 291 28 66 9 2 5 94 31 3 1 9 4 14 2 2 65 4 .227 .264 .323 .587
テンプレート:By2 阪神 59 116 107 9 29 4 3 1 42 5 1 0 1 1 5 0 2 29 2 .271 .313 .393 .706
テンプレート:By2 24 34 31 2 7 0 0 0 7 2 2 0 0 1 2 0 0 8 0 .226 .265 .226 .491
テンプレート:By2 18 32 31 2 5 2 0 0 7 1 0 0 0 0 1 0 0 11 0 .161 .188 .226 .413
テンプレート:By2 16 21 20 1 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 1 4 2 .150 .190 .150 .340
テンプレート:By2 36 106 94 13 33 9 1 2 50 11 1 1 3 1 5 1 3 24 1 .351 .398 .532 .930
テンプレート:By2 55 167 141 10 27 5 0 1 35 9 0 1 7 1 16 0 2 35 4 .191 .281 .248 .529
テンプレート:By2 横浜 17 44 38 4 8 2 1 0 12 3 0 0 2 0 4 0 0 13 1 .211 .286 .316 .602
テンプレート:By2 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
通算:18年 911 2585 2332 228 582 120 25 42 878 272 30 21 74 23 135 9 21 467 51 .250 .294 .377 .671
  • 各年度の太字はリーグ最高

通算守備成績

年度 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 捕逸 守備率 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1991 1 1 0 0 0 0 1.000 1 1 0 .000
1994 61 316 27 0 2 5 1.000 28 17 11 .393
1995 14 14 0 0 0 1 1.000 4 4 0 .000
1996 10 53 3 0 0 2 1.000 10 9 1 .100
1997 4 9 1 1 0 0 .909 1 0 1 1.000
1998 107 488 49 4 9 8 .993 57 33 24 .421
1999 129 687 62 5 10 6 .993 80 56 24 .300
2000 134 817 64 5 11 7 .994 78 45 33 .423
2001 91 509 37 1 4 2 .998 45 30 15 .333
2002 91 525 31 2 4 1 .996 51 42 9 .176
2003 47 217 8 1 0 1 .996 23 20 3 .130
2004 9 35 1 0 0 2 1.000 0 0 0 -
2005 18 101 3 0 0 1 1.000 6 5 1 .167
2006 15 56 2 0 1 1 1.000 5 4 1 .200
2007 33 234 11 0 1 4 1.000 19 15 4 .211
2008 55 274 23 4 3 4 .987 27 17 10 .370
2009 17 81 2 1 0 2 .988 12 0 0 .000
通算 836 4417 324 24 45 47 .995 447 298 137 .306
年度 一塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1997 1 1 0 0 0 1.000 3 1 0 0 0 1.000
2001 - 2 3 0 0 0 1.000
2002 - 11 15 0 0 0 1.000
2003 4 3 0 0 1 1.000 6 3 0 0 0 1.000
2004 6 3 1 1 0 .800 3 0 0 0 0 -
通算 11 7 1 1 1 .889 25 22 0 0 0 1.000
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

初記録
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:2回(1998年、2000年)
  • パ・リーグ最多三塁打:1回(2000年)
  • パ・リーグ得点圏打率1位:1回(2000年)

背番号

  • 67 (1990年 - 1994年)
  • 38 (1995年 - 1996年)
  • 28 (1997年)
  • 54 (1998年 - 2002年)
  • 27 (2003年 - 2004年)
  • 2 (2005年 - 2008年)
  • 5 (2009年 - 2010年)

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

  • 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 澤宮優『ドラフト外』河出文庫、2013年、ISBN 9784309412603
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  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite web
  • 鶴岡一は2011年オフにFA宣言し横浜の後身であるDeNAが獲得、4年ぶりにチームに復帰している。