小笠原道大
テンプレート:Infobox baseball player テンプレート:MedalTop テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalBronze テンプレート:MedalBottom 小笠原 道大(おがさわら みちひろ、1973年10月25日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(内野手、捕手)愛称はガッツ。
目次
経歴
プロ入り前
7歳で野球を始め、千葉西リトルリーグでプレーする。1989年に暁星国際高等学校に進学したが、入学時は全く無名の選手で、当時の監督曰く「千葉西リトルの(中学)2年生で欲しい選手がいて、その選手を獲る代わりに頼まれたのが、どこからも声のかからない小笠原だった」という[1]。それまでは遊撃手・三塁手・外野手の複数のポジションをこなしていたが、高校進学と共に二塁手にコンバートされ、翌1990年にはチーム事情から捕手に再転向(ただし本人は「捕手は一番嫌なポジション」だったという)[1]。高校2年時には、北川哲也と共に夏の県大会準優勝を果たしている。なお、今でこそ球界屈指の強打者として知られるが、高校通算本塁打は0本で、県内でも注目された選手ではなかった[2]。
卒業後はNTT関東に入社。ポジションは「仮に選手としてダメでもカベ(ブルペン捕手)で残れるから」という理由[1]で捕手を続け、後に日本ハムでも同僚となる立石尚行とバッテリーを組んで活躍した。1996年には第67回都市対抗野球で立石と共に新日鐵君津の補強選手となり、松中信彦とクリーンアップを組み、チームのベスト8入りに貢献。
この年のドラフトで日本ハムファイターズから3位指名される。入団会見では「首位打者を取れるような打者になりたい」と宣言した。
日本ハム時代
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- 高校時代に中堅手以外のポジション全てを守っていたことから、「コンビニルーキー」と称される。球団も広瀬哲朗の後釜として期待していた。ルーキーイヤーながら開幕一軍入りを果たし、内野手登録だったものの23試合で捕手としてスタメンマスクを被る。
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- それまでの内野手登録から捕手登録に変更される。主に代打での出場だったが、打率.302と好成績を残す。同年5月22日にキャッチャーフライを取ろうとして左手人差し指を骨折し、登録抹消されたが、傷が完治する前の7月7日に一軍登録されると、その日の試合で代打本塁打を放つ(この時折れた指は当然バットを握れず、指を真っ直ぐに立てて固定した状態だった。)。このことがきっかけで「ガッツ」の愛称が定着した(後述)。
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- この年に打撃を活かすために一塁手に転向し西浦克拓とのポジション争いの結果、一塁手の座を勝ち取る。足の速さを買われ2番に定着し、一切バントをしないことから「バントをしない2番打者」として開幕からレギュラーに定着しブレイク。松坂大輔のプロ初登板初先発の試合では8回に松坂のプロ初失点初被弾となる2点本塁打を浴びせた。打率.285(リーグ7位)、25本塁打(リーグ5位)、81打点(リーグ6位)などリーグ内でも上位の成績を残す。
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- 打率.329(リーグ3位)、31本塁打(リーグ4位)、102打点(リーグ4位)を記録。リーグ新記録(当時)の126得点、球団新182安打(当時)をマークして最多安打のタイトルを獲得。また、リーグ3位の24盗塁を記録、トリプルスリーにあと6盗塁と迫った。現在二桁盗塁を記録したシーズンはこの年のみである。
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- シーズン当初の打順は主に2番や3番を任されていたが、後半戦から1番に定着。7年連続首位打者だったイチローがメジャーリーグに移籍し、ロッテの福浦和也との熾烈な首位打者争いを繰り広げ惜しくも敗れたが、打率.339(リーグ2位)を記録。ただ本塁打数は32本と前年を上回ったものの同年から試合数が増加したことや飛ぶボールの影響かリーグ総本塁打数が1000本を超える打高年になったこともあり順位を落とし(リーグ8位)、打点も86打点と前年を下回った(リーグ13位)。しかしながら前年に続きパ・リーグ最多安打を記録(195安打)。195安打はシーズン安打数両リーグで歴代2位(当時)であり、イチロー以来、史上2人目となる複数年での180安打以上も記録した。歴代3位タイとなるシーズン猛打賞23回も記録。チームが最下位に沈んだ中、アレックス・カブレラ、松中、福浦らを抑えてベストナイン一塁手部門を受賞した。
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- 阪神へ移籍した片岡篤史が抜けた打線の柱として3番に定着。同年の新ストライクゾーン導入もあり(翌年以降は廃止された)リーグ平均打率が.255(00年代最低値)と他の打者が成績を落とす中でそれを物ともせずに打ちまくり、打率.340で前年惜しくも逃した首位打者を獲得。打率傑出度(RBA)や攻撃力の傑出度を測るRCWIN等は同年の数値が自身最高記録である。本塁打は32、打点は81と数値自体は前年と同程度だったが、前年に比べ打低化したこともありそれぞれリーグ6位、リーグ8位と順位を上げた。しかし、前年まで3年連続で記録したフル出場が故障のため途絶え、この年からやや故障に苦しむようになった。また、この頃から打撃フォームが極力無駄を省いた形(構えるときにバットを揺らさない、膝を深く折り畳むなど)に変わっている。
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- チーム事情から三塁手に転向。阪神から移籍してきた坪井智哉やオリックスの谷佳知とシーズン終盤まで首位打者争いを繰り広げた。坪井・谷らを退けて打率.360という高打率で2年連続で首位打者を獲得すると同時に最高出塁率(パ・リーグ歴代3位)のタイトルも獲得。また、31本塁打(リーグ7位)、100打点(リーグ7位)を記録し2000年から4年連続で3割・30本塁打を達成。
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- アテネオリンピック野球日本代表に招集された影響や、骨折による戦線離脱で本塁打・打点は規定打席到達年で過去最低を記録。それでも、打率は.345で5年連続3割を記録した。7月24日に社会人野球出身のプロ選手では史上最速で通算1000本安打を達成。また、打率.345を記録したことで4年連続で打率.330以上を記録している。
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- 3月3日から20日、第1回WBCに出場。第1ラウンドで日本代表チーム初本塁打を放ち、決勝のキューバ戦では押し出し四球や犠牲フライで3打点を挙げ、日本の優勝に貢献した。レギュラーシーズンでは主に一塁を守り、32本塁打・100打点で本塁打・打点の二冠王ならびに自身初のパ・リーグMVPにも輝き、ファイターズ44年ぶりの日本一に貢献した。
- 5月15日にFA権を取得し、シーズン終了後にFA権を行使。日本ハムから残留要請を受ける一方、読売ジャイアンツからも入団の誘いを受け、11月5日に契約年数(日本ハムは3年に対し、巨人は4年)、家族との同居が可能であること(日本ハムの札幌移転後は家族を市川の自宅に残し、単身で札幌に渡っていた)が決め手となり巨人入団を正式に発表。背番号は日本ハム在籍時と同じ2。日本ハム時代のトレードマークだった髭を剃り落として入団会見に臨んだ。巨人側は小笠原の髭について「無理強いするつもりはない」として容認する考えだったが、小笠原本人が「巨人軍のしきたりに従う」として自ら剃り落とした。[3]
巨人時代
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- 5月28日に自身初の1試合3本塁打を記録。7月24日には移籍後初めて四番を任され、9月15日には史上4番目の速さで通算1500本安打を達成。最終的には3割30本を達成。前年に続いての2年連続MVPを獲得。なおセ・パ両リーグでのMVP受賞は江夏豊以来2人目であり、野手としては史上初。さらにリーグを跨いでの2年連続獲得も史上初である。
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- 前半戦は左膝の手術の影響で、右投手の非得点圏のみ打率5割前後を打ち続けるが、通算の打率は.250前後に低迷していた。その結果、1999年から9年連続で出場していたオールスターゲーム出場も逃すとともに、北京オリンピック野球日本代表メンバーにも選出されなかった。前半戦は数試合3番打者を大道典嘉や木村拓也に譲る程の不調に終わり、タブロイド誌などでは小笠原が足を引っ張ったという厳しい批判も聞かれた。しかし、試合に出場し続けることで7月頃に「(本人曰く)スイッチが入った」ように復活。シーズン終盤9月の月間MVPを受賞したり、7月8日にチームが阪神に最大13ゲーム差をつけられた翌日からの残り66試合で11本のオガラミ弾(自分自身とラミレスのアベックホームランの事で2008年は王・長嶋のアベックホームランON弾をも凌ぐ15本)を記録したりする等調子を取り戻した。チームも小笠原の復調そのままに最大13ゲーム離されていた阪神に追いつき、逆転優勝を達成。前年・前々年に匹敵する成績を残した。6月8日、プロ入り後初の犠打を記録。9月3日の対広島戦(大阪ドーム)で史上62人目(史上66度目、球団史上5人目)となるサイクル安打を達成。更に9月19日には史上35人目となる通算300号本塁打を放った(球団史上8人目)。10月23日のクライマックスシリーズ第2ステージの対中日戦で、朝倉健太から1回裏に2ラン本塁打、2回裏には満塁本塁打と2打席連続で本塁打を放ち、クライマックスシリーズ新記録となる1試合6打点を記録した。
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- 3月5日から24日、第2回WBCに2大会連続で出場。背番号は9(城島健司が「2」を付けたため)。1次リーグでは不振だったが、2次リーグに入ると復調。適時打を放つなど主に5番打者として全試合に出場し、決勝でも先制打を打って日本の2連覇に貢献した。シーズンでは年間通して3番に座り安定した働きを見せ、チームのリーグ3連覇に貢献。オールスターゲームにも選出された。移籍後初の3割30本塁打100打点を記録した。東京ドームでの通算本塁打数が松井秀喜の146号を上回る147号本塁打を打ったことで、現役最多となった。8月27日の対中日戦で通算1000打点を、9月8日の対横浜戦で通算1000得点を達成した。
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- 前年に引退してこの年から1軍内野守備走塁コーチに就任した木村拓也が亡くなった4月7日の阪神戦で、3回表2死1塁の場面に久保康友から本塁打を放つ。前年までの通算で162打数・37安打・打率.228と、苦手としていた阪神甲子園球場での初本塁打となり、ヒーローインタビューでは「本当に一人一人思うところがあって、そのなかでゲームをしたと思います。そういう意味で全員で勝利を掴みとれました。木村コーチに勝たせてもらったと思います」と語った。自己最長の21打席無安打もあったがわかさスタジアム京都(旧西京極)の56年ぶりの試合で4安打2打点1本塁打の活躍から打率を下げることも無く.359 9HR29打点の好成績で通算8度目となる3、4月の月間MVPを授賞。5月30日の対西武戦で、岸孝之から史上24人目の通算350本塁打を達成。6月4日の対日本ハム戦で金森敬之からバックスクリーンへ本塁打を放ち、史上18人目となる全球団から本塁打を達成した。最終的には3割30本を記録し、移籍後4年連続の3割30本と、王貞治の17年連続、落合博満の13年連続に次ぐ11年連続のOPS.900以上を達成した。この年で4年契約が終わり、11月29日の契約更改で新たに2年契約を結ぶ。
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- 新外国人のラスティ・ライアルの加入・原監督の意向で三塁手に挑戦した亀井義行の起用・小笠原の負担軽減などを視野に入れ、一塁手に固定された[4]。5月5日には、対阪神戦の8回裏に小林宏之から中前安打を記録し、通算2000本安打を達成した。通算1736試合での2000本安打達成は川上哲治、長嶋茂雄、張本勲に次ぐ歴代4番目の早さとなる[5]。しかしシーズンを通しては打率.242、5本塁打、20打点で、1998年以来13年ぶりに規定打席に到達しなかった。
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- プロ入り最少の34試合の出場に留まり、打率.152、15年ぶりにシーズン無本塁打となった。2年契約が終わり、12月5日の契約更改ではNPB史上最大の減額となる3億6000万円減の年俸7000万円で更改した。
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- 春季キャンプ中の2月17日、フリー打撃で左手の人さし指を15針縫う怪我を負った事もあり[6]開幕を2軍で迎えたが、5月18日の対西武戦(西武ドーム)で4回に2死満塁の場面で代打で今季初出場し、三振に倒れる[7]。6月5日の対日本ハム戦(東京ドーム)では延長11回裏無死ニ、三塁の場面で代打で出場、増井浩俊からサヨナラ3ラン本塁打を放つ。小笠原の本塁打は2年ぶりであった。[8]。しかし同月29日に一軍登録抹消されると、怪我などもあってこの後の1軍昇格はなく、この年は22試合出場で打率.250、本塁打1本に終わり、日本シリーズの出場資格枠40人にも入らなかった[9]。シーズン終了後の11月10日にFA宣言する意思を表明[10]。11月26日に中日への入団が発表され、同日入団会見が行われた[11]。
中日時代
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- オープン戦で2010年以来となる2本の本塁打を記録。開幕後も、4月9日の対ヤクルト戦では押本健彦から移籍後初の2ラン本塁打を放つなど、主に左の代打の切り札や森野将彦が休養日の時の一塁手として起用されている。
人物
テンプレート:スポーツ選手の出典明記 愛称は「ガッツ」。日本ハム時代につけられた愛称である。名づけ親は当時チームメイトだった岩本勉、上田佳範、片岡篤史、建山義紀、金村暁、金子誠の6人で、合コンの席で飲み食いにしても、女に対してもがっつくことから「ガッツ君」と呼んだのが始まりだという[12]が、その後小指を骨折した状態でホームランを打ったことで「ガッツがある」としてこの愛称が定着することになる。 野球以外では、名字が「小笠原」である縁から東京都小笠原村の観光親善大使に1999年12月25日に就任し、島の少年野球チームにユニフォームをプレゼントしたり、同村の交流事業に参加したりするなどの活動を行っている[13]。また本人も2000年末、父島など小笠原諸島を訪問している。
大の焼肉好きであることで有名。自宅での夕食には必ず焼肉が入り、その際は「牛・豚・鳥の3種類を食べる」ことを習慣にしている。
応援
東京都小笠原村の観光親善大使であることから、日本ハムファイターズ時代には小笠原の本塁打時に小笠原村のザトウクジラの映像がバックスクリーンに表示されていた。この事から、一部のファイターズファンは小笠原が打席に入ると小笠原村のシンボルであるイルカの風船(または、浮き具)を持って応援していた。応援歌のイントロ部分に入るコールも小笠原村に因んだものであり、チームの札幌移転時に削除・変更が検討されたが、小笠原が観光親善大使であることから引き続き使用されていた。巨人・中日移籍後も、一部のファンが同様の応援をしている。
影響
巨人ファンから「小笠原が来てから巨人が2003年から06年まで続いていた低迷期から脱することができた」「小笠原は巨人の救世主だ」という声をよく耳にする。事実それは選手も認めるところであり、2013年のシーズン中、日刊スポーツ紙上で行われた、当時巨人生え抜き最年長で元キャプテンの高橋由伸と、同じく生え抜きで当時のキャプテンである阿部慎之助の対談[14]では、二人がルーキーの時は試合に負けたら誰もしゃべらず、CSの一発勝負に負けたような空気だったが、それを変えたのが小笠原、谷、古城らの「また明日だ」という空気を持ったパ・リーグの選手であり、以来負けても「明日打てばいい」という気構えで全員が臨むようになったことが、2003年から4年間続いた低迷期から巨人が脱出できた理由であると述べている。
選手としての特徴
打撃
2000年から2010年まで、2005年を除き例年打率3割以上を記録したアベレージヒッターでありながら、コンスタントに30本塁打以上を記録する長打力も持ち合わせる[15]。統一球が導入されていた2011年からの数年の間は成績が落ち込んでいるものの、通算RCWIN、RC27傑出度(4000打席以上)では歴代10位を記録している[16][17]強打者である。
打席においては日本ハム時代に打撃コーチを務めた加藤英司の影響を受けた大きな構えからフルスイングする[18]。試合前などの打撃練習では左方向への打撃を繰り返すなどボールを手元に呼び込むことを意識するため決して大味なスイングにならず[19][20]、広角に長打を放つ[15]。神主打法を採用しているが、日本ハム時代に同僚だった落合博満の影響は少ないという[18]。例年.070以上のIsoDを記録するなど選球眼にも優れている。巨人移籍以降2010年までの対右打率.320と右投手に強い他、同じく得点圏打率.334とチャンスにも強く、苦手なコースも少なかった[20]。
日本ハム時代は監督の上田利治の方針もあり[18]、2番で起用された時期も含めて2008年6月8日の西武戦まで公式戦で犠牲バント成功が一度もなく、1997年から1999年の間で7度の指示があったが失敗している。2006年のWBCでは送りバントを試み、成功させた。
守備・走塁
捕手守備では守備率こそ安定していたものの、弱肩であったため盗塁阻止率は.178と非常に低く、1997年からの3年間で45回走られ、刺したのはわずか8回であった。捕手としては失格の烙印を押されるほどで、活躍することはできず、1999年から本格的に内野手に転向した。
三塁守備では三塁線のベース際の打球などにもうまく対処し[20]、ゴールデングラブ賞を1度受賞しているが、2010年はUZR-2と平均を下回り[21]、2011年以降は正三塁手の村田修一の加入もあり、主に一塁手として出場している。その一塁守備では、グラブ捌きが巧みで[20]、ゴールデングラブ賞を1999年から2002年までの4年連続を含めて5度受賞している。
走塁面では一塁到達4.2秒台前半を記録するなど平均以上の脚力を備え[22]、2000年にはキャリア唯一の二桁盗塁となる24盗塁も記録しているが、2002年の故障後は盗塁数が減少し、近年は年齢的なスピードの衰えもあり一塁到達4秒台後半が多くなっている[20]。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 日本ハム | 44 | 98 | 94 | 7 | 21 | 10 | 2 | 0 | 35 | 7 | 1 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 10 | 2 | .223 | .245 | .372 | .617 |
テンプレート:By2 | 71 | 98 | 86 | 7 | 26 | 5 | 0 | 1 | 34 | 9 | 1 | 1 | 0 | 1 | 11 | 1 | 0 | 17 | 3 | .302 | .378 | .395 | .773 | |
テンプレート:By2 | 135 | 608 | 547 | 90 | 156 | 34 | 4 | 25 | 273 | 83 | 3 | 4 | 0 | 4 | 56 | 1 | 0 | 84 | 6 | .285 | .349 | .499 | .848 | |
テンプレート:By2 | 135 | 635 | 554 | 126 | 182 | 23 | 4 | 31 | 306 | 102 | 24 | 6 | 0 | 5 | 74 | 2 | 2 | 91 | 6 | .329 | .406 | .552 | .959 | |
テンプレート:By2 | 140 | 643 | 576 | 108 | 195 | 40 | 2 | 32 | 335 | 86 | 1 | 6 | 0 | 0 | 63 | 7 | 4 | 102 | 8 | .339 | .407 | .582 | .989 | |
テンプレート:By2 | 135 | 574 | 486 | 77 | 165 | 27 | 2 | 32 | 292 | 81 | 8 | 1 | 0 | 6 | 76 | 14 | 6 | 77 | 6 | .340 | .430 | .601 | 1.031 | |
テンプレート:By2 | 128 | 546 | 445 | 83 | 160 | 34 | 1 | 31 | 289 | 100 | 8 | 3 | 0 | 3 | 93 | 12 | 5 | 65 | 13 | .360 | .473 | .649 | 1.122 | |
テンプレート:By2 | 101 | 452 | 377 | 78 | 130 | 19 | 2 | 18 | 207 | 70 | 3 | 1 | 0 | 2 | 70 | 3 | 3 | 70 | 10 | .345 | .449 | .549 | .998 | |
テンプレート:By2 | 133 | 580 | 514 | 91 | 145 | 27 | 2 | 37 | 287 | 92 | 2 | 1 | 0 | 1 | 61 | 3 | 4 | 114 | 8 | .282 | .362 | .558 | .920 | |
テンプレート:By2 | 135 | 579 | 496 | 77 | 155 | 31 | 1 | 32 | 284 | 100 | 4 | 3 | 0 | 8 | 73 | 5 | 2 | 85 | 8 | .313 | .397 | .573 | .970 | |
テンプレート:By2 | 巨人 | 142 | 617 | 566 | 95 | 177 | 33 | 1 | 31 | 305 | 88 | 4 | 0 | 0 | 4 | 43 | 5 | 4 | 98 | 10 | .313 | .363 | .539 | .902 |
テンプレート:By2 | 144 | 589 | 520 | 93 | 161 | 27 | 1 | 36 | 298 | 96 | 0 | 2 | 1 | 5 | 56 | 8 | 7 | 105 | 14 | .310 | .381 | .573 | .954 | |
テンプレート:By2 | 139 | 580 | 514 | 78 | 159 | 25 | 1 | 31 | 279 | 107 | 2 | 1 | 0 | 2 | 60 | 2 | 4 | 107 | 8 | .309 | .384 | .543 | .927 | |
テンプレート:By2 | 137 | 591 | 510 | 83 | 157 | 24 | 1 | 34 | 285 | 90 | 1 | 0 | 0 | 5 | 73 | 2 | 3 | 101 | 9 | .308 | .394 | .559 | .953 | |
テンプレート:By2 | 83 | 314 | 281 | 21 | 68 | 12 | 0 | 5 | 95 | 20 | 1 | 3 | 0 | 2 | 27 | 1 | 4 | 66 | 4 | .242 | .315 | .338 | .653 | |
テンプレート:By2 | 34 | 99 | 92 | 4 | 14 | 3 | 0 | 0 | 17 | 4 | 0 | 0 | 1 | 1 | 5 | 0 | 0 | 22 | 1 | .152 | .194 | .185 | .379 | |
テンプレート:By2 | 22 | 40 | 36 | 2 | 9 | 2 | 0 | 1 | 14 | 8 | 0 | 1 | 0 | 1 | 2 | 0 | 1 | 7 | 2 | .250 | .300 | .389 | .689 | |
通算:17年 | 1858 | 7643 | 6694 | 1120 | 2080 | 376 | 24 | 377 | 3635 | 1143 | 63 | 33 | 2 | 51 | 846 | 66 | 49 | 1221 | 118 | .311 | .389 | .543 | .935 |
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- 2013年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
年 度 |
捕手 | 一塁 | 三塁 | 外野 | |||||||||||||||||||||||||
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試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 捕逸 | 守備率 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
1997 | 38 | 128 | 13 | 2 | 0 | 2 | 1.000 | 37 | 30 | 7 | .189 | - | - | - | |||||||||||||||
1998 | 20 | 27 | 2 | 1 | 1 | 2 | .967 | 8 | 7 | 1 | .125 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | |||||
1999 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 0 | 0 | 0 | ---- | 135 | 1222 | 80 | 9 | 106 | .993 | - | - | ||||||||||
2000 | - | 135 | 1157 | 67 | 5 | 115 | .996 | - | - | ||||||||||||||||||||
2001 | - | 140 | 1281 | 70 | 4 | 116 | .997 | - | - | ||||||||||||||||||||
2002 | - | 135 | 1192 | 76 | 6 | 92 | .995 | - | - | ||||||||||||||||||||
2003 | - | - | 115 | 89 | 203 | 14 | 28 | .954 | - | ||||||||||||||||||||
2004 | - | 5 | 40 | 2 | 0 | 2 | 1.000 | 93 | 70 | 158 | 15 | 8 | .938 | - | |||||||||||||||
2005 | - | - | 133 | 100 | 235 | 12 | 28 | .965 | - | ||||||||||||||||||||
2006 | - | 120 | 917 | 61 | 4 | 95 | .996 | 39 | 16 | 56 | 4 | 6 | .947 | - | |||||||||||||||
2007 | - | 7 | 33 | 1 | 0 | 3 | 1.000 | 139 | 90 | 250 | 11 | 15 | .969 | - | |||||||||||||||
2008 | - | 100 | 807 | 54 | 6 | 53 | .993 | 41 | 27 | 53 | 3 | 5 | .964 | - | |||||||||||||||
2009 | - | 50 | 216 | 7 | 0 | 19 | 1.000 | 123 | 65 | 163 | 10 | 13 | .958 | - | |||||||||||||||
2010 | - | 49 | 310 | 21 | 2 | 28 | .994 | 102 | 71 | 171 | 15 | 19 | .942 | - | |||||||||||||||
2011 | - | 79 | 679 | 36 | 1 | 55 | .999 | 9 | 5 | 9 | 0 | 0 | 1.000 | - | |||||||||||||||
2012 | - | 27 | 202 | 16 | 0 | 14 | 1.000 | - | - | ||||||||||||||||||||
2013 | - | 7 | 22 | 1 | 0 | 2 | 1.000 | - | - | ||||||||||||||||||||
通算 | 59 | 156 | 15 | 3 | 1 | 4 | .994 | 45 | 37 | 8 | .178 | 992 | 8080 | 492 | 37 | 700 | .996 | 753 | 506 | 1245 | 80 | 117 | .956 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 |
- 2013年度シーズン終了時
タイトル
表彰
- MVP:2回 (2006年・2007年)※両リーグでのMVP獲得は江夏豊以来2人目、リーグを跨いでの2年連続は史上初。
- ベストナイン:7回 (一塁手部門:1999年・2001年・2006年 三塁手部門:2003年・2004年・2007年・2009年)
- ゴールデングラブ賞:6回 (一塁手部門:1999年-2002年・2006年 三塁手部門:2003年)
- 月間MVP:8回 (2000年8月、2001年8月、2002年4月、2003年5月、2004年7月、2008年9月、2009年5月、2010年3,4月)
- 東京ドームMVP:6回 (1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2008年)[23]
- パ・リーグ会長特別賞:1回 (2000年)
- リーグ最高記録のシーズン126得点により受賞(両リーグ歴代5位)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (2000年)
- 報知プロスポーツ大賞(野球部門セ・リーグ):1回 (2008年)
- ゴールデンスピリット賞 (2009年)
記録
- 初記録
- 初出場:1997年4月8日、対福岡ダイエーホークス1回戦(福岡ドーム)、9回表に金子誠の代打で出場
- 初打席:同上、9回表に木村恵二の前に凡退
- 初先発出場:1997年4月10日、対福岡ダイエーホークス3回戦(福岡ドーム)、7番・捕手で先発出場
- 初三振:1997年5月1日、対千葉ロッテマリーンズ4回戦(千葉マリンスタジアム)、6回表に竹清剛治から
- 初安打・初打点:1997年5月10日、対西武ライオンズ7回戦(西武ライオンズ球場)、7回表に石井丈裕から適時二塁打
- 初盗塁:1997年9月21日、対福岡ダイエーホークス27回戦(東京ドーム)、4回裏に二盗(投手:木村恵二、捕手:城島健司)
- 初本塁打:1998年7月7日、対大阪近鉄バファローズ15回戦(東京ドーム)、7回裏に井出竜也の代打として出場、盛田幸妃から右越同点2ラン
- 節目の記録
- 100本塁打:2002年5月4日、対福岡ダイエーホークス7回戦(東京ドーム)、2回裏にブレイディー・ラジオから中越3ラン ※史上220人目
- 150本塁打:2003年9月14日、対西武ライオンズ27回戦(西武ドーム)、7回表に張誌家から右越ソロ ※史上127人目
- 1000本安打:2004年7月24日、対オリックス・ブルーウェーブ16回戦(東京ドーム)、5回裏に具臺晟から中前安打 ※史上223人目(862試合目での達成は、社会人経験者では史上最速)
- 1000試合出場:2005年8月24日、対西武ライオンズ16回戦(インボイスSEIBUドーム)、3番・三塁手で先発出場 ※史上408人目
- 200本塁打:同上、8回表に松坂大輔から右越ソロ ※史上85人目
- 250本塁打:2007年5月27日、対オリックス・バファローズ1回戦(東京ドーム)、6回裏にユウキから右越ソロ ※史上51人目
- 1500本安打:2007年9月15日、対広島東洋カープ23回戦(東京ドーム)、6回裏に宮崎充登から右線二塁打 ※史上93人目(1288試合目での到達は歴代4位の速さ)
- 300二塁打:2008年7月29日、対広島東洋カープ14回戦(広島市民球場)、1回表にベン・コズロースキーから右中間適時二塁打 ※史上49人目
- 300本塁打:2008年9月19日、対阪神タイガース20回戦(東京ドーム)、7回裏にジェフ・ウィリアムスから左越2ラン ※史上35人目
- 1500試合出場:2009年6月13日、対福岡ソフトバンクホークス3回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、3番・三塁手で先発出場 ※史上165人目
- 1000打点:2009年8月27日、対中日ドラゴンズ18回戦(ナゴヤドーム)、3回表に吉見一起から右越2ラン ※史上36人目
- 1000三振:2009年9月2日、対横浜ベイスターズ20回戦(福井県営球場)、1回裏に三浦大輔から ※史上45人目
- 1000得点:2009年9月10日、対横浜ベイスターズ23回戦(横浜スタジアム)、3回表に阿部慎之助の3ラン本塁打で生還 ※史上36人目
- 350本塁打:2010年5月30日、対埼玉西武ライオンズ4回戦(西武ドーム)、1回表に岸孝之から左越ソロ ※史上24人目
- 350二塁打:2010年8月7日、対広島東洋カープ16回戦(東京ドーム)、5回裏にジャンカルロ・アルバラードから右越二塁打 ※史上29人目
- 3500塁打:2010年9月21日、対横浜ベイスターズ19回戦(東京ドーム)、4回裏に田中健二朗から右越ソロ ※史上24人目
- 2000本安打:2011年5月5日、対阪神タイガース6回戦(東京ドーム)、8回裏に小林宏之から中前安打 ※史上38人目
- その他の記録
- 両リーグでMVP獲得:江夏豊以来2人目
- 通算打率 歴代4位(4000打数以上):.3180
- 日本人通算では歴代3位(2008年シーズン終了時)
- 通算長打率 歴代5位(4000打数以上):.5597
- 現役プロ選手の中では歴代2位
- 4年連続3割30本塁打 パ・リーグ記録タイ:(2000年-2003年・史上7人目)
- 打席連続出塁 14(2003年8月23日-8月27日)
- 試合連続得点 日本記録:17(2001年8月5日-8月27日)
- 試合連続出塁 歴代4位:60(2001年6月13日-9月9日)
- オールスターゲーム出場:11回(1999年-2007年、2009年、2010年)
- サイクルヒット:1回(2008年9月3日、対広島東洋カープ19回戦、京セラドーム大阪) ※史上62人目(66度目)
- 勝利打点:22点(2009年) ※非公式記録
- 両リーグをまたいで2年連続MVP ※史上初
- 全球団から本塁打:2010年6月4日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(東京ドーム)、3回裏に金森敬之から右越ソロ ※史上19人目
- 2004年限りで消滅した大阪近鉄バファローズを含めた計13球団からの本塁打は史上6人目。
背番号
- 2 (1997年 - 2013年)
- 9 (2009年WBC)
- 36 (2014年 - )
登場曲
- 2007年 - 2010年:ポール・オーケンフォールド(en)「Switch On」
- 2011年:嵐「サクラ咲ケ」
- 2012年 - 2013年:プリンス「バットダンス」
- 2014年 -:スキマスイッチ「全力少年」
国際大会出場歴
関連情報
著書
関連映像
- 『北海道にはばたけ小笠原道大 ファイターズ強力打線とともに:北海道日本ハムファイターズオフィシャルDVD』(DVD、ジェネオンエンタテインメント、2004年3月、品番:GNBW-7029、ISBN 4894527952)
脚注
関連項目
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テンプレート:日本ハムファイターズ1996年ドラフト指名選手- ↑ 1.0 1.1 1.2 東京中日スポーツ・2011年5月6日付 20面
- ↑ 「普通の選手」が球界を代表するまで 巨人・小笠原の成長の裏は
- ↑ 【産経抄】3月20日 - msn産経ニュース(2012年3月20日)、2012年3月21日閲覧。
- ↑ V奪回へ!巨人・小笠原、一塁固定 SANSPO.COM 2010年12月26日
- ↑ 小笠原2000本安打!歴代4位の1736試合で達成 スポニチアネックス 2011年5月5日
- ↑ 小笠原 左手指に裂傷 15針縫うスポーツニッポン2013年2月17日配信
- ↑ 小笠原が戻ってきた!今季初打席はフルスイングで三振スポーツニッポン2013年5月18日配信
- ↑ 巨人 サヨナラ勝ちで首位キープ!小笠原 サヨナラ3ランスポーツニッポン2013年6月5日配信
- ↑ 巨人・小笠原、大減俸で揺れる進退 残留かトレード要員かそれとも…zakzak2013年11月7日配信
- ↑ 小笠原、FA宣言を表明「新しいところで挑戦」スポーツ報知2013年11月10日配信
- ↑ FAの小笠原選手が入団中日球団公式サイト2013年11月26日配信
- ↑ 2008年12月7日放送「ガンちゃんの世界一面白いプロ野球の番組」
- ↑ 観光親善大使・小笠原道大選手-小笠原村公式ウェブサイト、2012年6月12日閲覧。
- ↑ [1]史上最強巨人軍/新旧リーダーが語る-日刊スポーツ 2013年9月25日
- ↑ 15.0 15.1 山下大輔監修「トッププロに学ぶ 野球上達テクニック バッティング」成美堂出版、2004年、ISBN 978-4415101415、P10 - 13。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 18.0 18.1 18.2 二宮清純「野武士のフルスイング 小笠原道大」
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 20.0 20.1 20.2 20.3 20.4 テンプレート:Cite book 引用エラー: 無効な
<ref>
タグ; name "ogasawara2011"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ Baseball Lab守備評価~Third BasemanSMR Baseball Lab
- ↑ <プロ×社会人>十番勝負『野球小僧』2006年12月号、白夜書房、雑誌18801-12、168-170頁。
- ↑ 東京ドームMVP賞 - 東京ドームシティ公式サイトより