藤原内麻呂

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藤原 内麻呂(ふじわら の うちまろ、天平勝宝8年(756年) - 弘仁3年10月6日812年11月13日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿藤原北家大納言藤原真楯の三男。官位従二位右大臣従一位太政大臣後長岡大臣と号す。

桓武平城嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された[1]。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた。

経歴

桓武天皇が即位した天応元年(781年)に正六位上から従五位下に昇叙される。内麻呂の最初の妻で、当時桓武天皇後宮女嬬を務めていた百済永継が、延暦4年(785年)に皇子良岑安世を儲けると、同年従五位上、延暦5年(786年正五位下と急速に昇進し、延暦6年(787年)には従四位下に叙せられる。なお、この急速な昇進の背景として、百済永継を担保として内麻呂が桓武天皇の関係を深めた可能性を指摘する意見もある[2]。この間、右衛士佐中衛少将といった武官や、甲斐越前守等の地方官を務める。

のち、右衛士督・内蔵頭刑部卿を歴任し、延暦13年(794年)平安京への遷都の直後に、参議として公卿に列する。参議任官時、台閣では藤原南家の参議・乙叡(34歳)に次ぐ若さ(39歳)であったが、間もなく、右大臣藤原継縄大納言紀古佐美といった大官や、上席の参議であった大中臣諸魚石川真守薨去致仕もあり、延暦17年(798年従三位中納言に昇進する。この間、陰陽頭但馬守造東大寺長官近衛大将を歴任。延暦18年(799年)には造宮大夫に任ぜられ平安京遷都の責任者を務める。延暦24年(805年)12月に藤原緒嗣菅野真道の間で議論されたいわゆる「徳政論争」においては、前殿で桓武天皇の側に侍した。

延暦25年(806年平城天皇が即位すると大納言に、さらに右大臣神王薨御を受けて、同年5月には正三位右大臣に昇進し、台閣の首座を占めた。大同4年(809年従二位。平城朝から嵯峨朝初期にかけては伊予親王の変薬子の変が発生したが難を逃れ、弘仁3年(812年)右大臣の官に就いたまま薨御。享年57。死後、従一位左大臣、まもなく太政大臣の官位を贈られた。

人物

若い頃より人望が厚く温和な性格で、人々は喜んでこれに従った。仕えた代々の天皇から信頼が篤かったが、下問を受けても諂うことはなく、一方で天皇の意に沿わない場合は敢えて諫めることはなかった。十有余年に亘って重要な政務に携わったが、過失を犯すことがなかった。人々からは非常な才覚を持つ人物と評されたという[1]

興福寺のために不空羂索観音像と四天王像を作り、子息の冬嗣に納めさせた。

逸話

他戸親王皇太子の時に悪意を持ち、名家の者を害そうとした。踏みつけたり噛みつく癖のある悪馬がいたため、親王はこの馬に内麻呂を乗せ傷つけようと試みたが、悪馬は頭を低く下げたまま動こうとせず、鞭を打たれても一回りするのみであったという[1]

系譜

  • 妻:依当大神の女

官歴

※ 注釈がないものは六国史に基づく。

脚注

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参考文献

  • 「藤原内麿家族について」栗原弘(『日本歴史』511号)
  • 1.0 1.1 1.2 日本後紀』弘仁3年10月6日条
  • 井上辰雄「帷幄の良吏-藤原冬嗣」『城西国際大学紀要』第15 巻第2号、2007年3月
  • 三男とも言われる(『大鏡』第2巻,左大臣冬嗣)。
  • 「坂上系図」『続群書類従』巻第185
  • 公卿補任』では左衛士督とする。
  • 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 6.7 6.8 6.9 『公卿補任』
  • 『公卿補任』では3月1日。
  • 5月18日改元
  • 9.0 9.1 侍従の任官については、延暦25年・同26年の同日付に同じ任官の記録があり、さらに六国史には当任官についての記録が無い等、記録に混乱が見られる。
  • 近衛大将を左近衛大将に、中衛大将を右近衛大将に改めたことによる。