肥前石井氏

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肥前石井氏(ひぜんいしいし) / 佐賀石井家(さがいしいけ)は、鎌倉時代に起こり、室町時代から明治時代初期にかけて肥前国を根拠とした武家士族。本貫は下総国。本姓は藤原氏北家兼通流)であるが、下総国出身の千葉氏の後裔でもある。戦国大名龍造寺氏の譜代重臣(水ヶ江譜代)、佐賀藩鍋島氏の藩祖以来の外戚家門として知られる。

石井党石井一党石井一門石井寄合衆と称される精強な武士団を率い、戦国時代から江戸時代初期にかけて隆盛を極め、佐賀藩に伝わる武士道論書『葉隠』にもしばしば登場する一族で、明治に至るまで戦国時代の武家の気質・家風を伝えた。

俳人・歌人や学者など多彩な人物も輩出し、文武両道の家柄として知られた。明治以降も日本の電話創始者石井忠亮、日本の知的障害者教育・福祉の創始者石井亮一ら有為な人材を輩出した。姻戚には大隈重信中牟田倉之助武富時敏久米邦武らの名士が名を連ね、佐賀地方有数の名族であった。


出自

『石井系譜』(弘化4年(1847年)成立、佐賀県立図書館鍋島家文庫所蔵)によれば、当家の遠祖は、藤原鎌足11代の孫藤原兼通とし、兼通からさらに6代下った式部大輔忠衡のとき、下総権守に補任され、建長2年(1250年)8月、下総国猿島郡石井郷に下向、土着したことに始まる。忠衡の子忠光は在名に因み石井下総守を名乗り、初めて石井の名字を称したとされる。忠光の曾孫式部大輔忠成のとき、下総守護職千葉宗胤の娘を正室に迎え、一子式部大輔忠元を儲け、以降は千葉氏の戚臣となった。

他説、多久市郷土資料館の『水江臣記』によれば、下総国安部野城主石堂式部大輔忠正入道禅心の子式部大輔忠成が、三浦合戦(宝治合戦か?)に14歳で出陣した折、陣中に一羽の鳩が飛来し、近くの井戸の中に舞い降りて行ったという。合戦で汚れた軍旗(一説には血刀とも)を洗い、再び合戦に臨んだところ、見事勝利を収めたというので、その吉事に因み、石堂の名字を石井に改めたとしている。

肥前国への移住

下総守護千葉宗胤の孫である石井式部大輔忠元の子左京太夫忠家は、分裂した千葉氏の内紛に巻き込まれ、千田千葉氏の一門として戦い自刃。遺児の嫡男式部大輔越後守忠國は、本領を放棄して、千田千葉氏の近親である九州千葉氏を頼って肥前国小城郡晴気城主で、亡父忠家の再従兄にあたる千葉胤紹のもとに身を寄せた。胤紹は忠國を優遇し、大宰府安楽寺別当職小鳥居信光の娘を正室に娶せ、副将に抜擢した。また、千葉氏より肥前国佐嘉郡与賀郷飯盛村に知行地を与えられ、永享元年(1429年)、その地に菩提寺本善寺を建立した。

忠國の嫡男式部大輔忠保の代には、本拠地を小城郡晴気庄から知行地である佐嘉郡与賀庄飯盛村に移し、村内の飯盛城に居館を構えた。これが契機となって、水ヶ江城主龍造寺氏、隣村本庄村の土豪鍋島氏と地縁・血縁による繋がりを生じ、戦国時代に一族が興隆・発展する足掛かりを築くことになった。また、一族を挙げて飯盛村を中心に開墾を推進し、佐賀平野南部の肥沃な穀倉地帯を支配し、豊かな財力と武力を築いた。

その頃、主家である千葉氏は内紛によりかつての威勢が減退し、佐賀平野南部に割拠する土豪・地侍に、旗頭としてその支持を得た国人龍造寺氏が台頭。忠保の嫡男駿河守忠義の頃には、水ヶ江城主龍造寺康家家兼父子との連携を深めてゆく。鍋島氏とともに龍造寺氏を盟主に擁し、後に戦国大名龍造寺氏家臣団の中核をなす「水ヶ江譜代」を形成してゆくことになる。

戦国時代

石井駿河守忠義には、5人の男子があった。嫡男和泉守忠清、次男石見守忠繁、三男三河守義昌、四男駿河守忠本、五男尾張守兼清である。この5人の兄弟は、当初、千葉氏の戚臣であったが、同氏の衰退が著しくなると、次第に龍造寺氏に接近する。享禄3年(1530年)の田手畷の戦いにおいて、鍋島清久清房父子と語らって、「赤熊の奇襲隊」を率いて、龍造寺家兼軍の危機を救ったことがきっかけで、鍋島氏とともに石井氏も龍造寺氏の重臣の地位を確固たるものにする。この合戦の功労により、鍋島清房は龍造寺家純の娘華渓を娶り、石井忠清も家純の娘を継室に迎え、石井兼清は家兼の曾孫(於保宗益の娘)を娶った。

しかし、龍造寺氏は、当初、勢力基盤が弱く、家兼は馬場頼周の謀略によって主君少弐冬尚や国人衆から排斥を受け、筑後国へ亡命する事態に遭う。その後、間もなく、家兼は本領を回復するが、そのとき家兼帰還の中心となったのが鍋島氏であり、石井氏ら「水ヶ江譜代」であった。鍋島氏・石井氏らが中心になって、佐賀平野南部の土豪、地侍にとどまらず、百姓までもが蜂起して、家兼を出迎えた。益々、鍋島氏と石井氏は龍造寺家中で重きをなしてゆくことになる。

石井氏は、前述の5人の兄弟がそれぞれ一家を立て、嫡男家和泉守家)・二男家石見守家)・三男家三河守家)・四男家駿河守家)・五男家尾張守家)を創設。この5人の兄弟が率いた武士団を、人は石井党石井一党石井一門と呼び、戦場では精強の武士団として恐れられた。

龍造寺隆信の登場と石井氏の興隆

龍造寺家兼の没後、家兼の遺言によって、当時僧籍にあった曾孫円月(後の龍造寺隆信)が家督を相続する。当初、隆信の家督相続には、家臣団中にも異論があったが、石井兄弟の末男兼清が、隆信擁立に主導的な役割を果たす。兼清は、家兼の遺言を奉じて、当時、隆信がいた水ヶ江城下の宝琳院に出迎えの使者をつとめ、そのまま隆信を連れて、城内の兼清の屋敷に入った。兼清は、隆信の還俗・元服の儀式の一切を取り仕切り、隆信の家督相続を実現させたのであった。その後、隆信は、中国探題大宰大弐大内義隆の後見を得て、龍造寺氏の宗家村中龍造寺氏をも相続することになる。

しかし、隆信の宗家相続に対し、宗家の重鎮土橋栄益が、豊後国守護職大友宗麟の支持を得て、反旗を翻す。天文20年(1532年)、ときに大内義隆が家臣陶晴賢によって討たれた直後で、後ろ盾を失った隆信は筑後国に亡命することになった。2年後、隆信は復権するのであるが、このときも、鍋島清房と石井兼清が、佐賀平野南部の土豪・地侍らと連携し、隠密に隆信帰還の準備を進めた。隆信は筑後国を出発し、海路、肥前国佐嘉郡河副郷に入った。河副郷には、他の土豪・地侍とともに石井忠清ら5兄弟とその一族が軍勢を率いて出迎え、そのまま佐賀城に向けて進発した。途中、飯盛城にて、石井三河守義昌・次郎兵衛忠晴父子が奮戦し、同城を奪還し、さらに進撃を続け佐賀城を回復した。さらに、隆信は小田政光が拠る蓮池城を攻め、石井三河守忠朝が敵方の勇将江口源世入道を討ち取るなど、石井氏は隆信復権に多大な功績を挙げた。

永禄6年(1563年)には、隆信は、肥前国三根郡中野城主馬場鑑周および少弐政興を攻めたが、石井氏の部隊が先鋒となり、石井石見守忠次源次郎父子が決死の突入を図り、攻撃の突破口を開く武勲があった。

元亀元年(1570年)の大友親貞との今山の戦いでは、石井氏は、南里氏鹿江氏太田氏とともに筑後国との国境を守護し、海路侵攻してきた大友勢を撃退した。さらに孤立した龍造寺長信が籠る蓮池城救援のため、石井氏が派遣した遊撃隊が、攻城軍の隙をついて兵糧米300俵を城内に運び込み、隆信を喜ばせた。

以降、隆信の副将に鍋島直茂が登場してきたこともあり、隆信は肥前国平定を進め、合戦に明け暮れた。隆信の版図は肥前国の他、筑後国肥後国筑前国豊前国対馬国壱岐国まで及び、「五州二島の太守」を自称した。その一方で、龍造寺軍の中核部隊を担っていた石井氏からは、多くの戦死者が出した。隆信は、石井氏の忠節と犠牲に報い、石井氏一族に知行地の加増をたびたび行い、天正期には、1,180町歩の広大な所領を有することとなった。この知行規模は、龍造寺一族、外様家臣を除き、家中第三位(一位は鍋島氏、二位は納富氏)の大身であった。

この頃、石井氏と鍋島氏の連携が一層強化される。元亀2年(1571年)、石井和泉守忠清の嫡男兵部少輔常延の次女彦鶴姫(後の陽泰院)が鍋島直茂の正室に迎えられた他、天正7年(1579年)には、直茂の長女伊勢龍姫(後の月窓院、母は前室高木氏)の婿養子として、石井安芸守信忠の嫡男で、彦鶴姫の大甥にあたる石井太郎五郎(後の鍋島茂里)が迎えられた。また、石井壱岐守茂利が直茂の実兄鍋島信房の養女を娶るなど、石井氏と鍋島氏は一族化してゆくことになる。

鍋島氏の台頭と石井氏

天正12年3月24日、龍造寺隆信は沖田畷の戦いで横死し、石井氏からも宗家4代当主石井大膳亮信易以下14名の武将が戦死した。隆信の戦死は外様の諸将や分国に動揺をきたして、龍造寺氏は一転して厳しい局面におかれることとなる。そのような中、龍造寺氏の血縁であり、なおかつ筆頭家老の地位にあった鍋島直茂が隆信の嫡男龍造寺政家を補佐して、劣勢の挽回につとめた。

当時、直茂の采配を支えたのが外戚家門石井氏一党で、一族の中核的人材を沖田畷の戦いで失ってはいたものの、石井壱岐守茂利・縫殿助茂清父子や、石井修理亮茂成、鍋島主水佑茂里(石井太郎五郎)・鍋島安芸守茂賢(石井孫六)兄弟、石井生札ら有為な人材が出て、直茂の与党となり活躍した。豊臣秀吉によって、直茂が龍造寺氏に代わって国政を担う頃である。

文禄・慶長の役では、直茂に従って、鍋島主水佑茂里、鍋島安芸守茂賢、石井縫殿助茂清、石井修理亮茂成らが出陣し、石井生札、石井六郎兵衛忠種が後方支援部隊を指揮した。一方、石井壱岐守茂利ら一党の18将が佐賀城留守居役として、直茂の留守を預かった。役後の領内の統治体制の改編においては、石井氏が積年にわたって労苦を惜しまず功績があったとの理由から、筑後方面からの侵略に対する防衛拠点として重視していた蓮池城を与えら、城代・城番に任ぜられ、石井氏一党の代表者である石井壱岐守茂利のほか、石井孫左衛門尉重次石井五郎右衛門尉正国・石井修理亮茂成らが同城を守護した。

その後、政家の嫡男龍造寺高房が、龍造寺氏の家督を相続すると、石井氏の鍋島主水佑茂里の長女瑞祥院が直茂の養女となって高房の正室に迎えられ、石井氏はさらに発展する。

藩政期

関ヶ原の戦いでは、鍋島勝茂龍造寺高房は西軍に与し、伏見城安濃津城攻めに加わったが、西軍敗北により、国許の直茂は、徳川家康に謝罪のうえ、勝茂とともに西軍の立花宗茂を攻めた。そのとき、軍略を思案し、先陣をつとめたのは、鍋島主水佑茂里・同安芸守茂賢兄弟であり、海路柳川に侵攻した水軍の将は、石井壱岐守茂利と石井生札がつとめた。

江戸幕府の成立以降、龍造寺政家・高房が相次いで没し、鍋島勝茂を初代藩主とする鍋島佐賀藩が誕生する。ときに石井氏からは、沖田畷の戦い以降、直茂体制を支えてきた、鍋島主水佑茂里・同安芸守茂賢兄弟(石井二男家)、石井壱岐守茂利・同縫殿助茂清父子(石井二男家)、石井修理亮茂成(石井嫡男家)、石井生札(石井三男家)が、藩政の中枢に進出した。

こうして、石井氏は、鍋島氏の外戚家門として隆盛を誇ったが、初代藩主勝茂は、石井氏に対し、石井の名字は一門限り名乗らせること、継嗣がいない場合は同族のうちから養子をとること、他家から養子をとる場合は、人物を吟味し、教育を徹底すること。軍団編成は従来どおり同族のみで一隊(組)を編成すること等を通達している。

島原の乱では、石井弥七左衛門正之石井伝右衛門正能が、敵陣一番槍の快挙を成し、佐賀藩の名誉を高めた。

第3代藩主鍋島光茂以降、家臣団序列が確定し、直茂・勝茂父子の近親者や側近衆による側近政治は終焉し、石井氏の藩内における政治的地位は相対的に低下するが、鍋島主水佑茂里は横岳鍋島家、鍋島安芸守茂賢は深堀鍋島家として、家老職を世襲した。石井壱岐守茂利・同縫殿助茂清父子は、石井縫殿家として着座の家格に定着し、石井修理亮茂成は石井又左衛門家として、支藩蓮池藩の家老職を世襲した。

第8代藩主鍋島治茂のときには、漢学者石井鶴山が政策顧問に抜擢され、古賀精里とともに治茂の藩政改革を主導した。

元禄年間、藩主直参として58家が存在し、同族で2万石にも及ぶ知行を有した。その他にも、支藩や多久家等大配分(自治領)に仕えた家も多数あった。

幕末・明治

幕末、佐賀藩は西南雄藩の一角を占め、明治維新に主導的な役割を担ったが、戊辰戦争では、官軍海軍副参謀となった石井富之助、海軍陽春丸艦長石井忠亮が軍功を挙げ、明治天皇よりその功を賞される栄誉を得ている。また、蓮池藩第8代藩主鍋島直与の三男石井忠躬は、蓮池藩兵を率いて出羽国に出陣し、武功を挙げている。

明治政府では、石井忠亮が初代逓信省電信局長をつとめ、電話事業の創設に尽力し、後に元老院議官和歌山県知事をつとめた他、石井忠恭大審院判事、貴族院議員に、石井常英横浜地方裁判所長、台湾総督府覆審法院長官をつとめた。軍人も多く輩出し、石井義太郎海軍少将)、石井虎雄陸軍少将)の2名の提督将軍を輩出。また、民間では、石井亮一が日本初の知的障害者福祉・教育施設滝乃川学園を創立するなどの活躍をみせている。

主要家系

石井嫡男家/石井和泉守家(家祖:石井忠清

  • 石井藤左衛門家(知行250石)
  • 石井又左衛門家(蓮池藩家老、知行900石)
  • 石井清左衛門家(独礼、知行375石)
  • 石井四郎左衛門家(知行260石)
  • 石井六郎左衛門家(知行250石)
  • 石井新五左衛門家(知行375石)

石井二男家/石井石見守家(家祖:石井忠繁

石井三男家/石井三河守家(家祖:石井義昌

  • 石井生札家(知行300石)

石井四男家/石井駿河守家(家祖:石井忠本

  • 石井蔵人家(知行100石)
  • 石井又右衛門家(着座、知行187石5斗)
  • 石井新右衛門家(知行130石)

石井五男家/石井尾張守家(家祖:石井兼清

  • 石井藤兵衛家(知行52石5斗)
  • 石井三郎太夫家(知行183石)

その他、龍造寺氏の後裔である小柳石井家鍋島賢秀の末裔である石井内蔵允家三岳寺の寺家である三岳寺石井家などの系統があった。

石井氏出身の著名な人物

石井氏の主な姻戚

菩提寺

系譜

実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。

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嫡男家

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二男家

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三男家・四男家・五男家

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