小田政光

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小田 政光(おだまさみつ、1509年永正6年) - 1558年12月19日永禄元年11月10日))は、戦国時代武将小田元光(もとみつ)の嫡男。

子に小田鎮光(しげみつ)、小田賢光(ともみつ)、小田増光(ますみつ)、女子(龍造寺長信妻)がおり、このうち鎮光はのちに援助を受けた関係で大友義鎮(宗麟)から偏諱(「鎮」の字)を賜っている。政光自身、初めは少弐氏に仕えていたが、のちに龍造寺隆信に臣従し、この関係で子の賢光が、同じく宗麟から偏諱の授与を受けていた隆信の嫡男・鎮賢(のちの政家)から1字を賜っている。

生涯

永正6年(1509年)、小田元光の子として誕生。政光の小田氏は常陸国南部を支配した小田氏の一族にあたり、常陸介の小田直光(なおみつ)が肥前国に下り、神埼郡蓮池城に拠り、少弐氏に仕えた。少弐資元周防国大内氏に敗れ自刃したさいには、その子・冬尚が祖父・小田資光(すけみつ)を頼って落ち延びている。

のちに少弐氏が再興すると政光もこれに仕えるが、龍造寺隆信が台頭すると佐嘉城を攻めたが、反攻してきた龍造寺氏の勢いの前に敗れ、天文22年(1553年)に臣従する。永禄元年(1558年)、少弐氏家臣・江上武種を討伐するために出陣したが、長者林の戦いで敗死した。この時、龍造寺隆信は政光からの援軍要請を黙殺し、政光の死を見届けると小田氏の居城蓮池小曲城を攻略したといわれる。

なお、政光の子らは家臣・深町理忠の働きにより落ち延び、のちに小田氏は大友氏の援助により再興したが、政光の子のうち鎮光賢光は龍造寺隆信によって非業の死をとげている。肥前小田氏の血筋は隆信に仕えた増光の子孫が残り、のち鍋島氏に仕え存続した。