穂積陳重

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穂積 陳重 (ほづみ のぶしげ、1855年8月23日安政2年7月11日) - 1926年大正15年)4月7日)は、愛媛県宇和島市出身の法学者。日本初の法学博士の一人。東京帝国大学法学部長[1]英吉利法律学校中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員(勅選)。男爵枢密院議長。勲一等旭日桐花大綬章

人物

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穂積橋記念碑

穂積家宇和島藩伊達氏仙台より分家する以前からの、伊達家譜第の家臣である。饒速日命を祖に持つと言われる。祖父重麿は宇和島藩に思想としての国学を導入した人物。父重樹は長子として父の学問を継ぎ、明治維新後藩校に国学の教科が設けられるとその教授となり、また国学の私塾も営んだ[2]。兄の重頴は第一国立銀行頭取。憲法学者穂積八束は弟。長男の穂積重遠は、「日本家族法の父」といわれ、東大教授・法学部長、最高裁判事を歴任。妻歌子(または宇多)は、渋沢栄一の長女。孫の重行は大東文化大学学長(専攻は近代イギリス史)。

梅謙次郎富井政章とともに現行民法典の起草にあたり、中心的な役割を果たす[3]。商法法典調査会の委員を務めた。また、英吉利法律学校中央大学の前身)の創立者の一人でもある。

学説

穂積は、イギリス留学時代に法理学及びイギリス法を研究するかたわら、法学の枠を超え、当時イギリスで激しい議論の的になっていたチャールズ・ダーウィン進化論ハーバート・スペンサー社会進化論などについて、幅広い研究をした。

その後、ドイツへ転学し、ハインリヒ・デルンブルヒに師事してドイツ法を研究し、サヴィニーに触発され、日本民法へのパンデクテン法体系の導入のきっかけを作った。

穂積の学説は、法実証主義・科学主義・ドイツ法学の立場に立つもので、民法典論争では、富井と共に延期派にくみし、自然法論・フランス法学の立場に立ち断行派にくみする梅と対立した。

刑法では、ロンブローゾの生来犯罪人説を研究し、新派刑法理論を日本に紹介した。

進化論的立場から、天賦人権論を厳しく批判するとともに、日本古来の習俗も研究し、法律もまた生物や社会と同様に進化するものと考え、後掲『法律進化論』を完成させ出版することを企図していたが、未完のままに終わっている。

エピソード

  • 死後、出身地の宇和島市で銅像の建立の話が持ち上がったが、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との生前の穂積の言葉から遺族はそれを固く辞退した。それでは改築中の本開橋を「穂積橋」と命名することにしてはという市の申し入れに対して遺族も了承し、現在も宇和島市内の辰野川に掛かる橋の名前としてその名が残っている。
  • 大正10年に故郷宇和島町と隣接する八幡村の合併協議が頓挫した折、反対派を東京の私邸に招き、懇切丁寧に合併の必要性を説き、翻意させて合併実現に貢献した。
  • 大正11年に皇太子宇和島市行啓の折同行し、宇和島城に於ける茶会の折、皇太子の前の席には県知事を配すると言う県の方針に対し英国の例を引用し「殿下には宇和島市民が敬意を表すべき」との理由から市長を配すると主張、実現した。

(出典:山村豊次郎傳)

年譜

  • 1855年8月23日(安政2年7月11日) - 伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)に宇和島藩家老で国学者の穗積重樹の次男として生まれる。
  • 1870年(明治3年) - 貢進生として大学南校に入学[1]
  • 1874年(明治7年) - 開成学校に転学
  • 1876年(明治9年) - ロンドン大学キングズ・カレッジ入学 / 同年中にミドル・テンプル法曹院入学。
  • 1879年(明治12年) - 同校卒業 バリスター(法廷弁護士)の称号を受ける。
  • 1880年(明治13年) - ドイツに移りベルリン大学入学
  • 1881年(明治14年) - 同校卒業 帰国。東京大学法学部講師に就任
  • 1882年(明治15年) - 東京大学教授兼法学部長に就任。その後、民法のみならず比較法学・法史学・法哲学等の法律学の幅広い分野で我が国の先駆者として開拓者として活躍。
  • 1885年(明治18年) - 増島六一郎菊池武夫らとともに英吉利法律学校中央大学の前身)を創立。
  • 1888年(明治21年) - 日本国最初の法学博士の学位取得
  • 1890年(明治23年) - 貴族院議員に勅撰される(- 1892年(明治25年)2月まで)
  • 1891年(明治24年) - 大津事件において同郷の大審院長児島惟謙を激励し犯人死刑論を非難。民法典論争において延期派に与し、旧民法を停止にいたらせる。
  • 1893年(明治26年) - 富井政章、梅謙次郎とともに法典調査会主査となり、民法・戸籍法などを編纂。 帝国大学法科大学長に就任。
  • 1896年(明治29年) - 民法典公布(1898年(明治31年)施行)。東京学士会院会員となる。
  • 1912年(大正元年) - 大学退職
  • 1915年(大正4年)12月1日 - 男爵叙爵[4]
  • 1916年(大正5年) - 枢密顧問官就任
  • 1917年(大正6年) - 帝国学士院院長に就任
  • 1922年(大正11年)11月20日午後、小石川植物園で開かれた学士院のアルベルト・アインシュタイン夫妻の公式歓迎会に長井長義夫妻らとともに出席。
  • 1925年(大正14年) - 枢密院議長就任。
  • 1926年(大正15年)4月8日 - 逝去(72歳)

系譜

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鈴木重麿
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穂積重樹
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穂積重頴 穂積陳重 穂積八束
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穂積重遠 男 穂積真六郎 女 女 女
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穂積重行 美代子

家族

著書

  • 『法典論』哲学書院 1890
  • 『隠居論』哲学書院、1891 のち有斐閣、日本経済評論社 
  • 『法窓夜話』有斐閣、1916 のち岩波文庫 
  • 『祖先祭祀ト日本法律』穂積厳夫訳 有斐閣 1917
  • 『五人組制度論』有斐閣 1921
  • 『法律進化論』第1-3冊 岩波書店 1924
  • 『実名敬避俗研究』刀江書院 1926
    • 『忌み名の研究』穂積重行校訂(講談社学術文庫。初題『に関する疑』(帝国学士院第一部論文集)、口語訳再改題)
  • 『法律進化論叢』第1-4冊 岩波書店 1928-31 
  • 『穂積陳重・八束進講録』穂積重遠,穂積重威編 岩波書店 1929
  • 『穂積陳重遺文集』第1-4冊 岩波書店 1932
  • 『続法窓夜話』岩波書店 1936 のち文庫 
  • 『復讐と法律』(岩波文庫)1982 
刑罰とは復讐以外の何者でもないことを、古代から近代を通し論じている。
  • 『相続法原理講義 穂積陳重文庫1』磯野誠一翻刻 信山社出版 1990
  • 『タブーと法律 法原としての信仰規範とその諸相』書肆心水 2007

記念論集

  • 『穂積先生還暦祝賀論文集』牧野英一編 有斐閣書房 1915

論文

外部リンク

参考文献

脚注

  1. 1.0 1.1 テンプレート:Cite journal
  2. 潮見俊隆利谷信義編『日本の法学者』法学セミナー増刊99頁(長尾龍一執筆)(日本評論社、1974年)
  3. 有地亨「明治民法起草の方針などに関する若干の資料とその検討」『法政研究』第37巻第1・2号103-104頁(1971年、九州大学法政学会)、堅田剛『独逸法学の受容過程』(2010年、御茶の水書房)127頁、穂積陳重『法窓夜話』99話
  4. 『官報』第1001号、大正4年12月2日。
  5. テンプレート:Cite web


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テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
濱尾新 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 枢密院議長
第14代:1925 - 1926 |style="width:30%"|次代:
倉富勇三郎 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
一木喜徳郎 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 枢密院副議長
第8代:1925 |style="width:30%"|次代:
岡野敬次郎 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
菊池大麓 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 帝国学士院
第3代:1917 - 1925 |style="width:30%"|次代:
岡野敬次郎

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