白善ヨプ

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白善燁日本語読み;はく・ぜんよう、朝鮮語読み;ペク・ソニョプ、백선엽1920年11月23日 - )は韓国軍人外交官政治家実業家。弟は軍人、教育者の白仁燁本貫水原は愚村(ウチョン、우촌)。

植民地支配からの解放後の大韓民国で韓国陸軍の創設に参加して、朝鮮戦争では常に第一線で戦った[1]。共同作戦を行うアメリカ軍からは「ホワイティ(Whity)」の愛称で呼ばれた。韓国陸軍初の大将に任じられ、退役後は各国で外交官を務めた。

人物

1920年11月23日、日本統治下の朝鮮半島、平安南道江西郡、平壌近郊の徳興里で父・白潤相、母・方考烈の間に生まれる。姉に白福燁、弟に白仁燁[1]

近在では比較的裕福な中規模地主の家系であった。6歳の時に父が死亡すると一家は困窮したが、母と子供3人で平壌に移り住んだ[2]。母と姉が働くことで家計は安定し、白善燁と白仁燁は進学することが出来た[3]

1939年に国民学校の教師を養成する難関の平壌師範学校を卒業。師範学校は卒業後に2年間は教師として勤務する義務があったが、母方の祖父が軍人だったこともあり、満州国に渡り奉天の満州国軍官学校に進学。勤務義務は免除された[4][3]

1941年12月30日に満州国軍官学校の優秀生徒として卒業(9期)。前年までは優秀な学生を選んで日本の陸軍士官学校を留学させ、上級幹部としての教育を受ける制度があったが、白が卒業した年に、この留学制度が中止されたので、陸士に留学していない[5]

陸軍少尉に任官した白は宝清の満州国軍歩兵第二八団に勤務し、続いて佳木斯の新兵訓練部隊に配属、小隊長。1943年2月、間島特設隊に転勤[† 1]白頭山鴨緑江豆満江上流部一帯で、中国共産党が主導する中国人、満州人、朝鮮人により構成された抗日ゲリラ[† 2]の討伐に従事した[6]。1944年春、熱河省八路軍掃討作戦に参加、特殊工作とくに情報収集で偉功を立て[7]、旅団長賞詞を受ける[8]

1944年秋、平壌に帰郷し盧仁淑と結婚。1945年8月15日、満州国軍中尉として終戦を迎えた[4]

終戦後は夫婦で平壌に戻ったが教師の職はなく、日本の明治大学に留学したのち学徒出陣して日本陸軍航空兵少尉で終戦を迎えた弟と共に、親戚のツテで民族派指導者の曺晩植の平安道人民政治委員会で働き始めた。弟の白仁燁が警護担当、白善燁は事務所の受付だったという。事務所には様々な人間が出入りし、戦友や知人と再会したり、金日成や彼の取り巻きと話をしたこともあった。

ソ連の後押しで金日成らのパルチザン派が権力を掌握し始めると、赤衛隊が曺晩植の警備隊を解散させた。警備隊の隊長だった白仁燁は赤衛隊に目を付けられ、共産主義体制下で身の危険を感じていた丁一権[† 3]と共に南下した[9]

白善燁みずからも共産パルチザンを討伐任務に就いていた経歴があることから、友人の金燦圭(のちに金白一に改名)[† 4]、崔楠根[† 5]らと共に1945年12月24日に平壌を離れ、12月27日に38度線を越えた。家族は落ち着いてから呼び寄せる予定で、平壌に残った妻と母は1946年春に合流した[10]

再び軍人へ

ソウルに到着した3人は職がなく、先に南下して韓国軍の前身である南朝鮮国防警備隊に入隊していた丁一権や白仁燁らの勧めもあり、1946年2月26日付けにて軍事英語学校[† 6]履修扱いで南朝鮮国防警備隊に入隊し、中尉。釜山にて第5連隊の創設に従事、連隊長となり中佐[8][11]。第5連隊創設時に、白は1946年4月に軍法会議、1947年11月に大隊対抗機動演習を国防警備隊で最初に実施した[12]

1947年12月、新規に編成される第3旅団(初代旅団長、李應俊)司令部の参謀長となり旅団編成に従事。

1948年4月、統衛部(国防部の前身)情報局長。1948年10月19日に南朝鮮労働党オルグされた軍部隊の反乱、麗水・順天事件が起こると、軍内の左派細胞を除去する粛軍運動に従事。大佐[13]

軍内からは約1,000人の逮捕者が発生し、南朝鮮労働党シンパで第2連隊長だった金鍾碩中佐などが銃殺された。この捜査で、のちに韓国大統領となった朴正煕少佐が高位の軍内党細胞であったことが判明したが、捜査に協力したことなどから、朴に請われた白が助命の上申を行い、朴は刑を免れ除隊処分で釈放された。軍には文官として戻り、朝鮮戦争開戦で復命した[14]

幕僚勤務ののち、1949年7月30日に光州の第5師団長。智異山、湖南地方でゲリラ討伐に従事。

1950年4月22日、第1師団[† 7]師団長になり、緊張の増していた38度線の東西90 km の正面、開城地域の警備を担当した。

朝鮮戦争

北朝鮮軍の攻勢

1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発したが、このとき白は開戦の10日前から3ヶ月の予定で歩兵学校高級課程へ入校中で一時的に部隊を離れており、開戦の報を受けると師団に復帰した[1][15]

第1師団は緒戦においてソウル西翼の臨津江で4日間の防御戦闘を行った。しかし、ソウル陥落まで戦闘を継続したことで後退路にあたる漢江人道橋が爆破され、陸軍本部との連絡も途絶した中で困難な後退を指揮することになった。漢江を渡河し、水原(スウォン)に集結した時の第1師団の兵力は半減しており、しかも水原でアメリカ空軍の誤射を受け、さらに損害を重ねた[16]

1950年7月4日、水原から東北8km付近の豊徳川里(プントクチョンリ)で北朝鮮第2師団の先鋒を待ち伏せで撃退した[17][18]。その後、陸軍本部の命令で平沢(ピョンテク)を経由し、鉄道で鳥致院(チョチウォン)まで後退、清州(チョンジュ)を経て陰城(ウムソン)に北上した[19]

韓国第1師団は7月8日から10日まで陰城で北朝鮮第15師団の阻止した後、槐山(ケサン)~米院(ミウォン)道沿いに22日まで遅滞した。しかし化寧場(ファヨンジャン)に北朝鮮第15師団が出現すると、直ちに転進を命じられ24日まで北朝鮮軍の進攻を防いだ[20]

1950年7月25日に韓国第2軍団隷下となると、尚州(サンジュ)で再編成を行い6,000名規模の兵力になり、白は大佐から准将に昇進した。

1950年7月26日、第6師団の増援のため、頴江(ヨンガン)に前進し、北朝鮮第1師団、第13師団と激しい攻防戦を繰り広げた[21]。この戦闘で韓国第1師団は2人の大隊長を失った[22]。その後、第8軍の命令で8月2日夜から8月3日にかけて倭館(ウェガン)付近の洛東江沿岸に移動し、釜山橋頭堡の守備についた[23]

ファイル:Maj. Gen. Paik Sun Yup.jpg
1950年9月17日撮影。

特に多富洞の戦いでは、北朝鮮軍3個師団に対して不退転の陣地を築き、アメリカ第27連隊と共同してこれにあたった。韓国軍は連日の損害を避難民や学生から補充したために、半分が[24]十分な訓練も受けていないアマチュアの兵隊達であった[25]

テンプレート:Quotation

韓国軍部隊の後退で危機が訪れた際には、自身マラリアの高熱に苦しみながらも退却してくる兵士達に訓示を与え、みずから先頭を切って突撃を行い戦況を挽回した[26][13]。これが朝鮮戦争中に師団長が突撃をした唯一の場面であった[27]

第1師団の戦意を疑っていたアメリカ第27連隊マイケレス連隊長はこの姿に感激し、以後のアメリカ軍と韓国軍の信頼度が増したという[28]

多富洞で北朝鮮軍を阻止した功績により第8軍司令官ウォーカー中将から銀星章を授与された[29]

1950年9月15日、仁川上陸作戦が成功し国連軍の反攻が開始されると、アメリカ第1軍団隷下に入った韓国第1師団は北進に参加、9月18日に北朝鮮軍の間隙を突き、戦線を突破して北朝鮮軍の背後に進出し、退路を遮断した。10月19日には平壌への一番乗りを果たした[30]

中共軍の攻勢

平壌占領後、引き続き北進を命じられた韓国第1師団は10月25日、雲山(ウンサン)中共軍の攻撃を受け、この戦闘で獲た捕虜を尋問した。捕虜の供述から白は中共軍の大部隊が介入したと判断し、アメリカ軍に中共軍の介入を警告した。しかしアメリカ軍の指揮官はこれを信じず、結果的に第8騎兵連隊第3大隊が大損害を受けることになった。その後、中共軍の第1次攻勢で中共第39軍[† 8]に包囲された韓国第1師団は雲山を中心に円陣を組んで防御した(テンプレート:仮リンク )。11月、雲山を放棄して清川江(チョンチョンガン)に後退した。

1950年12月初旬、中共軍の第2次攻勢による国連軍の撤退戦では後衛として殿(しんがり)をつとめた。

1950年12月中旬、国連軍は38度線まで後退し、韓国第1師団は再び臨津江(イムジンガン)の防御に就くが12月末に開始された中共軍の正月攻勢によって国連軍のソウル放棄が決定され、第1師団は安城(アンソン)に後退した(テンプレート:仮リンク )。

1951年1月下旬、国連軍が再反攻を開始すると韓国第1師団も北進を再開し、2月初旬に漢江南岸に進出した。

1951年3月中旬、韓国第1師団がソウルを奪還[31]

軍団長

ファイル:Paik Seon-yup and Chung Il-gwon 19510612.jpg
白善燁(左)と丁一権(右)。1951年6月12日撮影。

1951年3月28日、第1軍団長の金白一が大関嶺付近で乗機が墜落する事故により死亡すると、後任として第1軍団長に任じられた[32]

韓国第1軍団は首都師団、第11師団、第1101野戦工兵団が配属され、東海岸沿いに展開した部隊であった。そのためアメリカ海軍の支援を受けられ、第1軍団は北進を先導した。この時の第5巡洋艦戦隊司令官はアーレイ・バーク少将であり、白に「僕は君の指揮下の砲兵司令官だよ」とジョーク交じりに語っていたという。

1951年5月15日、中共軍と北朝鮮軍による5月攻勢が始まり、軍団左翼の韓国第3軍団[† 9]が敗走した。ヴァンフリート司令官の命令により、韓国第1軍団はアメリカ第3師団と共に東西から挟撃して敵を撃退した[33]。5月末、韓国第3軍団は解体され[† 10]、韓国軍団は第1軍団だけとなった。

ファイル:Korea delegation.jpg
休戦交渉国連軍代表団。1951年7月10日撮影。左から三人目。

1951年7月10日から開城(ケソン)で始まった北朝鮮との休戦会談では、国連軍の要請で第1軍団長のまま韓国軍代表として参加。1951年9月に韓国軍代表を李亨根少将と交替して第1軍団に戻った[34]

1951年11月、戦況が安定してくると、智異山南部地域での共産パルチザンによる治安悪化が問題となった。麗水・順天事件で智異山に逃れた勢力や南朝鮮労働党と、スレッジハンマー作戦による北朝鮮軍崩壊の際に山岳地帯に残った残存北朝鮮軍部隊が集合して「南部軍」を形成していた。1951年2月に治安作戦にあたっていた第11師団隷下の一部部隊が居昌事件を引き起こし、一般市民に多くの犠牲者が出ていたため、討伐作戦の経験者である白善燁が任に就いた[35]

第1軍団より首都師団、アメリカ第10軍団より韓国第8師団を抽出して白野戦戦闘司令部が新設された。推定で5万人の勢力になっていた共産ゲリラの討伐作戦は1951年12月1日より1952年3月14日まで行われた[36]。作戦終了後、光州(クワンジュ)に孤児院を建てた[37][38]

この白野戦戦闘司令部は首都師団と共に新設される軍団を構成する中核となり、1952年4月に白善燁が軍団長となる第2軍団を編成した。第2軍団は首都師団(宋堯讃准将)、第3師団(白南権准将)、第6師団(白仁燁准将)の3個師団とそれまで韓国軍に無かった軍団直轄の砲兵部隊から成り、中部戦線の金城正面を担当した。

参謀総長

1952年7月、韓国陸軍参謀総長兼戒厳司令官。全軍の行政改善、補充教育訓練、治安維持を統括し、教育施設17校を再創建する。またこの間、捕虜の扱いに起因する休戦会談の難航に伴い、国連軍と政府の間に立ち、調整に務めた[39]

1953年1月31日、32歳で韓国陸軍初の大将に昇進。

1953年5月、戦後の安全保障体制整備の根回しのため訪米[40]。ワシントンでアイゼンハワーと面会した後、ニューヨークに向かいウェストポイントで生徒隊長をつとめていたマイケレス准将と再会したり、マッカーサーに面会した。その後、アメリカ軍の実施学校を回り、最後にアメリカ陸軍指揮幕僚大学で軍レベルの補習教育を2週間受講することになったが、休戦会談妥結が早まりそうだ、との報告が入り、急遽帰国した[41]

1953年7月中旬、中共軍の最終攻勢が開始されるとテイラー軍司令官の要請で韓国第2軍団(丁一権中将)の反撃を指導した[42][43]

休戦後

1954年3月21日、新編の韓国第1野戦軍司令官[44]

1957年5月、再度、陸軍参謀総長。

1959年2月、合同参謀会議議長。韓国軍の近代化に従事。

1960年、4・19学生革命により李承晩が下野し許政内閣が発足すると、金鍾泌を中心とする若手将校達による清軍運動[† 11]により、新政権の国防部長官の李鍾賛(陸士49期)[† 12]が退役を求め、5月31日に劉載興第一軍司令官(陸士55期)[† 13]と共に退役した[45][46]

退役後

軍を退役後は、外交官として中華民国フランス・中近東各国・カナダ大使を歴任。帰国後は朴正熙大統領政権で交通部長官に就任し、ソウル地下鉄建設、また1970年のよど号ハイジャック事件の解決に尽力した[47]

過積載の貨客船が沈没し300名近い犠牲者を出した南営号沈没事故の責任を負って交通部長官を退くと[48]、国策会社の忠州肥料株式会社、次いで韓国総合化学工業株式会社社長となり、化学プラント建築事業に従事し、1980年3月に退任した[49]

1986年、国土統一院顧問。

盧泰愚政権時代に民間の後援会長として戦争記念館建設に参加。

1995年、日本国勲一等瑞宝章を受章した。

2010年、ヴァンフリート賞(英語版)を受賞[50]

2013年、アメリカ第8軍名誉司令官に任命[51]

韓国国内での評価

盧武鉉政権時代にすすめられたチンイルパ(親日派)弾劾運動では、反民族特別法によって発表された親日人名辞典に日本の韓国植民地統治に協力した親日派としてリストアップされた。

2009年、李明博政権ではその功績を讃えて韓国軍史上初の「名誉元帥」に推戴される事が内定した[52]

年譜

  • 1920年 平安南道江西郡徳興里(現・朝鮮民主主義人民共和国)に生まれる。
  • 1939年 平壌師範学校尋常科を卒業。
  • 1940年 満州国奉天軍官学校入学。
  • 1941年12月 卒業(9期生)。以後、満州国軍歩兵第28団(連隊)勤務。
  • 1943年2月 延吉県(現在の延辺朝鮮族自治州延吉市間島特設隊に転任、任中尉。鴨緑江豆満江の上流部一帯で抗日パルチザン討伐に従事。
  • 1944年 間島特設隊は北支那特別警備隊の指揮下に入り、北京東南の冀東地区にて八路軍討伐に従事。
  • 1945年春 延吉に転属。国境警備任務に就く。
  • 1945年8月15日 終戦。満州国軍での最終階級は中尉。
  • 1945年9月 平壌へ帰郷。民族派指導者の曺晩植が組織した平安南道人民政治委員会で働き始める。
  • 1945年12月下旬 金燦圭(のちの金白一)、崔楠根らと共に脱北。
  • 1946年2月 南朝鮮国防警備隊入隊。任中尉。
  • 1946年3月 釜山に赴任し、第5連隊A中隊長、大尉に昇進。
  • 1946年9月 第5連隊第1大隊長、少佐に昇進。
  • 1947年1月 第5連隊長。中佐に昇進。
  • 1947年12月 第3旅団司令部参謀長。
  • 1948年4月 情報局長。大佐に昇進。
  • 1948年8月15日 大韓民国成立。9月5日、大韓民国国軍が発足。
  • 1949年7月30日 第5師団長。
  • 1950年4月22日 第1師団長。
  • 1950年6月25日 朝鮮戦争勃発。
  • 1950年7月25日 准将に昇進。
  • 1951年4月 韓国第1軍団長、少将に昇進。
  • 1951年7月 休戦会談韓国軍代表を兼任。
  • 1951年11月16日 白野戦戦闘司令官。
  • 1952年1月12日 中将に昇進。
  • 1952年4月 韓国第2軍団長。
  • 1952年7月 韓国軍参謀総長。
  • 1953年1月31日 大将に昇進。
  • 1953年5月 陸軍大学校総長兼務。
  • 1954年2月24日 第1野戦軍司令官。
  • 1957年5月18日 再度、陸軍参謀総長。
  • 1959年2月23日 合同参謀会議議長。
  • 1960年5月31日 陸軍を退役。
  • 1960年7月15日 駐中華民国大使。
  • 1961年7月4日 駐フランス大使。兼、西欧・中近東・アラビア等17カ国大使。
  • 1965年7月12日 駐カナダ大使。
  • 1969年10月21日 交通部長官。
  • 1971年1月25日 交通部長官を退官。
  • 1971年6月 忠州肥料株式会社社長、次いで韓国綜合化学工業株式会社社長。
  • 1980年3月 韓国綜合化学工業株式会社社長を退職。
  • 1986年 国土統一院顧問。

勲記

  • 大韓民国太極武功勲章 2個[51]
  • アメリカ合衆国各級勲章 7個(銀星章と4個のレジオン・オブ・メリット章を含む[51]
  • フィリピン国勲章 1個
  • 中華民国勲章 2個
  • フランス国勲章 2個
  • タイ国勲章 1個
  • ベルギー国勲章 1個

著書

  • 韓国戦争一千日 ― 白善燁回想録 ジャパン・ミリタリー・レビュー 昭和63年(1988年
  • 対ゲリラ戦 ― アメリカはなぜ負けたか 原書房 平成5年(1993年
  • 若き将軍の朝鮮戦争 ― 白善燁回顧録 草思社 平成12年(2000年
  • 指揮官の条件 ― 朝鮮戦争を戦い抜いた軍人は語る 草思社 平成14年(2002年
  • 朝鮮半島対話の限界 ― 危機克服への戦略構想 草思社 平成15年(2003年

脚注と出典

脚注

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出典

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参考文献

関連項目

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テンプレート:S-mil |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
李鍾贊
李亨根 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 大韓民国陸軍参謀総長
第7代:1952.7.23 - 1954.2.13
第10代:1957.5.18 - 1959.2.22 |style="width:30%"|次代:
丁一権
宋堯讃

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