金鍾泌

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テンプレート:Redirect テンプレート:政治家 テンプレート:朝鮮の人物 金 鍾泌(キム・ジョンピル、1926年大正15年)1月7日 - )は、大韓民国政治家忠清南道扶余郡出身。本貫は、金海金氏。号は雲庭(ウンジョン、운정)。金泳三金大中とともに韓国政治史上に三金時代を築いた。5・16軍事クーデターの中心人物であり朴正煕政権誕生の立役者だった。以降、要職を歴任。朴正煕暗殺以降は議会政党指導者として有力政治家でありつづけた。金大中との連合(DJP連合)により金大中政権を誕生させ、そこでも首相となった。政治姿勢は自らの主義主張を前面に出していくタイプではなく、韓国の政治家としては珍しいを重視する調整型タイプの政治家であり、内外両面で大きく揺れた1960年代~80年代の韓国政治において内外面において重鎮として先頭に立ち問題の沈静化に積極的に動いた。

概略

妻は朴正煕の姪・朴栄玉(パク・ヨンオク、박영옥)。愛称はJPK。韓国のマスコミがJFKをもじってつけたもの。日本人記者との食事会の会話の中で、「ならぬ堪忍、するが堪忍」という浄土宗の格言を発したことがある。

子供の頃は、大の読書好きで、特に菊池寛の小説が好きだったという。その事から、一時は内地の中央大学への進学を志して、1944年に単身内地へ渡ったが、内地は戦況の悪化に伴う深刻な食糧不足に苛まれており、「どうせ死ぬなら故郷で死にたい」と朝鮮半島へ戻り、ソウル大学へ進学したというエピソードがある[1]

首相時代から表立った親日的言動こそなかったが隠れ知日派として知られ日韓議員連盟の役員を長期間務め日韓基本条約締結に尽力するなど日韓関係の修繕良化に努めた。軍事政権の初代情報部長という肩書きから強面、強権一辺倒の印象もあるが、一方では日韓基本条約締結の際、「日帝に魂を売るのか」と息巻く反対派学生に対し周りの反対を押し切り自ら対峙し「今は過去の問題よりこれからの成長の方が重要である。そのためには日本の援助が必要だ。」と説示し反対派学生からも一目置かれたという穏健派ともいえる逸話もある[2]。なお 金自身は後のインタビューで対日請求権問題については「やむを得なかった」と述べている。

引退後の講演で韓国の政治家としては異例の「大好きな日本」と親日的な発言した事がある(ただし同講演では靖国神社参拝を批判してもいる)。青山学院大学から名誉博士号(国際政治学)の称号を授与されている。在日韓国人問題では「二世、三世は日本国籍を取得すべきだ」と日本のオピニオン月刊誌である『諸君!』1980年4月号のインタビューで発言し物議を醸した事がある。(同記事では「日本は原爆を落とされたからソビエトの牙城にならずに済んだ」という問題発言もしている。ただし左派内部で依然北朝鮮信仰が強かった当時において「朝鮮民主主義人民共和国は自由とは程遠い。日本の人はもし行けば三日と持たないんじゃないか。離散家族にも合わせて貰えない」と当時の日本では異例の北朝鮮批判を行い注目を集めてもいる。)

2004年総選挙で落選後、政界を引退していた。しかし、2007年大統領選挙では李明博候補支持を表明、ハンナラ党に入党し名誉顧問に就任した[3][4]2008年12月14日に頭痛の症状を訴えてソウル市内の病院に入院し、12月19日脳卒中の初期症状と発表された[5]。翌2009年3月12日に退院した[6]。2012年2月15日、ハンナラ党が党名変更して発足したセヌリ党を離党する意向を示した[7]

略歴

  • 1947年:ソウル大学校師範大学教育学部修了
  • 1949年:陸軍士官学校8期卒業.
  • 1958年:陸軍情報参謀部企画課長
  • 1961年:朴正煕5・16軍事クーデターを主導し、初代中央情報部長に就任
  • 1962年:日本の大平正芳外相との会談で、韓国側の対日請求権を「無償3億ドル、有償2億ドルおよび民間信用供与」を提供する経済協力方式で合意に至る(金・大平メモ)。
  • 1963年:陸軍准将に予備役編入して政治に参加、忠清南道扶余で第6代国会議員に当選。同年民主共和党(以下、共和党)議長に就任
  • 1968年:3選改憲反対と係わる共和党内の汚職事件ですべての公職を辞退し政界引退
  • 1971年:大統領選挙を控えて共和党副総裁で政界に復帰し、国務総理に就任(~1975年)
  • 1979年11月12日:朴正煕大統領暗殺事件により共和党総裁に推戴
  • 1980年5月18日:5・17クーデター全斗煥盧泰愚など新軍部により連行(7月2日釈放)
  • 1985年3月6日:全斗煥大統領により政治活動を解禁[8]
  • 1987年9月28日:政界復帰を宣言
  • 1987年10月30日:新民主共和党を創党。総裁と大統領候補に選出。12月16日に行われた選挙では落選(3位)。
  • 1990年2月8日:執権与党である民主正義党・統一民主党との内閣制改憲に合意し、3党合同で民主自由党を結成、最高委員就任
  • 1992年:金泳三大統領当選に貢献し、民主自由党代表最高委員に就任
  • 1995年2月9日:民主自由党内世代交代論に反発、同党を脱党。
  • 1995年3月30日:自由民主連合(自民連)を創党
  • 1997年:12月第15代大統領選挙金大中朴泰俊といわゆるDJP連帯を通じて金大中の大統領当選に貢献した.
  • 1998年:新政治国民会議・自民連共同政権の国務総理(~2000年)
  • 2000年:韓日議員連盟会長
  • 2001年:自民連総裁
  • 2002年:サッカーワールドカップ国会議員連盟会長などを務めた.
  • 2004年:総選挙で落選し、自民連も惨敗したため、4月19日に政界引退を表明。
  • 2007年:12月の大統領選挙にて李明博候補への支持を表明し、ハンナラ党に入党。
  • 2012年
    • 2月15日:セヌリ党(ハンナラ党の後継政党)離党を表明。
出典:アジア経済研究所 アジア動向年報ブラウジング 大韓民国

独島爆破論

米国務省外交文書によれば、1962年10月の中央情報部長時代に日韓国交正常化交渉にむけての大平正芳外相との会談で、竹島 (島根県)の領有権問題に関し、金鍾泌は、日本側の国際司法裁判所への付託を拒否したうえで、日本側に独島問題の解決策として独島の破壊(爆破)を提案した[9]。金鍾泌中央情報部長は、東京での池田勇人総理及び大平外相との会談後、訪米。1962年10月29日のディーン・ロスク国務長官との会談において、ロスク長官が「独島は何に使われているのが」と問うたところ、金部長は「カモメが糞をしているだけ」と答え、独島破壊案を自分が日本側に提案したと明かした[10]

のちに韓国国内でこの「独島爆破論」が問題視された時には、金鍾泌自由民主連合総裁は「日本には絶対に独島を渡すことはできないという意思の表現だった」と弁明している[11]。また2010年の朝鮮日報の取材に対して金鍾泌は「国際司法裁判所で日本のものだという判決が出ても、すべてを爆破してなくしてしまってでも、あなたたちの手に渡すつもりはない」と激高して発言したと回想している[12]が、これは米国務省外交文書集「東北アジア1961-1963」収録関連会談記録の様子とは趣が異なる。

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脚注

  1. 五味洋治『あなたはどうして韓国へ来たんですか?』より。
  2. 『韓国危うし』小谷豪治郎訳。
  3. テンプレート:Cite news
  4. テンプレート:Cite news
  5. テンプレート:Cite news
  6. テンプレート:Cite news
  7. テンプレート:Cite news
  8. 今日の歴史(3月6日) 聯合ニュース 2009/03/06
  9. 米国務省外交文書集「東北アジア1961-1963」収録関連会談記録。日本時事通信1996年12月28日。中央日報1996年12月29日。
  10. 米国務省外交文書集「東北アジア1961-1963」収録関連会談記録。日本時事通信1996年12月28日。中央日報1996年12月29日。
  11. 中央日報1996年12月29日。
  12. 朝鮮日報2010年8月28日


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 |-style="text-align:center"

|style="width:30%"|先代:
白斗鎮
高建 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 大韓民国国務総理
第11代:1971 - 1975
第31代:1998 - 2000 |style="width:30%"|次代:
崔圭夏
朴泰俊

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