38度線

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テンプレート:Infobox 38度線(38どせん、テンプレート:Lang-en-short)は、本来は、第二次世界大戦末期に朝鮮半島を横切る北緯38度線に引かれたアメリカ軍ソ連軍の分割占領ラインである。北緯38度線上に定められたことから、こう呼ばれる。大韓民国(韓国)では38線38선、三八線)と呼んでいる。

韓国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の独立から朝鮮戦争勃発までは、それらの国の境界線(国境)となっていた。朝鮮戦争後の軍事境界線もやはり38度線と呼ばれることがあるが、正確には一致しない。

北緯38度線と軍事境界線の交差座標:[[[:テンプレート:座標URL]]38_0_0_N_126_47_13.20_E_{{{9}}} 北緯38度0分0秒東経126度47分13.20秒]

38度線の成立と朝鮮半島分断

1945年8月9日、大日本帝国宣戦布告したソ連満州と朝鮮半島北部に侵攻を開始した。この状況を受けてアメリカは対応を検討し、ソ連軍が単独で朝鮮半島を占領する事態を防ぐため、ソ連に対し半島の分割占領案を提示する事が決まった。8月10日から11日にかけて国務・陸軍・海軍調整委員会において「北緯38度線で分割する」という案が画定され、ハリー・S・トルーマン大統領の承認を受けたテンプレート:Sfn。この案はソ連側に提示され、8月16日にソ連はこれに同意するテンプレート:Sfn。8月17日にはテンプレート:仮リンクによって38度線以北の日本軍はソ連に、以南はアメリカ軍に降伏することが決定された。この命令はポツダム宣言を受諾した日本に伝達され、9月2日の降伏文書調印後に大本営によってこの方針が指令された。

38度線が境界となった理由には諸説がある。一つはアメリカ軍が軍事的な便宜の面から、暫定的な境界線として提示したというものであるテンプレート:Sfn。8月10日から11日の会議の最中、ペンタゴンにおいて陸軍次官補テンプレート:仮リンクは、アメリカ軍の明白な進駐限界線の画定をディーン・ラスクチャールズ・H・ボーンスティール3世大佐に命じたテンプレート:Sfn。二人は手元にあった小さな壁掛けの地図を参考にして限界線を北緯38度と決めたテンプレート:Sfn。二人は朝鮮半島の首都をアメリカ軍の占領区域に設定することが望ましいと考えており、38度線は朝鮮半島をちょうど二分する上に、ソウルが南半分に含まれるという理想的なものであったテンプレート:Sfn。二人がこの作業にかけたのわずか30分であったテンプレート:Sfn

ほかには日本軍が関東軍大本営の管轄を38度線付近で分けており、管轄毎にソ連とアメリカに降伏したため、両国の占領区域が38度線となったという説もある[1]テンプレート:Sfn。ただし、8月9日の大陸命1389号で済州島をふくむ南朝鮮駐屯の第17方面軍の指揮権は8月10日午前6時より関東軍に移管されており[2]、事実ではないと見られているテンプレート:Sfn。また古い研究では38度線は米ソが事前に合意していた線であるという主張もあるが、ポツダム会談などの連合国会談でそのような合意が成された事はないテンプレート:Sfn

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、呂運亨を代表とした「朝鮮建国準備委員会」(建準)、曺晩植を代表とした「五道中央行政委員会」が発足するなど、朝鮮人による建国の動きが高まっていた。しかし統一政府の代表選挙の立候補資格を巡って、両組織の後ろ盾であるアメリカやソ連の利害対立が激化。南北が別々に統一選挙を行う異常事態となり、結果として1948年金日成を首班とする朝鮮民主主義人民共和国と李承晩大統領とする大韓民国という2つの国家が、北緯38度線を境にして朝鮮半島に建国された。

ファイル:Map korea without labels.png
朝鮮戦争後の境界線。陸上部分が軍事境界線。

朝鮮戦争と停戦ライン

テンプレート:Main 1950年6月25日朝鮮戦争が勃発し、1953年板門店休戦協定が結ばれた。この際、休戦協定直前の最前線が停戦ラインとされ、停戦ラインから南北2キロメートルずつを非武装地帯(DMZ, Demilitarized zone)と呼ばれる緩衝地帯として設置し、朝鮮半島を横切る無人の地域となっている。また南北双方は侵入を防ぐ目的で、非武装地帯を何重にも鉄条網や高圧電線で囲い、幅4キロメートルの帯状のこの地域に多くの地雷を敷設している。以後この停戦ラインは軍事境界線として、2010年現在も南北の事実上の境界線(国境)となっている。

占領政策の過程で北緯38度線上に1本の境界線が引かれたこと、そして、その後に南北に異なるイデオロギー政権が生まれたことが3年間の朝鮮戦争の原因となり、各方面へ多くの犠牲をもたらした。しかし、南北の境界線は、戦争中に南へ北へと移動しても消えることはなく、結局、戦争をもたらした北緯38度線の付近に、停戦ラインを引く結果となってしまったため、朝鮮戦争は「意義のない戦争」であると言われることがある。

現在、38度線と言えば、この停戦ラインを指すことが多い。ただし、停戦ラインの38度線はあくまでも「付近」であり、実際には西南西から東北東へと向かう歪な線となった。そのため、第二次世界大戦後から朝鮮戦争勃発までは南側であった黄海道の海岸部や京畿道開城は朝鮮戦争停戦後には北側となり(ただし、北側になってからの開城は京畿道ではなく、直轄市あるいは特別工業地区などとして統治された)、逆に江原道の一部(束草市など)は北側から南側となった。

韓国鉄道公社(KORAIL)の路線では、京元線がこの38度線を跨いで運行されている。同線が北緯38度線を越す位置(哨城里 - 漢灘江間)には、それを現す標柱なども建てられている。

北緯38度線が横断する国

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脚注

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参考文献

関連項目


外部リンク

  • 関寛治「分断の責任-米ソ冷戦は何をもたらしたのかー」、『世界』一九八四年八月号、四九頁
  • テンプレート:アジア歴史資料センター