犬鳴峠
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犬鳴峠(いぬなきとうげ)は、福岡県宮若市と同県糟屋郡久山町との境を跨ぐ峠である。
地理・交通
久山町の東端部および宮若市の西端部にあたり、峠の北側に犬鳴山(583.7 m)がある。糟屋郡の久山町・篠栗町、古賀市・福津市側と宮若市側を分かつ犬鳴連峰を越える峠の一つで、福岡市と直方市を結ぶ福岡県道21号福岡直方線が通る。同道路はヘアピンカーブが連続し、狭いトンネルをくぐる交通の難所であったが、1975年に新犬鳴トンネルが開通した後は道幅も広がっている。なお、周辺は山間部なので大雨や積雪などの影響で通行止めになることもある。
筑豊地域の中で福岡都市圏に寄りに位置し、北九州市・直方市と福岡市との近道として利用されることや、宮若市にはトヨタ自動車九州本社である宮田工場が存在する関係などで、交通量は非常に多く、大型トラックやダンプカーなども多数通行している。
旧道の一部は犬鳴ダムの建設により沈み、不法投棄や暴走族の溜まり場となったりするなどの問題が発生したことから、旧道トンネルは閉鎖された。旧道犬鳴トンネルの入り口はコンクリートのブロックで覆われており、旧トンネルに向かう旧道もフェンスで封鎖されている。閉鎖されている道路は道幅が狭く、一部では崖崩れなどで通行が非常に危険である上、無断で立ち入った場合、法律・条例等で処罰の対象となる。
公共交通機関としては、宮若市・久山町・粕屋町を経由して福岡市と直方市を結ぶJR九州バスの路線(直方線)が犬鳴峠を越えて運行されており、新犬鳴トンネルの両端出口付近に停留所が設けられている。停留所名は宮若市側が「犬鳴口」、久山町側が「白木橋」である。
犬鳴山を挟んで峠と反対側に山陽新幹線が通っているが、峠近くの区域はすべてトンネル(福岡トンネル)内となっている。新犬鳴トンネル入口の銘板には「新犬鳴トンネル」(全長:1,385m)と記されている。閉鎖された旧道トンネルの銘板には「犬鳴隧道」と記されていた。
峠の約2km北東、宮若市側では1970年から犬鳴ダムの建設が進められ、1994年に完成した(完成当時は若宮町)。ダム湖は「司書の湖」という愛称がつけられ、展望台やレストランなど観光整備もされている。また峠の入口には、温泉地である脇田温泉も存在する。
犬鳴峠の古称は久原越えと言われ、江戸時代初期、元和年間(1615年-1623年)に道が開かれたと言う事であるが、江戸時代より昭和初期ごろまで地元民からは重要視されていない峠道であったらしい。古老の言によると、犬鳴峠は非常な悪路であったため利用者はほとんどなく、地元、吉川村の住民は福岡、博多へ行くときは猫峠を越えて篠栗に出ていたという。また犬鳴住民も犬鳴峠は避け、現在は登山道になっている古賀市清滝に抜ける薦野峠を使用していたという。猫峠、薦野峠は江戸時代より昭和初期ごろまで地元民にとって生活上、重要な幹線道路であったという。江戸時代より糟屋、宗像郡などからやって来る行商人は早朝、家を出立し猫峠、薦野峠を越え吉川村の集落などで夕刻ごろまで商取引をした後、集落の中で懇意にしている家に一泊し、朝早く峠を越え帰途についたという。宿泊代は売れ残り商品で済ませていた。犬鳴にも行商人が定宿にしていた家があり、そういった関係から宗像、糟屋郡の住民と婚姻などの縁組が多かったそうである。宮若市側、旧犬鳴トンネル脇にある林道奥は犬鳴の地籍ではなく、脇田の地籍である。
犬鳴村伝説
テンプレート:出典の明記 「犬鳴トンネル近くに、法治が及ばない恐ろしい集落『犬鳴村』があり、そこに立ち入ったものは生きては戻れない」という都市伝説。
この都市伝説に関しては諸説あるが、概ね以下の内容である。
- トンネルの前に「白のセダンは迂回してください」という看板が立てられている。
- 日本の行政記録や地図から完全に抹消されている。
- 村の入り口に「この先、日本国憲法は適用しません」という看板がある。
- 江戸時代以前より、激しい差別を受けてきたため、村人は外部との交流を一切拒み、自給自足の生活をしている。近親交配が続いているとされる場合もある。
- 入り口から少し進んだところに広場があり、ボロボロのセダンが置いてある。またその先にある小屋には、骸が山積みにされている。
- 旧道の犬鳴トンネルには柵があり、乗り越えたところに紐と缶の仕掛けが施されていて、引っ掛かると大きな音が鳴り、斧を持った村人が駆けつける。「村人は異常に足が速い」と続く場合もある。
- 全てのメーカーの携帯電話が「圏外」となり使用不能となる。また近くのコンビニエンスストアにある公衆電話は警察に通じない。
- 若いカップルが面白半分で犬鳴村に入り、惨殺された。
これらの説について、そのような事実はない。犬鳴は江戸時代中期、元禄4年(1691年)以前に福岡藩庁が城下、地行町に居住していた御小姓与鉄砲足軽に移住を命じ成立させた村落であり、激しい差別を受けていた等の事実はない。犬鳴にあった江戸時代中後期にかけての墓地群の改葬の時、多数の寛永通宝、宝永通宝、天保通宝、文久永宝などの銅銭、糟屋郡須恵で製作された須恵焼の皿、茶碗や徳利、刀の残骸、鍔などが出土したということである。
さらに江戸時代末期には福岡藩家老の加藤司書が犬鳴製鉄所や有事の際の藩主の避難所の犬鳴御別館を建造させ、福岡藩の拠点の一つとした為、そのような集落があったとは考えにくい。
江戸時代の地誌、筑前国続風土記、筑前國続風土記附録、筑前國続風土記拾遺、犬鳴を含めた吉川庄(旧若宮町の西半分にあたる地域=吉川村域)の総社である日吉山王宮の大宮司職・国井内膳が享保14年(1729年)に犬鳴の事を書き記した犬鳴山古実という地誌にも外部との交流を拒み自給自足の生活をしていた事や、江戸時代以前より激しい差別を受けていた事などは記してはいない。筑前国続風土記の著者である貝原益軒は元禄9年(1696年)に甥の好古と共に犬鳴を来訪している。住民の代々の菩提寺は犬鳴から数キロほどの所にある浄土宗と曹洞宗の寺院であるが両寺の過去帳にも一般の檀家として記載してある。浄土宗寺院の本堂内には犬鳴檀家の祖霊位牌が安置してある御霊屋がある。
実在する犬鳴村について
現在の宮若市の西端部にあたる区域に、かつて犬鳴村が実在した。鞍手郡に属したが、明治22年(1889年)4月1日に町村制度が施行されるにあたり、周辺の3村と合併して吉川村を発足させ、犬鳴村は吉川村の一集落となった。その後市町村合併が進められ、1955年3月1日の合併で若宮町に含まれ、2006年2月11日の若宮町・宮田町の合併では「宮若市犬鳴」となり、現在も地名として残っている。
林業などを主産業としていたが、産業を取り巻く事情の変化などにより廃れた。集落の中心地は犬鳴ダムの建設により、湖底に沈んだ。元居住者は周囲の集落へ移転。犬鳴の地名には現在一人だけ住民票を持つという居住者がいる。
先述の都市伝説とされる「犬鳴村と呼ばれる地域」とは全く関係がない。
事件・事故
テンプレート:出典の明記 1988年12月にデートに使う目的で車を窃盗しようとしていた少年ら5人が、偶然見つけた知人工員(当時20歳)を拉致し、リンチの末両手両足を縛り、旧犬鳴トンネルで全身にガソリンを浴びせ焼殺する事件が起こった。その後犯人グループは逮捕され、主犯は無期懲役判決を受けている。
峠周辺は交通の難所であり、冬場の積雪や路面凍結が多いため、交通事故も多く発生している。
周辺で見られる主な動植物
周辺で見られる稀種植物
- ナンゴクウラシマソウ
- ヤマアジサイ
- ジエビネ
- キエビネ
- ミヤマウズラ
- シュンラン
- アキチョウジ
- カンラン
- ムサシアブミ
- タイリンアオイ
- ヒトリシズカ
- フタリシズカ
- ヒメウラシマソウ
- タンナトリカブト
- ジンジソウ
- ヤブムラサキ
- ヤマボウシ
- サイハイラン
- フウラン
- トチバニンジン
- キンラン
- ハンカイソウ
- アヤメ
- カノコソウ
- コクラン
- オニグルミ
- リンドウ
- オミナエシ
- レイジンソウ
- アケボノソウ
参考文献
関連項目
- 日本の峠一覧
- 福岡県道21号福岡直方線
- キャッツ・アイ - 作中に「犬鳴署」という架空の警察署が登場する。作者の北条司が福岡県出身であり、犬鳴峠から名前をとった。ただし、作中では「いぬなりしょ」と読まれている。
- 猫峠(犬鳴峠の南東側にある峠)
- 犬鳴山(大阪府道・和歌山県道62号泉佐野打田線) - 極稀に誤解されるが、「はねた犬の首が主人を助けた」という類の伝説は、こちらの地名の由来であり、犬鳴峠の場合は、上述の通り、全く別の由来によるものである。
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