源頼定

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源 頼定(みなもと の よりさだ、貞元2年(977年) - 寛仁4年6月11日1020年7月4日))は、平安時代中期の公卿村上源氏村上天皇の第四皇子一品式部卿為平親王の次男。官位正三位参議

経歴

頼定の父・為平親王は冷泉天皇のすぐ下の同母弟であったが、母の中宮安子・外祖父の師輔を早くに失った上、舅の高明外戚として勢威を振るうのを恐れた藤原氏によって、冷泉天皇皇太弟には為平親王を飛び越えての同母弟・守平親王(のちの円融天皇)が選ばれたため、失意の日々を送った不運の皇族である。為平親王の子息は一斉に臣籍降下、頼定はその次男である。

永祚2年(990年従四位下に初叙され、正暦3年(992年弾正大弼に任ぜられる。正暦4年(993年昇殿中関白家と親しく、長徳2年(996年)4月24日、内大臣伊周中納言隆家が左遷された際、これに連座して勅勘を蒙る。間もなく許されたらしく、長徳4年(998年)には右近衛中将任官している。長保3年(1001年従四位上左近衛中将に叙任。寛弘2年(1005年蔵人頭。寛弘6年(1009年参議として公卿に列す。

参議昇進以降三条朝にかけて伊予権守を兼官するにとどまる。 (大鏡によると東宮時代の三条天皇の尚侍、藤原綏子と通じていた影響もあり三条天皇在位中は昇殿が許されていなかったためとある)

後一条天皇即位した長和5年(1016年)には従三位次いで正三位に続けて昇叙される。後一条朝では議政官として勘解由長官左兵衛督検非違使別当を兼ねた。寛仁元年(1017年)末頃より体調を崩し[1]、寛仁4年(1020年)6月8日に病気(腫瘍)のため出家[2]、同11日に薨去。享年44。

密通騒動と女性関係

三条天皇東宮時代の尚侍藤原綏子に通じて懐妊させ、疑わしく思った東宮が綏子の異母兄・道長に命じて妊娠が事実かどうか確認させた。この密通の真実について東宮は怒り、帯刀達に命じて頼定を蹴殺してやろうかと思ったほどだったが祖父の名を穢したくないとやめておいたという。その為か三条天皇在位中は頼定の昇進は止まり昇殿は許されなかった[3]。二人の間に生まれた男の子は後に寺に預けられた僧の頼賢であるとされる。

綏子の死後か時期は不明だが橘輔政の娘を娶り、息子の源定季が生まれている。しかし定季は長久3年(1042年)10月2日に母の家で殺害されている。

一条天皇崩御後、孤閨を託った承香殿女御藤原元子と密かに情を交わし、激怒した元子の父・右大臣顕光が手ずから娘の髪を切り勘当したけれども、元子は夜蔭にまぎれて頼定のもとに走り、遂に二女を儲けた話[4]が諸書に見える。ちなみに御堂関白記(長和五年四月二十一日条)によれば元子は頼定の「」という表記になっており従二位に叙された一条天皇の女御の元子を彼女より下の位で廟堂では末席、既に妻子持ちでもあった頼定が妾として手を出したのが顕光には許させなかったのではとある。[5]頼定の過去の綏子との密通騒動での浮名のこともあり、反対されたのも至極当然であった。頼定は元子の兄重家とはよく知り合った仲[6]であったようで彼等は従兄弟である事から昔から元子の事を知っていたと思われる。

元子との密通発覚後の先妻との関係は不明であるが、小右記では元子は「故兵衛督室」となっており、地位と家柄は元子の方が上な為か北の方と見なされていたと思われる。しかし頼定の遺体は橘氏と縁の深い弥勒寺に運ばれているので[7]橘輔政の娘との縁で檀家だったのではないかと思われる[8]ため、輔政の娘とは死ぬまで縁は切れていなかったと思われる。

逸話

  • 枕草子』において頼定は「宮の中将」「源中将」と呼ばれ、「かたちよき公達」の代表に挙げられる
  • 後世の碩学として名高い大江匡房は、著書の中で、頼定を雲客(殿上人)の項目の4人の中の1人に揚げており[9]、この事から頼定は公卿として相応の評価を受けていた事が伺える。
  • 和歌は不得意だったようだが、漢詩や朗詠や弓術や蹴鞠などの一般的な殿上人の教養はこなせていた。[6]

官歴

系譜

脚注

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  1. 小右記
  2. 公卿補任
  3. 『大鏡』第四巻、太政大臣兼家
  4. 栄花物語』巻第十一、つぼみ花
  5. 「承香殿の女御」
  6. 6.0 6.1 権記
  7. 左経記
  8. 『承香殿の女御』
  9. 続本朝往生伝
  10. 『栄花物語』巻第三十四、暮まつほし
  11. 平安時代史事典角川書店1999年(平成11年)、2202頁
  12. 『承香殿の女御』中公新書1970年(昭和45年)
  13. 『僧官補任』