弾正台

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弾正台(だんじょうだい、彈正臺)は、

弾正台 (律令制)

律令体制時代の弾正台は監察警察機構。

主な職務は中央行政の監察、京内の風俗の取り締まりで、左大臣以下の非違を摘発し、奏聞できた。太政官の影響を受けないよう独立した機関として設置されたが、実際は太政官の因事管隷のもと、充分機能した例は少ない。裁判権・警察権も刑部省・各官司が握っていたため、非違を発見した場合でも直接逮捕・裁判する権限はない。長官たる尹は従三位相当官で、親王が任ぜられることが多く弾正宮などと呼ばれた。また大納言で兼帯することもあり、尹大納言などと言われた例がある。なお、単に「弾正」と称した場合には弾正台の職員を指す。唐名は「霜台」など。

嵯峨天皇時代に検非違使が創設されて以来、徐々に権限を奪われ有名無実化した。

織田信長は、歴名土代に、織田弾正忠、平信長、と記載があり、朝廷に公認された官職である。

松永久秀は、弾正少弼に、永禄三年に任命されていることが、歴名土代で確認できる。


弾正忠 (だんじょうのじょう/だんじょうのちゅう)

監察警察を行う役職・位の一つだったと推測される。

弾正忠を自称したのは甲斐武田氏家臣の三弾正こと高坂昌信(逃げ弾正)、真田幸隆(攻め弾正)、保科正俊(槍弾正) などが特に知られている。

熊本県上益城郡山都町にあった阿蘇氏の居館=浜の館・館跡には、「弾正杉」と呼ばれる杉の大木が19世紀後半頃まであった。現在は「弾正さん」とよばれる百日紅の古木がある。弾正杉の西には阿蘇家の息女ないし侍女の墓と石祠・女性像があり、母乳の出る効能があるとして信仰されている。

 例 

弾正尹の辞令(宣旨)の例 「薩戒記」
從二位行權大納言藤原朝臣定親
正二位行權大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣公保宣
奉 勅件人宜令兼任彈正尹者
嘉吉三年六月十五日 大外記中原朝臣師郷奉
(訓読文)従二位行権大納言藤原朝臣定親(中山定親 43歳) 正二位行権大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣公保(三條西公保 46歳)宣(の)る、勅(みことのり 後花園天皇 25歳)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく弾正尹を兼任せしむべし者(てへり)、嘉吉3年(1443年)6月15日 大外記中原朝臣師郷(押小路師郷 57歳 正四位下)奉(うけたまは)る、

職員

四等官

  • (いん) - 1人
  • 大弼(だいひつ) - 1人
  • 少弼(しょうひつ) - 1人
  • 大忠(だいちゅう) - 1人
  • 少忠(しょうちゅう) - 2人
  • 大疏(だいそ) - 1人
  • 少疏(しょうそ) - 2人

その下には台掌(だいしょう)、巡察弾正などの役も置かれた。

弾正台 (明治時代)

明治時代に入り、1869年明治2年)に新政府の監察機関として改めて京都に設置された。設置に際しては、維新後、開国政策を進める新政府にとって持て余し気味の存在となっていた過激尊攘派の不平分子らの懐柔を目的に、彼らを多く採用したいきさつがあり、したがって新政府の改革政策に反対する方針を採ることもしばしばであったため、他の官庁との対立が深まった。しかし監察機関であるがゆえに政府内での彼らの権限は小さく、主流派から外された弾正台の尊攘派は、府藩県・各の非違を糾すという名目で、彼らの政敵たる開国派をやり玉に挙げる程度で満足しなければならなかった(なお当時大学大丞であった加藤弘之(後の東京大学綜理)も天長節儀式に欠席したことを弾正台に指弾され、謹慎処分を受けている)。

とりわけ横井小楠および大村益次郎の暗殺事件においては、取り締まるべき弾正台の古賀十郎海江田信義が横井・大村の政策を非難し、暗殺は彼らの自業自得であると主張、あまつさえ暗殺犯の減刑までも主張するに至った。1870年(明治3年)5月、特に過激であった古賀のほか大巡察8名が人員削減を名目に免官となり、これを機に政府による尊攘派切り捨てが本格化した。そして弾正台自体も刑部省への統合が決定され、1871年(明治4年)司法省に統合された。なお免官となった古賀は翌1872年愛宕通旭らとともに新政府転覆のための挙兵を企てた(二卿事件)ことをもって梟首に処せられている。

明治4年5月13日に神戸でキリスト教の禁教を犯した罪で、市川栄之助が逮捕された。その後、弾正台に送られ、拷問を受けキリスト教信者であることを取り調べられた。明治5年11月25日に弾正台の内で秘密裏に処刑された。公式発表は牢死であった。

「弾正」姓

佐渡に「弾正」姓を名乗る人々がいる。