池部良

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テンプレート:ActorActress 池部 良(いけべ りょう、1918年2月11日 - 2010年10月8日)は、日本の俳優随筆家芸術家岡本太郎は従兄[1]にあたる。

来歴・人物

風刺・風俗漫画家として一世を風靡した池部鈞日本芸術院より恩賜賞を受賞[2])の息子として[3]東京市大森区(現・東京都大田区)に生まれた。母は画家・漫画家岡本一平の妹。立教大学文学部英文科に入り[4]富田彬などから学ぶとともに[5]、映画監督になるのを夢見て在学中の1940年東宝撮影所のシナリオ研究所に研究生として入る。

1941年、大学卒業と同時にシナリオ研究所を卒業し東宝に入社する。監督希望だったが[6]戦時下の作品制作数の大幅減少で助監督の空きがなく、文芸部に配属。早々部長に、面食いだからと当時子役の大スターだった中村メイコの子守を命じられ、彼女の大絶賛を聞いた島津保次郎監督に請われて『闘魚』に脇役で出演する[7]。それが好評となり知的でスマートな若手俳優のホープとして目された。

しかし、1942年の『緑の大地』のクランク・アップの翌日に陸軍に召集され中国山東省に派遣された[8][9]。大学卒ということで幹部候補生試験への受験を勧められるが[9]、任期が長くなる(当時、兵隊のままだと任期は2年とされていた)ため断るが、上官に無理やり受けさせられ白紙で答案を提出したにもかかわらず甲種幹部候補生にされ、きびしい訓練を受け1943年11月見習士官(曹長)に任官後[10]陸軍少尉となる。1944年に南方戦線に移動される。5月12日、輸送船が敵潜水艦に撃沈され[11]セレベス海に投げ出され10時間泳いだ後、日本海軍の艦船に救出されインドネシア北東部のハルマヘラ島へ配属された[12]。食料、弾薬ともに豊富なハルマヘラ島に配属された彼らは1944年9月アメリカ軍のすさまじい艦砲射撃、空爆を受けてジャングルに逃げ込んだ[13]テンプレート:要出典範囲、少尉ながら衛生隊本隊を任され終戦まで戦い、終戦時の階級は中尉だった[13]

1946年6月まで抑留され、南方から苦労して日本に帰る[13]腸チフスに罹患した池部は俳優を続けるかどうか決めかねていたが、東宝や高峰秀子に熱心に請われ[14]、特に高峰には市川崑を付き添いに疎開先の茨城県の山村にまで直接訪れて説得され、俳優に戻る[13]。映画界に復帰した池部は日本共産党とそのシンパによる東宝争議1948年秋まで煩わされた[15]

175cmの身長と美貌を生かして、次々と主演作をヒットさせる。1948年に女優の羽鳥敏子と結婚したが離婚。その後も青春スターの第一人者として活躍を続けた。特に1949年石坂洋次郎原作の『青い山脈』では、当時30代だったにもかかわらず[16]、旧制高校の生徒をさわやかに演じ、戦後の自由な雰囲気を象徴する映画として大ヒットした。その後は1950年新東宝の『暁の脱走』、1952年松竹の『現代人』と他社の作品にも出演。特に『現代人』では池部がそれまでの二枚目スターから演技派俳優として最初に認められるようになった作品であった。

坊っちゃん』(1953年岡田茉莉子共演、丸山誠治監督)、『雪国』(1957年岸惠子共演、豊田四郎監督)、『暗夜行路』(1959年山本富士子共演、豊田四郎監督)などの多くの文芸作品で翳のある青年を演じ、文芸路線や都会派映画に欠かせない二枚目スターとして君臨した。

1960年代に入ると徐々に脇役に転じたが、1964年に主演した『乾いた花』(篠田正浩監督)でのヤクザ役が評判となる。この頃、18歳離れた女性と再婚した[17]

1965年、映画俳優(石原裕次郎里見浩太郎山城新伍ら)が暴力団のために拳銃を密輸していたことが明るみに出た。警察庁は芸能興行関係者に暴力団との腐れ縁を絶てと強い調子で警告。同年2月22日日本映画俳優協会理事長であった池部は映画俳優と暴力団との完全絶縁を表明した[18]。同年9月、東宝を離れ池部プロダクションを設立。自ら映画を企画しストーリーを書くようになるが、1967年に1億円の負債を抱え倒産

一方同年、東映より高倉健主演の『昭和残侠伝』(1965年)の出演を依頼されたが、妻が強く反対し、当初は断っている。しかしプロデューサー俊藤浩滋による再三の申し入れもあり、「入れ墨を入れないこと、毎回殺されること、ポスターでの露出を小さくすること」を条件に出演を承諾した[18]。公開された『昭和残侠伝』はヒットし、池部もシリーズを支えていく。なかでも『昭和残侠伝 死んで貰います』(1970年)で池部演じる風間重吉がクライマックスで高倉に語る「ご一緒、願います」は流行語となった。

1983年より2009年まで、日本映画俳優協会理事長を務める。

1991年毎日新聞連載の『そよ風ときにはつむじ風』で「日本文芸大賞」を受賞したことから多数の連載を抱えることとなり、以後は文筆業や講演が活動中心となる。

2007年、初の池部良研究本『映画俳優 池部良』が出版される。

同年2月、東京池袋の新文芸坐トークショーにてその本の編集者から「青い山脈の時に31歳でしたが…」との質問に対し実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことを告白した。ただし、過去の池部のエッセイではこのことを暗に仄めかした記述がある。年齢より若い役が多く、実年齢が近い森繁久弥藤田進の息子役を演じたこともある。

文筆業が中心となってからでも「自分は(映画)俳優である」という意識を持っていた。しかし「オファーがあっても(相手から)年齢を聞かれて、答えると『じゃあ、この話は…』と断られてしまう」ことを2008年2月の『徹子の部屋』出演時に語っていた。

2010年10月8日午後1時55分、敗血症のため東京都内の病院で死去。テンプレート:没年齢[19]。亡くなった際も、雑誌「百歳万歳」「銀座百点」ほか4誌にエッセイを連載中だった。

出演作品

映画

テレビドラマ

バラエティ

著書一覧

  • そよ風ときにはつむじ風 (毎日新聞社 1990年、新潮文庫 1995年)
  • 続 そよ風ときにはつむじ風 (毎日新聞社 1992年、新潮文庫 1995年)
  • 続続 そよ風ときにはつむじ風 (毎日新聞社 1994年、新潮文庫 1998年)
  • 風まかせの暦 (毎日新聞社、1991年)
  • 風吹き鴉(毎日新聞社、1997年)
  • そして夢にはじまった(1-4)(毎日新聞社、1994-96年)
  • 寝そべる風(マガジンハウス、1989年)
  • 21人の僕 映画の中の自画像(文化出版局 1991年)
  • 風、凪んでまた吹いて(講談社 1991年、講談社文庫 1997年)
  • 山脈(やま)をわたる風(小学館 1993年、小学館文庫 1998年)
  • 酒あるいは人(平凡社、1993年)
  • つきましては、女を(扶桑社、1996年)
  • 食い食い虫(新潮社、1998年)
  • オレとボク 戦地にて(中公文庫、1995年/新風舎文庫 2003年)
  • 煮たり焼いたり喋ったり(中公文庫 1995年)
  • ハルマヘラ・メモリー(中央公論社 1997年、中公文庫 2001年)
  • 舞い舞い風(中央公論社、1998年)
  • 匂いおこせよ梅の花(中公文庫 2002年)
  • 風が吹いたら (文藝春秋 1987年、文春文庫 1994年)
  • 風クラシック(文藝春秋、1996年)
  • 言伝て鍋(文藝春秋、2000年)
  • 心残りは…(文藝春秋 2001年、文春文庫 2004年)
  • 人魚のニキビ(文藝春秋 2002年)
  • 風の食いもの(文春文庫 2006年)
  • 天丼はまぐり鮨ぎょうざ 味なおすそわけ(幻戯書房、2007年)
  • 窓を開けると(文春文庫 2008年)

編著

  • 映画俳優池部良(志村三代子/弓桁あや編 ワイズ出版、2007年)-インタビューほか
  • 池部良の男の手料理(中央公論社、1986年)-料理本、写真多数

論文

脚注・出典

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外部リンク

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  • 18.0 18.1 テンプレート:Cite web
  • 「青い山脈」俳優の池部良さん死去、92歳 - nikkansports.com、2010年10月11日
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