武藤章

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テンプレート:基礎情報 軍人 武藤 章(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将極東国際軍事裁判(東京裁判)で唯一中将として絞首刑判決を受けた。岳父は陸軍次官、関東軍司令官などを歴任した尾野実信大将

生涯

熊本県白水村の地主の家に生まれる。済々黌中学熊本陸軍地方幼年学校を経て、1913年(大正2年)陸軍士官学校(25期)を卒業。富永恭次佐藤幸徳山内正文田中新一山崎保代らが同期。

1920年(大正9年)陸軍大学校(32期)卒業。冨永信政青木重誠酒井康中村正雄酒井直次西村琢磨橋本欣五郎らが同期。

1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件に際しては、参謀本部作戦課長として、不拡大方針をたてた上司の作戦部長石原莞爾とは反対に対中国強硬政策を主張し、12月には中支那方面軍参謀副長として現地に赴く。1938年(昭和13年)7月、北支那方面軍参謀副長に転任した。

1939年(昭和14年)3月少将に進み、同9月陸軍省軍務局長となる。1941年(昭和16年)10月、中将に昇進。近衛内閣末期に対米関係が極度に悪化、近衛首相は内閣を投げ出し同年11月に東条内閣が成立する。組閣に当たり天皇より開戦を是とする帝国国策遂行要領白紙還元の御諚が発せられ、東條首相も姿勢を改める。武藤はこれを受け、開戦に逸る参謀本部を制して最後まで対米交渉の妥結に全力を尽くした。

開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條や鈴木貞一星野直樹らと対立、1942年(昭和17年)4月にゾルゲ事件の発覚等により更迭され、近衛師団長となる。同師団はスマトラ島メダンで作戦中、1943年(昭和18年)6月に近衛第2師団に改編された。

1944年(昭和19年)10月に第14方面軍フィリピン)の参謀長に就任した。これは第14方面軍司令官に任命された山下奉文の希望によるもので、フィリピンの地で終戦を迎えた。終戦の際、山下に共に切腹することを提案するが、説得され、現地で降伏。山下らが起訴されたマニラ軍事裁判では、逮捕起訴されないどころか、弁護人補佐として出廷し山下らの弁護につとめた。しかしこの裁判ののち、極東国際軍事裁判(東京裁判)に逮捕起訴されるため日本に戻された。

東京裁判で捕虜虐待の罪により死刑判決を受ける。東京裁判で死刑判決を受けた軍人の中で、中将の階級だったのは武藤だけである。死刑の理由については、フィリピンでの捕虜虐待が最重要なものとしてあげられた。しかし前述のように武藤はフィリピン現地での、捕虜虐待などを取扱ったマニラ軍事裁判に訴追されることなく弁護人補佐としてかかわっており、この死刑判決はきわめて矛盾したものとして指摘されることが多い。

武藤は対中国戦争に対しては拡大積極派であったが、盧溝橋事件当時は地位は作戦課長と低く、A級戦犯として処刑されるほどの責任があったとは考えられない。また対米英開戦には陸軍首脳で最も強硬な反対派であったし、判決文で死刑理由とされたフィリピンの現地での捕虜取り扱いの問題に関しても、前述のように、フィリピン現地の裁判では起訴も逮捕もされていない。このため東京裁判の七人の死刑囚の中で、広田弘毅と並んで、死刑判決を受けるべき人間ではなかったという意見もある。(但し、日米の対立が決定的になったのは日中戦争で、不拡大方針に従わず、日本を対米戦争による破滅に追い込むのに大きな役割を果たしたのも武藤であり、日中戦争つまり「日本による中国利権の独占・米英の中国利権の破壊」を推進しながら、米国との和平が保てると考えていたのがおかしいという意見もある)。

武藤の死刑の理由については、検察側の隠し玉的証人として法廷を驚かせた田中隆吉元陸軍少将の「あの男が軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」という証言によるものだという説、また開戦時の東條の腰ぎんちゃく的存在だったとみられたからだという説などがある。しかし前述のように東條と武藤は開戦後すぐに仲たがいしており、死刑を免れた鈴木貞一や星野直樹らの方がよほど東條のイエスマンであった。東條英機は判決後武藤に「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と意外の感を漏らしたとも言われる。また武藤と田中は互いに相手に対して嫌悪感をいだいており、これが田中の証言につながったというふうに説明されることが多い。武藤は田中が軍部内の動きを法廷で暴露し自分を叩く証言をしたことについて、笹川良一に「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と語ったという。これと関連があるのか不明だが、田中は晩年「武藤の幽霊が現れる」と精神不安定の状態に陥り、何度か自殺未遂を起こしている。

1948年(昭和23年)12月23日に巣鴨プリズン絞首刑に処された。辞世の句は、

霜の夜を 思い切ったる門出かな
散る紅葉 吹かるるままの行方哉

であった。また、次のような詩を書き残している。

「西の御殿に 火急な御召し 陸は遠み 船には弱し ままよ船頭さん 夜中じゃあるが 向う岸まで お願い申す 西の殿様 気のよいお方 御馳走たくさん 下さるだろう 還りゃ気ままに 一人で渡る お酒みやげじゃ 寝てござれ」

1978年(昭和53年)、靖国神社に合祀された。

逸話

  • 誰に対しても遠慮無しに毒舌を吐いたり、人と群れることを嫌うなど、傲岸不遜な性格であったため人気が低く、部下から「武藤ではなく無徳」といわれていた。
  • 武藤たち関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、石原莞爾が中央の統制に服するよう説得に来た際に、「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と得意の毒舌で反論して同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。
  • 元は統制派に与していたため、皇道派に属する山下奉文とは思想が異なるが、仲が良かったという。
  • 尾崎秀実と親しかった[1]
  • 支那事変勃発の際、参謀本部作戦課長であった武藤は、軍事課長の田中新一に電話をかけ、「ウン田中か、面白くなったね、ウン、大変面白い、大いにやらにゃいかん。しっかりやろう」と課員に聞えよがしに大声で話していたという[2]

年譜

栄典

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

著作

  • 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命
実業之日本社、1952年) 獄中の日記と夫人によるあとがきがある。
中公文庫、2008年) ISBN 978-4-12-205100-3  解説・日暮吉延
  • 上法快男 編『軍務局長武藤章回想録』(芙蓉書房出版、1981年) ISBN 4-8295-0010-7
  • 武藤章「クラウゼウヰツ、孫子の比較研究」『偕行社記事』昭和8年6月号(靖国偕行文庫所蔵)所載

参考文献

  • 澤地久枝『暗い暦 二・二六事件以後と武藤章』(文春文庫、1982年) ISBN 4-16-723902-7
  • 上法快男編『政治スタッフの原点 陸軍省軍務局長武藤章に学ぶ』(芙蓉書房出版、1987年) ISBN 4-8295-0038-7

関連項目

テンプレート:A級戦犯
  1. 杉本幹夫『大東亜戦争はルーズベルトの錯覚から始まった』
  2. 上法快男『陸軍省軍務局』
  3. 『官報』第4793号、昭和18年1月7日
  4. 『官報』1942年02月12日 敍任及辭令
  5. 『官報』1941年12月15日 敍任及辭令