田中隆吉

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 軍人 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年明治26年)7月9日 - 1972年昭和47年)6月5日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、日本軍の数々の謀略に直接関与していた。大東亜戦争開戦時には陸軍省兵務局長であったため、対米作戦について関与することはなく予備役とされ、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、検事側の証人として被告に不利な証言もした。また、驚異的な記憶力の持ち主で、これらが東京裁判において発揮された。

略歴

川島芳子との関係

1930年(昭和5年)10月、田中は陸軍中佐で上海の公使館付武官として赴任した。そこで川島芳子と知り合い、ほどなく男女の関係になる。そして川島の語学力や明晰な頭脳・行動力を利用し、謀略工作の世界に引き込んだ。

第1次上海事変は1932年(昭和7年)1月に始まる。戦後、田中はこの事変を関東軍の謀略であるとした。日本人僧侶襲撃以降の脚本を書いたのが田中で、川島が関東軍から渡された軍資金2万円を使って反日中国人を煽動し、日本人僧侶を襲わせたと主張している。

その後も、国民党軍スパイ活動を川島に行わせていたが、小説『男装の麗人』などで川島の名が有名になると、逆に2人の仲は冷えていき、しばしば口論するようになったため田中と川島は別れることになったが、その後も田中は川島に恋文のような手紙を送っている。

東京裁判

戦後間もなく『敗因を衝く』などの書籍を刊行したところ、連合軍の目にとまりGHQに召喚され、ジョセフ・キーナン主席検事から昭和天皇の戦争責任を回避するための協力を求められる。また、内大臣秘書官長であった松平康昌からも昭和天皇の「日本人は戦犯として裁判を受けるとのことだが、彼らは自分の命令で戦争に従事したのであるから彼らを釈放し自分を処刑してもらいたい」という発言を聞かされる[1]。これらの発言から田中は天皇を守ることを決意、東京裁判において、検事側証人として出廷した。田中はキーナン検事と会談を重ね、日本陸軍の組織関係などを説明した。自身が関係した事件についても率直に語ったが、キーナンは些細な謀略工作などは問題ないとして田中は問題なしとした。しかし人間関係の不満により、旧陸軍の内部告発をしたとする批判もある。かつての上司である東條英機木村兵太郎にとって不利となる証言を次々とした。そのため、田中に対して「裏切り者」「日本のユダ」という罵声を浴びせる者もいた。特に、7月6日の公判において、橋本欣五郎板垣征四郎南次郎土肥原賢二梅津美治郎などを名指しで証言した際には、鈴木貞一はその日の日誌に「田中隆吉証言。全ク売国的言動ナリ。精神状態ヲ疑ワザルヲ得ズ」と記し、板垣征四郎も日記に二重丸をつけて「◎人面、獣心ノ田中出テクル。売国的行動悪ミテモ尚余リアリ」と書き、重光葵はその時の心境を「証人が被告の席を指さして 犯人は彼と云ふも浅まし」と歌に詠んだ[2]

田中の行為に、天皇の免責と自らの責任回避のどちらの要素が多いかは論議が分かれるところであるが、次のようなエピソードがある。1947年(昭和22年)の暮れ、木戸幸一担当の弁護士が、東條に対して「木戸に天皇のご意思にそむくような行いがあったかどうか」と質問をしたところ、東條は「いやしくも日本人たるもの、一人といえども陛下のご意思に反して行動するがごとき、不忠の臣はおりません。いわんや文官においてをや」と大見得を切ってしまった。これを受けて、アメリカ新聞は「東条、天皇の戦争責任を証言」と書きたてた。これを受けてさらに、ソ連検事が正式に天皇追起訴を提言してキーナン主席検事に迫った。キーナンと田中は、天皇は開戦の意図を持っていなかった、天皇には責任はないということを、いかにして東條に再度言明させるかを深夜まで協議をした。東條の秘書へ接触することで、東條への工作は成功した。1948年(昭和23年)1月6日の午後の法廷において、東條に「2、3日前にこの法廷で日本臣民たる者は何人たりとも天皇の命令に従わない者はないと述べたことは、単に個人的な国民感情を述べたにすぎず、天皇の責任とは別の問題であり、大東亜戦争(太平洋戦争)に関しては、統帥部その他自分をふくめて責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったのが実情である」と発言させることに成功したのだった。これにより、この危機は救われた。

東京裁判の席上、田中隆吉が東條を指差し、東條を激怒させた。特に武藤章においては「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」という田中の証言により、死刑が確定したとも言われている。武藤は対米開戦には慎重派であった。田中は数々の謀略に関与しており、検事側に協力しなければ起訴されていたことも有り得た。一説では、武藤が軍務局長の頃に、田中は武藤の地位を狙って策謀したが、未遂に終わって予備役に回された事から、武藤を逆恨みしていたと言われているテンプレート:要出典。だが、田中には終戦間際中将への昇進の話があったが、自ら断ったというエピソードがある。裁判後、田中は武藤の幽霊が現れると言う精神錯乱に陥ったとも言われている。

なお、田中は被告人側の証言にも立っている(木村兵太郎、梅津美治郎、東郷茂徳畑俊六の四名)。これについて人から問われると「自分は検事団に雇われているわけではない。事実を述べるのに検事側も被告側もあるか」と意にも介さなかった[3]

しかし、元外務省主任分析官佐藤優は「田中の軍歴が示す通り、全てが計算された戦後における謀略であった」と指摘している。真に売国奴であるならば、戦後においても継続された陸軍中野学校の国土遊撃戦計画(泉工作)などをGHQに売り払うはずであり、A級戦犯に対する告発も「被害者」を「最小限」に食い止める為の一つの手段であったと、考えることもできる。また、田中の目的が、絶対に国体護持を念頭していたことも、中野学校の戦後潜伏活動の目的と一致している(中野戦士たちは、占領軍が国体を毀損した場合に、ゲリラ戦へ移行すると決定していた)。真の愛国者は売国奴の汚名も着るとの言葉を、田中は実際にやって見せたとも考えられる。

テンプレート:要出典。昭和天皇は昭和天皇独白録において、東條英機が評判を落としたのは、「田中隆吉とか富永次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使った事」が原因であると述べている[4]

田中自身の戦争責任感

他人に対して好悪の激しかった田中は、東京裁判で上司・同僚に不利な証言をしたというだけでなく、戦後期の著述でも様々な自説を論じている。そのため特に非難が集まりやすく、周囲の証言からだけでは田中隆吉の人物像というものが見えにくくなりがちである。だが、東京裁判の終了直後の1949年(昭和24年)に田中が自殺未遂をした際の遺書には、下記の記述がある。

  • 日本の軍閥の一員として大東亜戦争中に死すべき身を今日迄生き長らへたるは小生の素志に反し、何とも申し訳なし。
  • 既往を顧みれば我も亦確かに有力なる戦犯の一人なり。殊に北支満州においてしかり。免れて晏如たること能はず。

この事から田中自身も戦争の責任の一端を感じていた事が窺える。また、晩年はうつ病状態であった。

脚注

  1. 豊下楢彦 『昭和天皇・マッカーサー会見』 岩波現代文庫 ISBN 978-4006001933、20-23p
  2. ただし、田中の証言という行為に対する批判は数多くあっても、その証言内容そのものに対する批判はなかった。
  3. 田中隆吉 『敗因を衝く 軍閥専横の実相中公文庫 ISBN 4122015359、204p
  4. テンプレート:Cite book

著作

  • 『敗因を衝く―軍閥専横の実相』
(山水社、1946年)
中公文庫、1988年、2006年) ISBN 4-12-204720-X
終戦直後に出版された本で、戦争末期においても上層部で政治闘争が続いていたことを明らかにした。ただし、この本を書いたことによってGHQから呼び出しを受けることとなる(後書きを参照)。
  • 『日本軍閥暗闘史』
(静和堂書店、1947年)
(中公文庫、1988年、2005年) ISBN 4-12-204563-0
  • 『裁かれる歴史―敗戦秘話』
(新風社、1948年)
(長崎出版、1985年) ISBN 4-930695-59-7

参考文献

  • 粟屋憲太郎 編\岡田良之助 訳『東京裁判資料・田中隆吉尋問調書』(大月書店、1994年) ISBN 4-272-52028-8
  • 田中稔「東京裁判と父田中隆吉」
    • 田中隆吉『敗因を衝く 軍閥専横の実相』(中公文庫、2006年) p188 - p209
  • 伊藤隆「『日本軍閥暗闘史』解説」
    • 田中隆吉『日本軍閥暗闘史』(中公文庫、2005年) p175 - p186。
  • 保阪正康『戦後の肖像 その栄光と挫折』(中公文庫、2005年) ISBN 4-12-204557-6
    • 「裏切りの軍人という烙印……田中隆吉」 p325 - p351 〔初出:「日本のユダ 田中隆吉の虚実」 『諸君!』1983年8月号〕

田中隆吉を演じた人物