土肥原賢二

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テンプレート:Amboxテンプレート:DMC テンプレート:基礎情報 軍人 土肥原 賢二どいはら けんじ明治16年(1883年8月8日 - 昭和23年(1948年12月23日)は、日本陸軍軍人陸軍大将正三位勲一等功二級。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作に中心的役割を果たす。昭和20年4月には、陸軍三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の一つ、教育総監も務めた。敗戦後、三長官会議で東久邇宮内閣の陸軍大臣に推挙されたが、下村定が就任。

極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受け処刑される。

生涯

生い立ち

岡山県岡山市出身。青山小学校仙台陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校(16期)卒業、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校(24期)卒業。

活動

大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。

昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させる。

その後、華北分離工作を推進し、土肥原・秦徳純協定を締結。この結果河北省冀東防共自治政府を成立させた。土肥原は、謀略をも辞さない強硬な対中政策の推進者として昇進を重ね、「満州のローレンス」と畏怖された。日中戦争では1938年6月の五相会議の決定によって土肥原機関を設立した[1]特務機関畑を中心に要職を歴任し、陸軍士官学校長も務めた。

戦犯

第二次世界大戦終結後、軍事参事官となった直後、A級戦犯としてGHQに逮捕される。極東国際軍事裁判(東京裁判)においては、特に中国が強硬に極刑を主張した。最終的に死刑の判決が下され、巣鴨プリズン内で絞首刑が執行された。辞世の句は、

わが事もすべて了りぬいざさらば ここらでさらばいざ左様なら
天かけりのぼりゆくらん魂は 君が代千代に護るならべし
踏み出せば狭きも広く変わるなり 二河白道もかくやありなん

その後靖国神社殉国七士廟に祀られた。

人物

蒋介石からは、「土匪原(「土肥」に音の似た侮蔑語「土匪」を重ねたもの)」と憎しみを込めて呼ばれ、蒋が独自に作成し連合軍に送ろうとしていた日本軍戦犯順位の資料で1番に上げられていたが、性格は温厚であったといわれている。 20年余りを中国で勤務したため、中国語が堪能で中国の知り合いも多くいたと言われ、「帝国陸軍きっての中国通」と呼ばれた。満州事変の後、市長の居なくなった奉天の臨時市長となり、運営経費を個人名義で借り入れた事もあった(後にこの借金の返済を巡って苦労することとなり、本人を含む家族は質素な借家に住んだとされている)。そして、軍規に厳しく「中国民衆から徴発するな、部落を焼くな、女を犯すな」と言ったと片倉衷が述べている。また得意とした謀略については、「謀略はテクニックでは無い」と言ったともいわれる。

その他

歌人佐伯裕子は孫である。

年譜

出典

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参考文献

  • 『秘録 土肥原賢二 - 日中友好の捨石』、 土肥原賢二刊行会、 芙蓉書房、 1972年発行

関連項目

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  1. 臼井勝美・稲葉正夫『現代史資料9日中戦争2』284頁, みすず書房