桂春団治 (3代目)

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花菱は、桂春団治一門の定紋である。ただし春団治はそれに三重の菱形で囲った「菱三升に花菱」の紋を使用。

3代目桂 春団治(3だいめ かつら はるだんじ、1930年3月25日 - )は、上方噺家上方落語家)。本名:河合 一(かわい はじめ)。大阪府大阪市出身。旧字体を春團治。所属事務所松竹芸能上方落語協会会員(相談役、第3代会長)。出囃子は『野崎』。

人物・来歴

2代目桂春団治は実父、河本寿栄は義母。実母とは死別している。本人は三男であるが、長男と次男は幼くして亡くなっているため実母が名前に「一(はじめ)」と付けたとのこと。

浪華商業高等学校(現在の大阪体育大学浪商高等学校)卒業後、兵庫県宝塚市の自動車部品販売会社でサラリーマン生活を送る。1年で退職後、父である2代目春団治の九州での巡業に同行した際、他の演者の急病により、仕方無く父の聞き覚えである落語「寄合酒」で初めて高座に上がることになったが、爆笑を得、その後本格的に噺家になることを決意した。そのためこのネタは記念すべきネタで、6代目笑福亭松鶴も初高座で演じたネタが同じ「寄合酒」であったと、のちに自叙伝などで語っている。

入門当時、上方の落語家が10数名であったなか、有志で「さえずり会」を結成、上方落語の復興に尽力。のちに、同会メンバーでもあった6代目笑福亭松鶴3代目桂米朝5代目桂小文枝(のちの5代目桂文枝)と並び、「上方落語の四天王」と呼ばれた。

経歴

落語

歌や芝居に表現される春団冶の破天荒でやたけたなキャラクターは、当代の春団治には当てはまらない。むしろ「繊細」「華麗」という表現が当代の芸風に当てはまる。語り口は淡々として艶やか。爆笑噺を得意とした初代や2代目とはまた違う上品さを持ち合わせており、その高座は「奇麗な芸」とも形容される。

落語の導入部である「枕」を振らず、いきなり本題に入る型をとっており、最近の若手の落語の導入前の噺は枕とは言わずただの世間話と苦言を呈しており、本題より枕が受けるのはどうかと言う考えを持つ。

上方落語の特徴である見台は使わない(但し、『代書屋』『寄合酒』ではまれに使用する場合もある)。また、羽織を脱ぐ仕草一つにも拘りを見せる。

大阪の演芸界では「三代目」といえば当代の春団冶を指す。

持ちネタ

  • 現在演じられているもの
いかけ屋」「祝いのし」「お玉牛」「親子茶屋」「子ほめ」「皿屋敷」「代書屋」「高尾」「月並丁稚」「野崎詣り」「寄合酒
  • 現在は演じられないもの
有馬小便」「色事根問」「宇治の柴船」「始末の極意」「寿限無」「平林」「豆屋」「明礬(みょうばん)丁稚」「蘭方医者」「風呂敷丁稚」 

当代は、その持ちネタの少なさで有名である。現在演じられないものは、出来ないのではなく、高座にかけられる物にならないから出さないという。その代わり、今演じるものについては高座にかけるたびに練り上げ、その全てが一級品といえる内容である。ちなみに師匠の2代目春団治からは「風呂敷丁稚」のみ差し向いで稽古してもらい、「祝のし」は病床で筋のみ伝えてもらった、「子ほめ」「お玉牛」「野崎詣り」は2代目立花家花橘、「いかけ屋」「高尾」は4代目桂文団治、そして「代書屋」「皿屋敷」「親子茶屋」「色事根問」「始末の極意」は3代目米朝に稽古を付けてもらったとインタビューなどで答えている。

香川登志緒と米朝のインタビュー記事で3代目の話題になった時、「若い時期は遊んでばかりいて言いにくいがあまり稽古は熱心ではなかった」と米朝が発言したことに対し、香川は「自分もそう想い以前一緒に飲んだ折に思い切って『恥をしのんで聞くがいったい幾つ落語のネタが出来るか』との問に『親父や花橘師などの師匠連に稽古をつけてもらっていないネタは怖くて舞台では演じることは出来ないが70席は出来る』と答えて安心した」と答えている旨の記事が有り、実際に演じずとも若手時代に落語を絶やすことを防ぐため花橘・文団治から5代目文枝同様多数のネタを受け継いでいると推測される。20年以上前に独演会で「三枚起請」を出すと稽古をしていたと弟子の何人かは証言しているが、実際には出来栄えに納得出来ず、演じられることがなかった幻の演目となっている。

羽織

高座で羽織を脱ぐ仕草が噺の邪魔になるとの考えから、両手でそれぞれの羽織の袖口をつかみ、一挙に後ろ手で落とす脱ぎ方を始めた。一度、羽織と着物の袖を間違って引っ張る失敗をしてからは、羽織のほうはサイズを大きめに作った。

踊り

山村流舞の名手でもあり、福団治時代は舞台でしばしば粋な寄席踊りを披露していた。同じ山村流の演者であった3代目笑福亭福松に、京都の富貴等の楽屋で舞台が終わった後に直接稽古をつけてもらっている。春団治襲名を準備していた頃あたりに、6代目松鶴から『襲名するならそろそろ噺に力を入れなはれ』と言われ、襲名後は高座ではほとんどやらなくなった。しかし、この舞踊の素養が春団治の落語に活きているのは、自他共に認めるところである(小佐田定雄『噺の肴 らくご副読本』、桂米朝『藝・これ一生』他)。

CD・DVD・ビデオ

  • 極付十番 三代目 桂春團治 DVD-BOX
    • 60周年記念して初のDVD化

弟子

入門順。孫弟子など、詳細は春団治一門を参照。

一時期実の長男も弟子として、父の名乗った由緒ある名前の桂小春を名乗って入門したが廃業している。

エピソード

  • 3代目もまた「春団治」の家系にもれず酒豪であり女性に人気がある。女性関係については、20代の頃の手帳には、100人近くもの女性の電話番号が記載されていたという。結婚後も初夜から朝帰りするほどで、怒って実家に戻った夫人が、両親から「女の一人や二人も出来ない芸人は伸びない。お前はそれを承知で嫁いだはずでは?」と逆に諭されたという逸話がある。
  • 過去に病気を患い、これを発端に春団治襲名騒ぎが門下で勃発。元来常識人であった本人は桂一門の心無い洒落と難癖に泣いてしまう程に追い込まれる。本人も「弟子を全員看取る」と豪語し、現在「春団治」の名は完全に本人が掌握し、弟子らに襲名させる意思も皆無となっている。なお、所属事務所のトピックスに掲載されたインタビューで、「4代目は誰に継がせるのか」といった主旨の問いかけに対し、「4代目春団治はこのボクや」と発言している。これは前述の経緯のほか、初代の前にもう1人春団治を名乗った人物が存在するため、この返答をしたものと思われる(但し、本業が別にあったために代数には数えられていない)。
  • 酒については元来は下戸であった。これは入門当初に師匠・2代目から芸に深みが出るためとして勧められた修業の成果であろう。ただ、高座では酔っ払いが登場する噺はほとんど手がけていない。「人によっては最初から最後まで同じ調子で酔っている噺家がいる。酒を飲んでいるのなら自然に酔っていかなければ」という持論があり、6代目松鶴と父・2代目の酔態表現を高く評価していることから、あえて取り上げていないと思われる。
  • 酒を飲めなかった3代目は、父で師匠でもある2代目から酒の稽古をつけられたが、最初の頃は酔っ払ってしまい2代目に担がれ帰宅することが多かったとのこと。
  • 最初の頃はまともな前座修行をしないまま初高座を終えてしまったため正座すらできなかった。そのためか立ち上ったらふら付くためみっともないので緞帳の幕を下ろしてもらって高座を下りていた。
  • 2006年9月15日、常設寄席「天満天神繁昌亭」のこけら落としを記念して、歴代の春団治が乗ったと伝えられる「赤い人力車」(詳細は初代春団治の項「エピソード」参照)の復元版に、桂三枝(現・六代桂文枝)が車引きを務める形で乗り天神橋筋商店街でパレードを行った。この企画を三枝が打診した際、「実はわしもいっぺん乗ってみたいと思とったんや」と答えたという。因みに1959年の春団治の襲名の時にも「赤い人力車」(初代春団治が使用されたとされる当時現物)を乗ってパレードを行う予定だったが保存状態が悪かったため実現には至らなかった。
  • かつて大阪なんばを本拠地としていた南海ホークスの大ファンであった。自身の草野球チームのヘアーズ(カツラとヘアをかけて命名)では、Hawksのロゴをパロディで似せた書体で、Hearsとユニフォームに書いていた。ちなみに、南海の対戦チームであった日本ハムのテレビCM(白いあらびき「ミュンヘナー」)に出演していた。
  • 上方落語界の最古参で幕内では桂米朝を「米朝くん」笑福亭松之助を「松ちゃん」と唯一言える噺家である。
  • 高座での流暢な語り口と対照的に、電話口ではとても不明瞭で聞き取りにくい声の為、電話の応対に出た前座時代の桂雀々が誰だか分からず、師匠の桂枝雀にそのまま伝えると「切ってまえ!」と本当に電話を切らせた事がある。

出典

関連項目

外部リンク