桂米朝 (3代目)

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3代目桂 米朝(かつら べいちょう、1925年大正14年)11月6日 - )は、旧関東州満州大連市生まれ、兵庫県姫路市出身の上方噺家上方落語家)。本名、中川 清(なかがわ きよし)。出囃子は『都囃子』。『三下り鞨鼓(三下りかっこ)』は、2008年10月息子桂小米朝5代目桂米團治襲名の際に桂米團治に譲る。俳号は「八十八(やそはち)[1]」。

現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われている。1996年、落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年演芸界初の文化勲章受章者となる。1979年には帝塚山学院大学非常勤講師

来歴

テンプレート:年譜のみの経歴

  • 旧制姫路中学(現在の兵庫県立姫路西高等学校)卒業後、1943年、大東文化学院(現大東文化大学)進学のため上京。在学中、作家であり落語・寄席研究家でもある正岡容(蓉)(まさおか いるる)主催の珍しい落語会を見たことを機に正岡に入門。正岡一門の一番弟子となった。正岡を通じ5代目笑福亭松鶴や、大阪の映画館主の息子であった矢倉悦夫と知り合いとなった。
  • 1944年2月の応召され、1945年に入隊も急性腎臓炎に倒れ3月に地元の病院に入院、病院で終戦を迎えた。この頃、橘ノ圓都が慰問で病院に訪れ出会うことになる。大学には復学せず、神戸市会社員となり一介の落語愛好家として落語会や素人落語の上演会を主催するなど、上方落語復興に力を入れていたが、矢倉が3代目桂米之助となったことが縁で後に師匠となる4代目桂米團治に教えを請う機会が生じた。この時に「高津の富」を教わる。
  • やがて師・正岡の「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」との言葉を受け、本格的に落語家を志すようになり、1947年9月に会社勤めをしながら米團治に入門。3代目桂米朝を名乗る。一旦勤めを辞め米團治宅の内弟子となるものの親戚から叱責を受け、姫路市内の郵便局員として1年ほど勤務した。その後、師・米團治の死に遭い、落語のみに精進する事を決意する。
  • 1958年頃には朝日放送専属となり、放送タレントとしても、1960年代以降は、『ハイ!土曜日です』、『お笑いとんち袋』(関西テレビ)や『味の招待席』、『和朗亭』(朝日放送)など多数の番組に出演して大人気を博した。一方で、落語研究家としても活動を行い、一度滅んだ噺を文献から発掘したり、落語界の古老から聴き取り調査をして多数復活させている。彼によって復活した演目としては「算段の平兵衛」「風の神送り」「矢橋船」などがある。また上方文化の交流を深める「上方風流」を1963年から結成し「上方風流」を発行(1967年まで活動)。
  • 入門当時には衰微を来たしていた上方落語の復興を願い、共に上方落語四天王と讃えられた6代目笑福亭松鶴、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)、3代目桂春団治らと東奔西走して尽力した。現在の上方落語の隆盛は米朝・松鶴らの功績であるというのが衆目の一致する処である。一言に東奔西走といっても、地方においては昭和40年代(1965年 - 1974年)であってもなお、落語に対する理解は低く、米朝が高座に上がって落語を始めても、客からは「何を一人で喋ってるんだ? 遊んでないで早く落語を始めろ!」と野次が飛んでくる有様だった。地方ではテレビの『笑点』でやっている大喜利が落語であると、その程度の認識であり、その苦労は並大抵のものではなかったのである。
  • 上方落語協会の会長に四天王としては唯一就任していない。5代目文枝の自伝『あんけら荘夜話』によれば、1988年の選挙で一旦は会長に選出されたが、当時相談役に退いていた米朝は「いまさら会長になる気持ちはない」と辞退したため、「米朝会長」は幻に終わっている。
  • 2002年の東京・歌舞伎座の口演を最後に一線を退く(2009年現在は落語会のよもやま噺やテレビ、ラジオ出演のみ)。11月3日、演芸人として史上初の文化功労者顕彰を受ける。
  • 2007年は芸能生活60周年(米團治に入門してから数えて)であり桂米朝を祝う会なども行われ、退院以来のトリで落語『将棋小噺』を披露した。

人物

テンプレート:雑多な内容の箇条書き

  • 語り口調は端正で上品。容姿も端麗で人気を博す。多くの弟子を育て、長男5代目桂米團治もその一人。特に初期の弟子には月亭可朝2代目桂枝雀2代目桂ざこばなど自身の芸風とはかけ離れた異能派が並んでおり、かつては芸に厳しく怒鳴ったり、鉄拳なども出ることがあったが、近年は大きな包容力で一門を育て上げている。持ちネタは多数あるが、代表的なところでは自ら掘り起こした「地獄八景亡者戯」や「百年目」、自作に「淀の鯉」(中川清時代)や「一文笛」がある。中川絹子夫人は元OSSK(大阪松竹少女歌劇団、のちのOSK日本歌劇団)の「駒ひかる」である。なお、次男と三男は双子である(同じ「武庫之荘」に住んでた大村崑の息子とは同級生)。
  • 「芸は最終的には催眠術である」が持論。お客さんを落語の世界へ引っ張り込むことを催眠術に例えている。
  • 滅びた噺の復活や当時の時代背景、風俗、流行などの研究のために多種多様な古書や文書を収蔵した書庫を自宅に持つ(孫弟子の桂吉弥曰く「米朝文庫」)。特に演目の登場人物が取る仕草の研究に余念が無く、酒席でのほろ酔いと酩酊の演じ分け(酒肴の口の運び方、酒の注ぎ方など)から縫い物の糸切りの位置に至るまで、日常生活上のさり気ない動作に徹底的なリアリティを追求している。
  • 長男・5代目桂米團治によると「父の中川清」は、とりわけて子煩悩でも、教育熱心でもなく、かといって目立った諍いも無く、家に居ても丹念に落語の資料に目を通している父親で父子としては至って普通の淡白な関係であった。ただわからない事を訊ねると子供相手であっても順を追って理路整然と説明するなど、父親と本業の両面が出ていた。舞台での流暢な喋りと温厚そうな雰囲気の反面、TVや新聞を見て気に障ることがあると、途端に虫の居所が悪くなり、怒声や剣幕こそ出さないものの、険しい顔で所作が乱暴になり険悪な雰囲気を撒き散らすなど、子供にとっては居心地の悪くなってしまう気難しい面も持っていた。
  • 一門の弟子たちからは「ちゃーちゃん」と呼ばれている。5代目桂米團治の著書によると、米團治が幼少の頃、「おとーちゃん」と発音しようとして、「ちゃーちゃん」と言っていたものを当時の弟子たちがまねて使ったのが由来であるという。
  • ニュースなどで北朝鮮と米国を扱ったいわゆる「米朝問題」を聞くと「自分とは無関係なのにドキっとする」という。
  • かつて身内、容、米團治が55歳で亡くなったので、自身も55歳で死ぬと断言していた。自らに課した55歳というタイムリミットに間に合わせるために、後進の育成に加え、書籍や音声資料による落語の記録に精力的に取り組んだ。

幻の桂三木助の襲名

3代目の死後空名跡となっていた「桂三木助」の襲名を松本昇三(当時、朝日放送の社員)が発案し、香川登志緒(作家)、三田純市(作家)、そして米朝本人を加えて4人で食事の席を設け、そこで松本が襲名を提案した。3代目三木助の師匠であり落語芸術協会の会長であった6代目春風亭柳橋、3代目が陶酔していた落語協会8代目桂文楽、三木助未亡人と家族、席亭、安藤鶴夫久保田万太郎、テレビ局関係者の承諾で襲名間近まで行ったが、文楽から「襲名披露は角座で行うこと」と条件があった。当時、米朝は千土地興行所属であり、千土地と松竹との関係から角座にも定期的に出演はしていたが、原則として角座は松竹芸能が芸人の配給や番組の編成を取り仕切っていた。角座で襲名披露を行うということは、移籍することが必須条件であった[6]。このため、柳橋と文楽を呼び寄せていろいろ話し合いがもたれたが、松本の朝日放送の退社などで計画は頓挫した[7]。米朝自身は著書で「文楽さんにも私にも知らされていなかったが(中略)襲名を条件に私をある興行会社の専属にしようという計画だった」「三木助の名前で誘い込もうというのである。それを知った途端に私の思いは冷めた」と述べている[8]

その後「三木助」の名は3代目の実子が4代目を襲名したが早世してしまい、現在は空名跡。4代目は襲名後米朝に稽古を付けて貰っていたことがある。因みに米朝の芸風は2代目に似ているといわれていた。

結局、米朝は改名・襲名をこれまで行っていない。

主な門弟

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受賞歴

出演作品

テレビ番組

ラジオ番組

テレビドラマ

映画

劇場アニメ

CD

  • 米朝艶笑上方落語 いろはにほへと(全2集、1988年6月25日、東芝EMI)レコードの復刻
  • 特選!!米朝落語全集(全40集、1989年12月13日 - 1993年12月22日、東芝EMI)
  • 米朝珍品集(全8集、1989年12月6日 - 1999年4月28日、東芝EMI)
  • 桂米朝 上方落語大全集(各10枚組全4期分、2006年6月28日 - 7月26日、東芝EMI)同名レコード全集全23集の復刻

DVD

  • 特選!!米朝落語全集(全30集、2002年10月17日 - 12月18日、東芝EMI)
  • 文化勲章受賞記念DVD「桂米朝 らくごの世界」(平成紅梅亭の映像を厳選、2010年11月24日、EMI MUSIC JAPAN)

その他

大阪大学石黒浩教授ロボット工学者)とスペシャル4Dクリエーターの遠藤慎也によって米朝のアンドロイドが製作された[10][11][12]

著書

  • 米朝上方落語選(立風書房、1970年)
  • 上方落語ノート(単行本、全4巻、青蛙房、1978年1月 - 1998年1月)
  • 米朝落語全集(単行本、全7巻、創元社、1980年1月 - 1982年1月)
  • 日本の名随筆 22(単行本、作品社、1984年1月)
  • 米朝ばなし―上方落語地図(文庫、講談社、1984年11月)
  • 落語と私(文庫、文藝春秋、1986年3月)
  • 一芸一談(単行本、淡交社、1991年2月)
  • 友あり駄句あり三十年―恥多き男づきあい春重ね(単行本、東京やなぎ句会編、日本経済新聞社、1999年3月)
  • 米朝・上岡が語る昭和上方漫才(単行本、上岡龍太郎との共著、朝日新聞社、2000年6月)
  • 桂米朝 私の履歴書(単行本、日本経済新聞社、2002年4月)
  • 上方落語 桂米朝コレクション(文庫、全8巻、筑摩書房、2002年9月 - 2003年7月)
  • 対談 笑いの世界(単行本、筒井康隆との共著、朝日新聞社、2003年9月9日)
  • 桂米朝集成 上方落語(単行本、全4巻、豊田善敬・戸田学編、岩波書店、2004年11月 - 2005年2月)
  • 落語と私(単行本、ポプラ社、新装改訂版、2005年11月)
  • 桂米朝座談(単行本、全2巻、豊田善敬・戸田学編、岩波書店、2005年12月 - 2006年1月)
  • 四世桂米團治 寄席随筆(編著、岩波書店、2007年11月6日)米朝自身の誕生日に発行
  • 米朝よもやま噺(単行本、朝日新聞社、2007年12月)
  • 藝、これ一生 米朝よもやま噺(単行本、朝日新聞出版、2010年2月19日)
  • 桂米朝句集(文庫 岩波書店 2011年)
  • 【米朝よもやま噺】歳々年々、藝同じからず(単行本、朝日新聞出版、2012年8月)

関連書籍

  • じごくのそうべえ - 桂米朝・上方落語・地獄八景より(童心社田島征彦作・絵、1978年1月、ISBN 4-494-01203-3)
  • 桂米朝 噺の世界(写真集、宮崎金次郎撮影、小佐田定雄著、向陽書房、2002年4月、ISBN 4-906108-46-6)
  • なにわ華がたり - 中川絹子 桂米朝と一門をささえた半世記(単行本、廓正子著、淡交社、2004年7月、ISBN 4-473-03182-9)
  • なんでも好奇心 2005年6/7月(ムック、「米朝の上方歌舞伎案内」、日本放送出版協会、2005年5月25日、ISBN 4-14-189125-8)
  • 桂米朝と上方落語の奇蹟(堀井憲一郎 講談社 2013年10月発売予定→諸事情により発売中止)[13][14]

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目・人物

外部リンク

  • 米という字を崩した名。
  • 姫路落語会:米朝さん、古里の高座 元気な姿、ファン満足−40回記念:毎日新聞2012年8月6日
  • 桂米朝さん、脳幹梗塞で入院 8月中の出演取りやめアサヒ・コム 2009年7月31日閲覧
  • 「落語一筋しかなかった」=文化勲章の桂米朝さん時事ドットコム 2009年10月27日閲覧
  • サンケイホールブリーゼ
  • 6代目松鶴も枝鶴時代までは千土地に所属していたが、松鶴襲名披露を角座で行うために、松竹芸能に移籍している。
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite book
  • 公式の記載は無いが、その昔、座の余興と話のネタに作家の小松左京と米朝が命名、高座での活動は皆無。
  • さらに人間らしく 米朝アンドロイド「初高座」 “落語電脳対決”に歓声
  • 「米朝アンドロイド」完成  大阪 発表会を開催
  • 米朝アンドロイド・姫路落語会特別公演
  • 「桂米朝本」出版中止 講談社「関係者との認識の相違」 朝日新聞 2013年10月12日
  • 『桂米朝と上方落語の奇蹟』刊行中止に関するお詫びとお知らせ 講談社ニュースリリース 2013年10月11日