東京拘置所

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東京拘置所(とうきょうこうちしょ)は、法務省東京矯正管区に属する拘置所。通称「東拘(とうこう)」、所在地である「小菅」と呼ばれることも多い。

全国に8箇所(東京・立川名古屋京都大阪神戸広島福岡)ある拘置所の一つである。松戸拘置支所を所管する。

所在地

ファイル:Tokyo detention center 1989 air.jpg
航空写真に見る東京拘置所の様子。1989年度撮影。建物は現在とは異なる。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

収容者

収容定員

  • 約3000名
刑事被告人を収容する施設では、日本最大の規模を持つ。

沿革

小菅刑務所

かつてこの地には小菅監獄(1922年、小菅刑務所と改称)があった。第二次世界大戦後の1945年10月、巣鴨豊島区西巣鴨)にあった東京拘置所の施設がGHQに接収された。このため一時期、小菅刑務所に東京拘置所が同居するような状態となっていた(東京拘置所の職員が小菅刑務所の職員を兼務)。1958年5月にすべての戦犯が釈放され、東京拘置所は巣鴨に復元された。

首都圏整備計画の一環として、東京拘置所を巣鴨の地から移転させることが必要になったため、1971年に小菅刑務所は栃木県黒羽に移転し、東京拘置所は再び小菅に移された。

  • 1879年(明治12年):小菅に内務省直轄の東京集治監を設置。(銀座煉瓦街煉瓦を焼いた煉瓦製造所を買い上げ、収容者が煉瓦製造に従事した)
  • 1900年(明治33年):内務省から司法省の所管に移る。
  • 1903年(明治36年)3月:小菅監獄と改称。(監獄官制)
  • 1922年(大正11年):小菅刑務所と改称。
  • 1923年9月:関東大震災で被害を受ける。
  • 1929年:新庁舎が落成。(蒲原重雄設計。当時の管理棟が現存)
  • 1945年:巣鴨の東京拘置所が接収を受けたため、東京拘置所が小菅に置かれる。
  • 1958年:東京拘置所が巣鴨に復元される。
  • 1971年:小菅刑務所が栃木県黒羽に移転。

東京拘置所

主に未決囚を収容する市谷刑務所が1937年に巣鴨(豊島区西巣鴨)に移転し、「東京拘置所」と改称した。1944年、ゾルゲ事件の被告リヒャルト・ゾルゲ尾崎秀実が処刑された。

巣鴨の施設はGHQの接収により巣鴨プリズンとなり、戦争犯罪人容疑者)を収容した。極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯東條英機らの処刑も巣鴨プリズン内で行われた。

東京拘置所は小菅刑務所(東京都葛飾区)の位置に置かれた。
  • 1958年5月:最後の戦犯18名が釈放され巣鴨刑務所は閉鎖、東京拘置所が巣鴨に復元された。
  • 1971年3月20日:東京拘置所を葛飾区小菅に移転。
巣鴨の旧東京拘置所は解体され、跡地はサンシャインシティとなる。

組織

所長の下に4部を持つ4部制施設である。

  • 総務部(庶務課、会計課、用度課)
  • 処遇部(処遇部門、指導部門)
  • 分類部
  • 医務部
総務部に調査官1名を置く。

構造

  • 新舎房は地上12階、地下2階、高さ50mで中央部の中央管理棟と南北に両V字形に伸びる北収容棟、南収容棟がつながる。延床面積80,239m²。南北収用棟の屋上は雑居房収容者用、独居房収容者用の各運動場になっている。
  • 独居房・雑居房には窓が設置されているが、強化ガラス製のため、ハンマーで思いっきり叩いてもガラスが割れない特殊仕様であり、から近隣住民の様子を見ることはできず、しか見えない構造となっている。
  • 新舎房での被収容者施設階への入退場は看守、施設職員のセキュリティカード認証システムと指紋認証システムが採用されており、二つが一致しないと開錠されない。
  • 中央管理棟屋上にはヘリポートが設置されている。
  • 被収容者を検察庁または裁判所へ押送する為の車両駐車場は地下1階にある。
  • 旧舎房は南舎地上3階建て、北舎地上3階建て、新北舎地上4階建て
  • 死刑を執行する施設(刑場)を地下に備えており、エレベーターで向かう。
  • 医務部については「東京拘置所医務部病院」として医療法上の病院の指定を受けている。

収監中の確定死刑囚

特記事項

  • 新舎房2階が女区
  • 旧舎房南1舎1階、南2舎3階は当所執行受刑者の舎房。南2舎2階、新北舎1階雑居は、移送待ち受刑者の舎房。南舎・北舎とも古い施設ではあるが、北舎は南舎に比べ若干新しい。
  • 死刑場設備の関係で、東京拘置所に収監された死刑囚の死刑執行は一時期、宮城刑務所所管仙台拘置支所で行われた。そのため「仙台送り」が死刑代名詞となっていた時代もある。
  • 有栖川宮詐欺事件』を起こした男女2人が、同拘置所に収監されていたが、2004年に、夫らから同拘置所内の妻に送られてきていた手紙を、同拘置所が紛失。さらに、紛失した手紙が、週刊新潮に掲載された。このため、この夫婦は、2007年4月に、「精神的苦痛を受けた」として、国を相手取り、京都地裁訴訟を起こした。この裁判は、同地裁で2009年7月9日に、国が手紙の流出を認め、妻に対し解決金150万円を支払い謝罪することで和解が成立した[2]
  • 2010年8月27日に、報道陣に死刑場が初公開された[3]
  • 一般雑居房で「ビスケット」の購入願箋を提出すると、愛知県にある松永製菓の「しるこサンド」が届けられる。関東でなぜ愛知県の菓子なのかは未だに不明。

脚注

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外部リンク

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  1. 2013年(平成25年)5月16日法務省令第6号「刑務所、少年刑務所及び拘置所組織規則の一部を改正する省令」
  2. 「有栖川宮」詐欺:拘置所から手紙流出、週刊誌掲載 国謝罪、150万円で和解 毎日新聞 2009年7月10日
  3. 死刑の刑場、報道機関に初めて公開