札幌市営バス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年6月26日 (木) 15:10時点における中竹たけし (トーク)による版 (外部リンク)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索
ファイル:Sapporo city transportation bureau HINO P-HU236BA.jpg
札幌市営バス・大型路線車
1993年導入車までの赤・クリーム塗色
ファイル:U-LV224N-Sapporo-City-Mo-I-94-3.jpg
札幌市営バス・大型路線車
CI導入後、最終期のディーゼル車の塗色

札幌市営バス(さっぽろしえいバス)とは、札幌市交通局1930年(昭和5年)から2004年(平成16年)3月31日まで運営していた公営バスである。

概要

最盛期は市内各方面に路線網を展開していたが、利用客の減少により慢性的な赤字経営が続いていたため、札幌市は「交通事業改革プラン」を策定。2001年(平成13年)に市営バス事業からの撤退を正式決定し、2003年(平成15年)・2004年(平成16年)の2回に亘って民営バス事業者へ移譲された。政令指定都市で市営バスが消滅した初めてのケースとなった。

ただし、札幌市営地下鉄との乗継割引制度はそのまま引き継がれた。また「エコキップ」(2010年11月20日限りで廃止)についても、移譲後の路線でそれまで通り利用可能となっていた。

営業所

テンプレート:節stub

沿革

車両

時期により多少の差はあるが、リアエンジンアンダーフロアエンジン化以降はトヨタを除く4社から購入している。戦後いすゞが多数派となったが、UDエンジンの商品化以降民生・日デシェアを伸ばし、年度によってはいすゞ車を超えることも多かった。初期のリアエンジン、アンダーフロアエンジン車は営業所ごとに集中配置され、北光はいすゞと民生・日デ、琴似はふそうと日野、白石は日野と民生・日デ、藻岩は長年にわたり民生・日デが主体など、偏りが見られた。日野ふそうの導入が増えるのは1970年代中頃、営業所毎の差が無くなるのはそれ以降である。

車体は、いすゞ - 川崎航空機、民生・日デ - 富士重、日野 - 帝国、ふそう - クレハと、一部の例外[5]を除いては基本的に純正のみであった。

1960年代中頃までの路線車は短尺車が多く導入されていたが、1964年(昭和39年)頃からラッシュ対策と1972年(昭和47年)2月開催の札幌オリンピックに備え、4つ折中扉・11m級の長尺車を導入[6]。メーカーは日野を除いた3社(トヨタはすでに候補に入っていない)で、以後、オリンピック直前までこのタイプのみが大量に増備される。また、1965年(昭和40年)頃からロングシートに替わる前向きシートと、燃焼式ヒーターミクニ五光製のベバスト = Webastoライセンス品)の本格導入が始まっているが、気候を考慮し、2組装備されていた。温風の風洞は室内床の右隅にあり、運転席から最後部まで通っていたが、ロングシート車はシートクッションと干渉するためホイールハウス(タイヤハウス)上を通すことができず、内側(床中央寄り)に大きく貼り出す格好で迂回させていた。オリンピック輸送が一段落すると、これらの車は前扉を増設され、ワンマンカーへと改造されている。

路線車のシート表皮は、古い順から、ライトグリーンのビニール、1963年(昭和38年)頃にグレー(石模様)のビニール、1968年(昭和43年)頃にはグリーンのモケットとかわっている。

1972年(昭和47年)の定鉄バスの経営改善策を受けて市が譲受した車両はワンマン仕様が多かったが、市営転籍後は中扉のみを使ったツーマン(車掌乗務)運行が多かった。転籍車は方向幕運賃表示器、降車灯など、接客関係の仕様の相違をはじめ、日野車の一部にはシフトパターンが異なるものもあった。

セミステンレスカー

1960年(昭和35年)前後の札幌市交通局は、後にゴムタイヤ地下鉄の生みの親となる名物局長、大刀豊(だいとうゆたか)の大刀イズムが目立つ。1958年(昭和33年)頃から導入が始まったセミステンレスボディー観光バス寝台バスは、とにかく異彩を放つ存在であった。後に「札幌スタイル」と呼ばれることとなる、同時期のスマートな市電と、世界的にも稀な路面電車型の気動車D1000形を嚆矢とするグループ)やゴムタイヤ式高速電車の試作(後の同市営地下鉄)に至るまで、同局の独自性を存分にアピールしていた時期でもあった。

セミステンレスバスは、グレイハウンドなど、アメリカの長距離バスではおなじみのものであったが、日本では、その硬く伸びにくい特性ゆえ、加工性が悪いことや、耐用年数の面でも過剰品質であることなど、否定的な見方が大勢を占めていた。しかし、塗装の補修がいらないというメリット以上に、見るものに与えるインパクトは非常に大きく、「新しさ」の表現には打って付けであった。これらはエアサスペンション、カーラジオ、メトロ窓、屋根肩のサンルーフなど、最新の装備を備えていた一方、車体外板に入ったプレスによるリブコルゲートとは外観が異なる)が目立つ以外は、普通の車体と変わらず、構造もモノコック式であり、際立つ外観とは異なり、非常に保守的である。

民生車は「しらかば」と「だけかんば」、いすゞ車は「はるにれ」と「すずかけ」、日野車は「はまなす」と「こぶし」など、北海道らしい愛称がそれぞれ付けられていた。

寝台バス

1960年(昭和35年)8月、日本のバスでは唯一となる寝台車が交通局に登場する。

札幌函館網走稚内の各都市間の距離は約300 - 330km、釧路にいたっては410kmであり、高速道路のなかった時代、移動には長い時間を要していた。高度経済成長による観光ブームの到来で、近い将来、長距離移動に適したバスが必要になると読んだ同局は、寝台バスの試験導入に至った。

車体構造は、当時、同局が導入していたデラックス観光バスと同様、モノコック構造のセミステンレスカーで、リアエンジン方式であった。北海道にちなんだ愛称を与えられていた他のセミステンレスカーにそろえ、「ゆーから」と名づけられた。

寝台は中央通路を挟み長手方向に装備され、前後の車軸間は国鉄プルマンPullman)式2等寝台同様、上下2段となっていた。上下それぞれに開閉可能な窓を持ち、冷涼な土地柄から冷房装置はない。また、トイレもなく、ドライブインの利用を想定していた。

一般の車両に比べ重心高がやや高く、横転事故を起こしたことから、法規上も本格的な寝台を持つバスは認められなくなり、計画自体が中止に追い込まれた。ふそうシャーシ空気ばね重ね板ばね共に、他社に比べロールスピードが速い傾向にあったことも事実であるが、この時代のエアサスペンションは車高調整機能は持つものの、現在のような高度な姿勢制御は不可能であり、柔らかさ重視の設定のため、リーフ式サスペンション以下の耐ロール剛性であったことも一因である。

当時、同局ではトヨタを除く大手4社(民生デイゼルいすゞ日野、ふそう)の車両を導入していたが、この寝台バスはふそう製のみであり、一方、一般的なロマンスシートのセミステンレスカーにはふそう製のみがなかった。

現在の例では、広大な国土を持つ中国で、多くの寝台バスが運行されている。

塗色

テンプレート:Vertical images list 車体色は、戦後橙色群青色に白帯を配した塗色([1])となり、その後、リアエンジン車の導入を機に右上の写真のようなクリームとなり、従来車も塗り替えられた。塗分けは、クリームの地色に、胴回りが赤のV字形金太郎塗りで、そのほか前頭部に赤、下と屋根肩に赤の細線が加わる。金太郎パターンは4面共にあるが、前面と乗降扉側(左側面)の切り欠きに市章が入る。1950年代にはコーチビルダーの都合で、地色のクリームが民生・富士重車が黄褐色、いすゞ・川崎車が白と、不ぞろいな時期もある。1963年(昭和38年)頃の導入車から塗色が揃えられた。

交通局では雇用の確保を重視し、当初ワンマンカーの導入には消極的であった。そのため、車掌改札を行う中扉車ばかりのなかにあって、「前のり・先払い」方式のワンマンカーの乗車誘導を行う必要から、胴回りの赤の縁に識別用の細い白帯が入れられている。後年のワンマンカーは整理券を導入した「中乗り・後払い」方式となり、この識別帯も無い。

1965年(昭和40年)に西野、平和、福井方面行をカバーする「西野第二線」、翌年には旧小別沢トンネルを越えて啓明ターミナルとの間を結ぶ「円山西町線」が開設されるが、いずれも山間部の閑散かつ狭隘路線であったことから、テストケースとしてマイクロバス三菱ふそう・ローザ)が導入された。これらは大型車と同様のクリームと赤の塗装とされ、ワンマンカーではあったが、乗降口が1箇所しか無いことと、マイクロバス専用路線のみの運用であったことから、ワンマン識別用の白帯は入れられていない。現在、交通資料館に、ハイルーフとなった増備車が当時の姿で保存されている。

観光車も路線車と同様の塗色であるが、中扉の路線兼用車のみは、胴回りの赤部分に小田急バスのようにクリーム色の細帯が3本入るほか、セミステンレスカーは前頭部と屋根肩の細帯のみに色が入るが、色は赤ではなく朱色となっている。

定鉄からの移籍車は経年車ばかりであったため、全塗装は行われず、定鉄時代の塗色(白地に胴回りスカーレット3本帯など)を生かし て塗り重ねられており、市営オリジナル車とは色調やパターンが異なる。

1975年(昭和50年)4月に登場した「環100」都心循環線用車両では、地下鉄連絡のアピールのため一転して市営地下鉄に倣った系の塗色を採用し、ミニバス日野・レインボー)は地下鉄6000形に準じたクリームの地に、ライトグリーンの斜めゼブラ塗り、中型バス(日デ・日野)は後の地下鉄3000形を先取りしたようなグリーンのツートーンとなっている。

1990年代中頃から、札幌市交通局のCI活動として市電とともに、車体裾のみ白、他はエメラルドグリーンの「STカラー」に再度変更されている。

地下鉄南北線自衛隊前駅に併設される市の交通資料館には、市電に加え、大型一般車3色のほか、初期のマイクロバスなどが保存・展示されている。以前展示されていたセミステンレス観光車の「すずかけ」は、市営バス廃止に伴う 展示車の追加により撤去された。

車番

「所属営業所 + シャシメーカー + シャシメーカーごとの通し番号」の構成となっている。1950年代末にはナンバープレートの下二桁を車番とした例もある。
1980年(昭和55年)度の導入車から、「所属営業所 + 西暦の下二桁 + シャシメーカーごとの通し番号」へ変更された。これに伴う従来車の改番はない。

旧表記

- 238
所属営業所 メーカー テンプレート:- 通番

※この車の登録番号は「札22 あ 12-30」

1980年度以降

88 - 4
所属営業所 メーカー 導入年度 テンプレート:- 通番

上記の法則により、「白ふ88-4」は、1988年度に導入された4号車で白石自動車営業所に所属する三菱ふそう車ということになる。

また、中型バスはメーカー名の項目を「M」、ファクトリー線専用車両を「F」とする規定が加わった。

なお、異動により所属営業所が変更される場合は、所属営業所の上に異動先営業所名を記したシールが貼られていた。その他の項目は変わらない。

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:-

  1. “札幌市議会きょうから定例会 「中央バス支援」焦点に 先行2社「不公平」と指摘”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2004年2月25日)
  2. “ほっかいどう企業ファイル 299 ジェイ・アール北海道バス 高齢者に優しい車両へ”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2003年6月12日)
  3. “市民とバス 旧市営路線が経営圧迫 継承した民間3社 「もう限界」と悲鳴”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2008年9月13日)
  4. “札幌市営バスから民営化 28路線が運行開始”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2003年4月2日)
  5. 1986年(昭和61年)に藻岩営業所に導入されたふそうMPの一部に富士重5Eボディーが存在した。藻岩営業所では以前より富士重ボディーの民生・日デ車が主力であった。
  6. オリンピックの開催決定は1966年(昭和41年)4月。同市交通局は1963年(昭和36年)から市電においても、親子電車連接、連結車など収容能力の大きい車両を導入し、かつ停留所での停車時間を時間を短縮するパッセンジャーフロー方式の運賃収受を考案している。