日野車体工業

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日野車体工業(ひのしゃたいこうぎょう、Hino Body Co.LTD)は、1975年から2004年9月まで存在した日野自動車100%出資のバストラック荷台・トレーラー車体製造会社。2002年10月「トラック架装事業」を株式会社トランテックスへ社名変更。そして(新)日野車体工業へ分割した「バス製造事業」は、2004年10月ジェイ・バスが(新)日野車体工業といすゞバス製造の2社の存続会社となり、三社合併した。

なおここでは日野車体工業になる前の1975年以前についても述べる。

日野車体工業以前

帝国自工

  • 1908年:東京・麻布で馬車や馬具の製作をしていた父の跡を継いだ脇田兼太郎が、黎明期の自動車産業の将来性に着目し脇田商會を興し、馬車構造の車体製作を開始。
  • 1914年:技術上の問題を解決するため脇田が渡米する。車体工業の実情を視察して帰国。
  • 1916年:東京・芝浦に工場を借り上げ、合資會社脇田自動車工業所を発足。翌年、脇田が病没したが経営は継承される。
  • 1925年:この頃東京石川島自動車製ウーズレーCGの東京市交通局向けバスの架装を担当する。
  • 1930年:脇田自動車工業株式會社と商号を変更する。
  • 1935年:この頃ふそうBD46デッキ&ハーフやスミダBTトレーラーバスの鉄道省向け架装を行う。
  • 1937年帝国自動車工業に改称。
  • 1939年:本社製造拠点を横浜市鶴見区尻手に移し、陸軍省の軍用自動車認定工場となり、大半の軍用トラックの車体架装をする。また、鉄道省省営バスや東京市営バスの架装も行う。
  • 1943年:いすゞ大型B乗用車(PA10型)のボディを手がける。帝国自工初の乗用車となる。
  • 1945年:終戦後、米軍ジープの改造を経てバスボデー架装が始める。
  • 1952年:この年初めて日野ジーゼル製BH11シャーシ架装を始める。(因みに日野トレーラーバスT11型の架装は新日国工業が担当していた)
  • 1953年日野ブルーリボンBD系センターアンダーフロアエンジンバス登場。標準車体は金沢産業新日国工業と決まるが、初期キャラバン車は富士重工業と帝国自工が担当。国内のバスボデー市場には航空機転換組の参入が顕著で、帝国自工は他の活路を求めオート3輪の開発も始めるが発売には至らなかった。因みに帝国自工はプリンス自動車の乗用車や商業車のボデー製造も手がけていた。
  • 1954年:いすゞBX91V/95V 帝国初のフレームレスモノコックリヤエンジンバス。以降BA-Bと続き、1959年まで主にいすゞ国鉄仕様を手がける。
  • 1955年:経営危機に陥っていた帝国自工に対し、日野自動車は役員派遣を行う。以後BD系ブルーリボンのボディ架装を始め、トラックやコンマース等の日野車比率が高まる。

日野車体工業発足後もモノコックボディが製造中止になる1983年まで国鉄向けにいすゞシャーシへの架装を続けた(架装はいすゞ・C系まで)。

金産自工

  • 1942年:金沢市北安江に中島飛行機の部品下請け工場として金澤航空工業株式會社設立。軍用機の尾翼などを生産した。
  • 1945年:終戦後、金澤産業株式會社に商号変更。鍋・釜、弁当箱に箪笥や下駄の金具など売れそうな金属部品なら何でも手がける。
  • 1946年:自動車車体製造を開始。旧中島飛行機に協力を仰ぎ、飛行機用残材ジュラルミンとリベットを用いたモノコックボデーをトヨタ戦時型(木炭)KCシャーシに架装したバスが1号車。以降日産180いすゞTXにジュラルミンバスボデーを架装した。
  • 1948年:腐食等補修難のジュラルミン在庫の底つきを期にバスボデーメーカーの老舗「日本自動車(株)」と提携、鋼板溶接構造にあらためる。
  • 1950年B26トレーラーバスが日野架装初号車となる。あまりの巨体で完成車の工場外搬出に苦労する。翌年大阪のバスボデーメーカーの老舗「朝日車両工業(株)」と提携、特別仕様車製造技術を得る。
  • 1952年ブルーリボンBD10系センターアンダーフロアエンジンバスボデー架装を期に日野と技術提携。日野車率25%、翌1953年48%、翌々1954年は80%となり輸出車も手掛ける。この頃の他シャーシはいすゞBX民生BE日産390トヨタFY三菱B2*等のボンネットバスが主流。
  • 1957年:構造体の技術的向学心をもった設計者が、技術提携を繰り返しても得られない答えを求め、1年間休職し大学で研究を開始する。ひずみゲージを用いた実験をまとめあげ、結果を日本機会学会に発表した。それまでの理論値が実測値となって裏付けられ貴重なDATAとなる。復職後新型モデルのエアサスやフレームレス車、リヤエンジンモノコックボデーへフェードバックしていき、この流れは後のトラックリヤボデーの事業拡大やバスのスケルトン化へと繋がってゆく。
  • 1963年:RA100PRA120P他日野車99率%となり最盛期を迎える。因みに残りの1%とは日産ディーゼル(当時、現「UDトラックス」)JUR、いすゞBB三菱AR470等を複数台発注ユーザー(地元の北陸鉄道東京急行電鉄向け)に架装)
  • 1965年金産自動車工業株式会社(金産は「きんさん」と読む)に商号変更し、工場を松任市に移転、キンサンコーチ(KINSAN COACH)の名で親しまれる。更にアルミを主体としたトラックのリヤボデーやトレーラー、国際海上コンテナ(当時は第2の黒船と騒がれた)等を手がけるようになる。
    • この頃自家用車普及や鉄道スピードアップ等によるバス利用者の移行が顕著となり、大型バスの需要が減り出し小型バスの需要が増えていく。結果、金産・帝国両社の間で日野車の販売競争を招き1969年から日野仲介による両社業務提携、共通の設計でバスを製造するようになった。
  • 1971年:帝国自工と全面的業務提携に調印。以降99.9%日野車となり、ボディ部品共通化や共通設計化が更に徹底される。しかし実質的効果が上がらなかった。
    • この頃主力商品であった国際海上コンテナが、高度経済成長末期の円の切り上げにより国際競争力を失い極度の経営悪化を招く。金産は帝国との合併へと向かう。

日野車体工業

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日野スケルトンRS 国産初の大型スケルトンボデーバス
ファイル:Iwatekenpokubus-2191.JPG
日野グランビューダブルデッカー シャーシフレームまで角型鋼管構造に挑戦
  • 1975年:帝国自動車工業、金産自動車工業が合併し日野車体工業株式会社に商号変更。
    • 合併後は旧帝国自動車の横浜工場は大型バス製造を担当、旧金産自工の金沢工場はトラックリヤボディーと中小型バスの製造を担当した。
  • 1977年:リベットモノコックボデーを旧態化[1]させた角型鋼管溶接構造の日野スケルトンRS登場。モノコックRV/RC併売を経て1984年頃には全ての中/大型バスがスケルトン構造になる。
  • 1983年:2階建バス日野グランビューRY638登場。この技術は後のRUブルーリボンSHDグラン3兄弟~初代セレガへフィードバックされる。
  • 2000年:株式交換により日野自動車100%子会社化
  • 2002年:新小松工場が完成。日野車体工業を「バス製造事業」と「トラック架装事業」(同年10月1日株式会社トランテックスに商号変更)に分割する為、金沢の中小型バス、横浜の大型バスの各バス製造工場を小松工場に集約する。同年日野自動車といすゞ自動車のバス部門の経営統合に伴う合併準備会社としてジェイ・バスが設立される(翌2003年から親会社となる)。
  • 2003年:バス部門を(新)日野車体工業に分社し金沢・松任工場と横浜・尻手工場は、トラック架装事業に特化することになる。1939年から続いた横浜工場は更地に帰す事となる。
  • 2004年ジェイ・バスが日野車体工業といすゞバス製造の2社を合併。
    • 日野自動車のCI変更後(Hino→HINO)も日野車体のロゴはJ-BUS統合まで日野の旧CIを使用していた。(Hino Body=筆記体、H,Bのみ大文字,日野新CIは全部大文字)
    • トラックリヤボディーやアルミバンはバスとは異なり、日野製シャーシ以外にも架装していた(日野車体以外に、三井鉱山との合弁で、筑豊・北海道の炭鉱離職者の再雇用を目的に設立された「サンボデー」のブランドも存在した。現在、九州の工場はトランテックスの全額出資に移行し、北海道の工場は閉鎖された)。トランテックスとなった現在も、より積極的に日野シャシー以外に架装している。

補足

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関連項目

参考文献

  • バスラマ
  • バスラマエクスプレス07 金沢ボデーのアルバム ISBN4-89980-003-7
  • モータービーグル

外部リンク

  1. 脇田製馬車の構造は木骨に鉄板やアルミを貼っているのでスケルトンではある。