平塚らいてう

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テンプレート:Infobox 作家 平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、本名:奥村 明(おくむら はる)、1886年明治19年)2月10日 - 1971年昭和46年)5月24日)は、日本思想家評論家作家フェミニスト戦前戦後に亘(わた)る女性解放運動家。戦後は主に反戦平和運動に参加した。

平塚は、特に、大正から昭和にかけ、婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られる。結局、その実現は、第二次世界大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たざるを得なかった[1]。しかし、1911年明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌「青鞜」発刊を祝い、自らが寄せた文章の表題『元始、女性は太陽であった』は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった[2]

なお、氏名表記は、漢字で「平塚雷鳥」と書く場合もあり、さらに「平塚明子(らいてう)」の表記で評論の俎上に上がることもある[3]。また、1908年明治41年)3月、平塚22歳の時、塩原で、森田草平心中未遂事件(塩原事件)を起こし、自らの名が広く知られると[4]、本名奥村明の「明」を用い「平塚 明(はる)」の名で活動するなど、時期によっても平塚の氏名表記は異なる。

生涯

出自

1886年(明治19年)2月10日東京府東京市麹町区土手三番町(現在の東京都千代田区五番町)に3人姉妹の末娘として生まれる。本名は平塚明(ひらつかはる)。生まれつき声帯が弱く、声の出にくい体質だった。平塚定二郎は明治政府の高級官吏(会計検査院に勤務)、のちに一高の講師も務めた。・光沢(つや)の両親は徳川御三卿のひとつ田安家奥医師の飯島家の夫婦養子となった。

関ヶ原の戦い(1600年)で戦死した西軍の武将平塚為広(美濃垂井1万2000石)の末裔。[5]為広が討ち取られたとされる場所には、彼女の意向で建立された慰霊碑が現存する。

平塚明

幼少時は、1887年(明治20年)から1年半欧米を視察巡遊した父の影響で、ハイカラで自由な環境で育った。しかし、1892年(明治25年)に富士見尋常高等小学校(現在の千代田区立富士見小学校)に入学してまもなく、父は従来の欧米的な家風を一夜にして捨て去り、国粋主義的な家庭教育を施すようになった[6]

1894年(明治27年)、平塚家は本郷区駒込曙町(現在の文京区本駒込一丁目、二丁目辺り)に引越し、明は本郷区公立誠之尋常小学校(現在の文京区立誠之小学校)に転入。1898年(明治31年)に誠之小学校高等科を卒業し、父の意思で当時国粋主義教育のモデル校だった東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校お茶の水女子大学附属高等学校)に入学させられ、「苦痛」の5年間を過ごす。ただし、テニス部で活躍したり、修身の授業をサボる「海賊組」を組織するなどそれなりに楽しんでいたらしい。

1903年(明治36年)に「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に憧れて日本女子大学校家政学部に「女子には女学校以上の学問は必要ない」という父を説得して入学。しかし、翌年に日露戦争が勃発すると、徐々に国家主義的教育の度合いが強くなり、その中にお茶の水時代と同じ思想を見出すと大学生活にひどく幻滅した。この頃から、自分の葛藤の理由を求めるために宗教書や哲学書などの読書に没頭する。1905年(明治38年)にはの存在を知り、日暮里にある禅の道場「両忘庵」(現在の擇木道場)に通い始めるようになった。の公案修行で見性を許され、悟りを開いた証明として慧薫(えくん)禅子という道号を授かっている。1906年(明治39年)に日本女子大学校を卒業。両忘庵で禅の修行をしながら、二松学舎、女子英学塾(現在の津田塾大学)で漢文や英語を学び、1907年(明治40年)にはさらに成美女子英語学校に通うようになった。

成美女子英語学校でテキストとして使われたゲーテの『若きウェルテルの悩み』で初めて文学に触れ、文学に目覚める。東京帝大出の新任教師生田長江に師事し、生田と森田草平が主催する課外文学講座「閨秀文学会」に参加するようになった。生田の勧めで処女小説「愛の末日」を書き上げ、それを読んだ森田が才能を高く評価する手紙を明に送ったことがきっかけで、二人は恋仲になった。

1908年(明治41年)2月1日に初めてのデートをするが、同年3月21日に塩原から日光に抜ける尾頭峠付近の山中で救助されるという塩原事件あるいは煤煙事件と呼ばれる事件を起こす[7]。新聞はある事ない事を面白く書き立て、明の顔写真まで掲載した。明は一夜にしてスキャンダラスな存在となり、日本女子大学校に至っては桜楓会の名簿から明の名を抹消している。その後、1992年(平成4年)に復活する(『日本女子大学学園事典』)。

らいてうの誕生

明は、塩原事件を機に、性差別や男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放に興味を持つようになっていた。この頃、生田長江の強いすすめで、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜[8]の製作に入った。資金は母からの援助で「いつか来るであろう娘明の結婚資金」を切り崩したもの。その資金を元に青鞜社を立ち上げ、企画は明の同窓生や同年代の女性に拠り、明は主にプロデュースに回った。

表紙は長沼智恵[9]が描き、与謝野晶子が「山の動く日来る」の一節で有名な「そぞろごと」という詩を寄せた。明は『元始女性は太陽であつた - 青鞜発刊に際して』という創刊の辞を書くことになり、その原稿を書き上げた際に、初めて「らいてう[10]という筆名を用いた。

『青鞜』創刊号は、1911年(明治44年)9月に創刊され、男女で両極端な反響を巻き起こした。女性の読者からは手紙が殺到し、時には平塚家に訪ねてくる読者もいたほどだったが、その一方、男性の読者あるいは新聞は冷たい視線で、青鞜社を揶揄する記事を書き、時には平塚家に石が投げ込まれるほどだった。なお同年9月、金子筑水が日本ではじめてエレン・ケイを紹介しており(「現実教」『太陽』)、そのケイに関心を持ったらいてうが訪ねてきた河井酔茗に話したところ、酔茗から「今森鴎外さんの処でも其話が出た」と言われたという。らいてうは「そののち、ケイの思想が、わたくしの、ものの考え方や生活の上にも変化をもたらした。」と、51年後に鴎外の回想文で書いた(「鴎外夫妻と青鞜」『文芸』1962年8月)[11]

新しい女

『青鞜』創刊の翌1912年(明治45年)5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に与謝野晶子のパリ行きを取り上げた。翌6日には、晶子の出発の様子を「ソコへ足早に駆け付けたのは青鞜同人の平塚明子で(中略)列車の中へ入って叮嚀に挨拶を交換して居る。」などと報じた(総勢500余名が見送った)。翌6月の『中央公論』(与謝野晶子特集号)では、鴎外によって「樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。(中略)序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。(下略)[12]とまで評された[13]

もっとも、青鞜社に集まる女性が「五色の酒事件」や「吉原登楼事件」[14]などの事件を起こすと、平塚家には投石が相次いだ。しかし、らいてうはそれをさほど意に介せず、「ビールを一番沢山呑むだのは矢張らいてうだった」と編集後記に書いて社会を挑発するだけの余裕があった。そのうちに「新しい女」というレッテルを貼られるようになった。すると、らいてうは『中央公論』の1913年大正2年)1月号に「私は新しい女である」という文章を掲載すると同時に婦人論を系統立てて勉強し始め、同年の『青鞜』の全ての号には、付録として婦人問題の特集が組み込むようになった。しかし、『青鞜』の1913年2月号の付録で福田英子が「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁に処せられると、らいてうは父の怒りを買い、家を出て独立する準備を始めることになった。

青鞜社は『青鞜』の他にも1912年(大正元年)末に岡本かの子の詩集『かろきねたみ』を皮切りに、翌1913年3月に『青鞜小説集』などを出版している。同年5月にらいてうの処女評論集『円窓より』も出ているが、出版直後に「家族制度を破壊し、風俗を壊乱するもの」として発禁に処せられている。

また、時期を並行して、1912年夏に茅ヶ崎で5歳年下の画家志望の青年奥村博史と出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動ののちに事実婚夫婦別姓)を始めている。らいてうはその顛末を『青鞜』の編集後記上で読者に報告し、同棲を始めた直後の1914年(大正3年)2月号では『独立するに就いて両親に』という私信を『青鞜』誌上で発表している。独立後、奥村との家庭生活[15]と『青鞜』での活動の両立が困難になり始めると、1915年(大正4年)1月号から伊藤野枝に『青鞜』の編集権を譲った。『青鞜』は従来の文芸雑誌+αとは別の、強いて言えば「無政府主義者の論争誌」として活気付いたが、その1年後には「日蔭茶屋事件」があり、休刊することになった。

奥村との間には2児(長男、長女)をもうけたが、らいてうは従来の結婚制度や「家」制度をよしとせず、平塚家から分家して戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れている[16][17]

母性保護論争

『青鞜』の編集権譲渡後は奥村の看病や子育てなどに追われていたが、1918年(大正7年)、婦人公論3月号で与謝野晶子が『女子の徹底した独立』(国家に母性の保護を要求するのは依頼主義にすぎない)という論文を発表すると、これに噛み付き、同誌5月号で『母性保護の主張は依頼主義か』(恋愛の自由と母性の確立があってこそ女性の自由と独立が意味を持つ)という反論を発表した。すると、山川菊栄がこの論争に加わり、同誌9月号で『与謝野、平塚2氏の論争』(真の母性保護は社会主義国でのみ可能)という論文を発表。その後、山田わかなどが論争に加わると一躍社会的な現象になった。(母性保護論争

この論争の中、1919年(大正8年)の同誌1月号で、らいてうは『現代家庭婦人の悩み』(家庭婦人にも労働の対価が払われてしかるべき、その権利はあるはず)を発表している。同年夏には愛知県の繊維工場を視察し、その際に女性労働者の現状に衝撃を受け、その帰途に新婦人協会設立の構想を固めている。

新婦人協会

新婦人協会は、1919年(大正8年)11月24日に、市川房枝奥むめおらの協力のもと、らいてうにより協会設立が発表され、「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として設立された[18]。協会の機関紙「女性同盟」では再びらいてうが創刊の辞を執筆。新婦人協会は「衆議院議員選挙法の改正」、「治安警察法第5条の修正」、「花柳病患者に対する結婚制限並に離婚請求」の請願書を提出。特に治安警察法第五条改正運動(女性の集会・結社の権利獲得)に力を入れた。

しかし、1921年(大正10年)に過労に加え、市川房枝との対立もあり協会運営から退く。また、伊藤野枝堺真柄山川菊栄などの社会主義者は赤瀾会を結成し、『新婦人協会と赤瀾会』(『太陽』大正10年7月号)を皮切りに新婦人協会およびらいてうを攻撃する。らいてうが去り、市川も渡米した後、新婦人協会は坂本真琴奥むめおらを中心に積極的な運動を継続し、1922年(大正11年)に治安警察法第5条2項の改正に成功。しかし、その後の活動は停滞し、翌1923年(大正12年)末に解散。らいてうは文筆生活に入った。

消費組合

テンプレート:節stub 世界恐慌時代になると消費組合運動等にも尽力、高群逸枝らの無政府系の雑誌『婦人戦線』へ参加。

戦後

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第二次世界大戦後は、日本共産党同伴者として活動し[19]、婦人運動と共に反戦・平和運動を推進した。1950年(昭和26年)6月、来日した米国のダレス特使へ、全面講和を求めた「日本女性の平和への要望書」を連名で提出。翌年12月には対日平和条約及び日米安全保障条約に反対して「再軍備反対婦人委員会」を結成。1953年(昭和28年)4月には日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任。同年12月、国際民主婦人連盟副会長就任。1955年(昭和30年)、世界平和アピール七人委員会の結成に参加、同会の委員となる。1960年(昭和35年)、連名で「完全軍縮支持、安保条約廃棄を訴える声明」発表。1962年(昭和37年)には、野上弥生子いわさきちひろ岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成した。1970年(昭和45年)6月にも市川房枝らと共に安保廃棄のアピールを発表する。またベトナム戦争が勃発すると反戦運動を展開。1966年(昭和41年)「ベトナム話し合いの会」を結成、1970年(昭和45年)7月には「ベトナム母と子保健センター」を設立する。「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言する孤高の行動家として、終生婦人運動および反戦・平和運動に献身した。

最晩年

自伝の作に取り掛かるが、1970年(昭和45年)に胆嚢・胆道癌を患い、東京都千駄ヶ谷の代々木病院に入院。入院後も口述筆記で執筆を続けていたが、1971年(昭和46年)5月24日に85歳で死去。

エピソード

若い「つばめ」の由来

「相手の女性よりも年下の恋人」をつばめと呼ぶのは、奥村がらいてうと別れることを決意した際の手紙の一節、

「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」

を、らいてうが『青鞜』上で発表し、一種の流行語になったことに由来する。

孫娘・炎美可

らいてうの孫娘、炎 美可(ほのお みか。本名、築添美可)が、ヌードダンサーとして活動していた時期がある。

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著書

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  • 1913年 『円窓より』平塚らいてう著、東雲堂(発禁)→ 1985年複製、不二出版『叢書『青鞜』の女たち』
  • 1913年 『〔トザシ〕ある窓にて』平塚らいてう著、東雲堂
  • 1914年 『現代と婦人の生活』平塚らいてう著、日月社
  • 1917年 『現代の男女へ:らいてう第三文集』平塚らいてう著、南北社
  • 1917年 『母性の復興』エレン・ケイ著、らいてう訳、新潮社
  • 1919年 『婦人と子供の権利』平塚明著、天佑社
  • 1926年 『女性の言葉』平塚らいてう著、教文社
  • 1933年 『雲・草・人』平塚明著、小山書店
  • 1937年 『子供の研究と教育叢書』第7、平塚明子著、刀江書院
  • 1948年 『母子随筆』平塚らいてう著、桃李書院
  • 1951年 『われら母なれば:平和を祈る母たちの手記』平塚らいてう、櫛田ふき共監修、青銅社
  • 1955年 『わたくしの歩いた道』平塚らいてう著、新評論社
  • 1971年 『元始、女性は太陽であった:平塚らいてう自伝』上・下、平塚雷鳥著、大月書店
  • 1972年 『元始、女性は太陽であった:平塚らいてう自伝』続、平塚雷鳥著、大月書店
  • 1973年 『元始、女性は太陽であった:平塚らいてう自伝』完、平塚雷鳥著、大月書店
  • 1977年 『むしろ女人の性を礼拝せよ:平塚らいてう新性道徳論集』平塚らいてう著、人文書院
  • 1983年6月 - 1984年6月 『平塚らいてう著作集1〜7』、平塚らいてう著作集編集委員会編、大月書店
  • 1983年11月 『平塚らいてう著作集 補』、平塚らいてう著作集編集委員会編、大月書店
  • 1987年5月 『平塚らいてう評論集』小林登美枝、米田佐代子編、(『岩波文庫』)、岩波書店
  • 1992年3月 『元始、女性は太陽であった:平塚らいてう自伝』1、2、3、4、平塚らいてう著、(『国民文庫』)、大月書店
  • 1994年10月 『作家の自伝、8』平塚らいてう著、岩見照代編解説、(『シリーズ・人間図書館』)、日本図書センター
  • 1995年10月 平塚らいてう『婦人と子供の権利』 久山社
  • 1996年1月 平塚らいてう『現代の男女へ』 大空社
  • 2005年5月 平塚らいてうほか『金いろの自画像』 大月書店

論文

関連する作品

関連人物

脚注

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参考文献

  • 1977年 小林登美枝『平塚らいてう:愛と反逆の青春』大月書店
  • 1983年 小林登美枝『平塚らいてう』(『Century books』『人と思想』71)、清水書院
  • 1987年 井手文子『平塚らいてう:近代と神秘』(『新潮選書』)、新潮社
  • 1988年 堀場清子『青鞜の時代 平塚らいてうと新しい女たち』(『岩波新書』)、岩波書店
  • 金子幸代『鴎外と〈女性〉』大東出版社、1992年。
  • 1994年 小林登美枝『陽のかがやき:平塚らいてう・その戦後』新日本出版社
  • 1994年 佐々木英昭『「新しい女」の到来:平塚らいてうと漱石』名古屋大学出版会
  • 1997年 中嶌邦・岩淵宏子・小林登美枝・青木生子『無限生成:らいてう・博史』「シリーズ・日本女子大学の卒業生(2)、平塚らいてうとその学友」展によせて、日本女子大学成瀬記念館
  • 2002年 米田佐代子『平塚らいてう:近代日本のデモクラシーとジェンダー』吉川弘文館
  • 2006年 折井美耶子・女性の歴史研究会(編)『新婦人協会の研究』ドメス出版
  • 日本女子大学平塚らいてう研究会『らいてうを学ぶなかで』1,2 私学版
  • 2008年 出版予定 「あたらしい女」研究会企画『「青鞜」と世界の「新しい女たち」』出版社未定

関連項目

外部リンク

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  1. 「いま敗戦の苦汁とともに、わたくしたち女性の掌上に、参政権が突如として向こうから落ちてきた。まったく他力的に。連合国軍の占領政策の遂行、なんという運命の皮肉だろう。久しく求めてえられなかったものがあたえられたよろこびを、すなおに、朗らかによろこびきれないものが胸にいっぱいつかえていた。」
    岩波文庫 「平塚らいてう評論集」 P262より。(同評論集P259-P276 わたくしの夢は実現したか 『女性改造』1948年10月号)
  2. [1]
  3. 「平塚明子(らいてう)」 長谷川時雨[2]
  4. 「自然主義の高潮 紳士淑女の情死未遂 情夫は文学士、小説家 情婦は女子大学卒業生」と、当時、新聞各紙がスキャンダラスに報道した。[3]
  5. ただし、婿養子を挟んでいるので為広との血縁はない。
  6. 父の方針転換は鹿鳴館時代終焉の時期と符合する。
  7. 後日、森田草平はこの事件を元に小説「煤煙」を書いたため「煤煙事件」の名がある。
  8. 『青鞜』は18世紀イギリスの女性サロンブルー・ストッキングen:Blue Stockings Society (England)にちなんだ名前である。
  9. 日本女子大学校時代に明とテニス部で一緒で、ダブルスを組んでいた。
  10. 雷鳥は高山に棲む鳥で「孤独の鳥」「冬山の鳥」とも呼ばれていた。塩原事件の事を意識して付けた筆名だと言われている。
  11. ただし、らいてうは、鴎外「先生について思い出すことはエレン・ケイの紹介です。(先生はおそらくケイを日本に紹介された最初の方でしょう)それは、ほんの短いケイとその著書の紹介でしたけれど、これがわたしのケイに親しむ最初のきっかけとなり、(下略)」と書いていた。ちなみに1912年(大正元年)12月、石坂養平がケイを紹介する「自由離婚説」を『帝国文学』に発表すると、早速ケイの著作『恋愛と結婚』を購入し、ケイに傾倒して行った。金子(1992)、316頁。
  12. 下略した文章は「詩の領分の作品は無いらしいが、らいてうの名で青鞜に書いてゐる批評を見るに、男の批評家にはあの位明快な筆で哲学上の事を書く人が一人も無い。立脚点の奈何は別として、書いてゐる事は八面玲瓏である。男の批評家は哲学上の問題となると、誰も誰も猫に小判だ。」
  13. らいてうは、鴎外の回想をいくつか書き残した。「たとえば、「青鞜」―ブリュウ・ストッキングという名は非常によかったと褒めていられたということが、まず誰からか伝えられたのでした。後日、「青鞜」は鴎外のつけた名だなどもっぱら伝えられたのは、あるいはこれが転化したものかもしれません。奥様の森しげ女さんが「青鞜」の賛助員でしたから、雑誌が毎号お手許に届いているからでもありましょうけれど、(中略)とにかく「青鞜」とともに先生に見守られているのだというような気持ちをある期間もっていたものでした。そしてこれらのことは漱石の婦人に対する態度、その無関心さと、無理解さと比べて何という違い方でしょう。」(「鴎外先生について」『文学散歩』1962年10月。8月26日執筆と明記)。なお後述のとおり、「新婦人協会」の設立に関しても、鴎外に言及した。
  14. 前者は、尾竹紅吉があるバーに「青鞜」への広告出稿を依頼したところ、そのバーで五色のカクテルを供された事件。後者は、らいてう、尾竹紅吉、中野初子の3人が、紅吉の叔父に連れられて吉原の遊郭で花魁見物をした事件。
  15. 奥村は病弱で、その直後に結核を発症している。
  16. 1941年。(昭和16年)に長男の兵役を前にして軍隊内で私生児として不利益を被らないようにという考えから奥村家の籍に入っている。
  17. 当時の制度では、父が認知して父の戸籍に入れれば「嫡出子」に次ぐ「庶子」として認められたが、母の戸籍に入れた場合はそれも認められなかった。
  18. 1962年、らいてうは森鴎外の回想文で次のように書いた。「「新婦人協会」という婦人の組織つくりをはじめたとき、「青鞜」の場合と違い、こんどは男の方々にも賛助員をお願いすることにしましたが、そのときもちろん鴎外先生をその中に加えるのを忘れませんでした。で、協会の趣意書、綱領、規約の草案と先生宛のわたくしの手紙をもって、市川房枝さんに先生の団子坂の御宅に行ってもらいました。(中略)当時の市川さんはまだ無名の若い婦人でしたが、すぐお会い下さって、賛助員になることを承諾され、はげましの言葉を下さった上に、ご自分で硯を持ってきて、朱墨をすり、趣意書から規約まで詳細にお目を通して、それにこまかく朱筆を加えて下さるのでした。これには市川さんも少し驚きもし、また大いに勇気づけられもしたようでした。なぜなら、同じことで市川さんが訪問した有名婦人の中には賛成はおろか、らいてうは不道徳な女で、社会的信用がゼロだから、そんな女が計画しても成功する筈がない。あなたもおやめなさいなど逆説法されたりして、わたくしをまだ深く知らなかった市川さんはいささか心の動揺をしていた時でしたから。」。金子(1992)、322頁。
  19. 1988年 堀場清子『青鞜の時代』岩波書店